新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

「英語力とは」を考える

2017-05-25 09:20:04 | コラム
英語が持つ難しさと嫌らしさ:

もう何年前のことかは覚えていないが、日本で生まれ育った日系カナダ人を父に持つ青年が高校生の頃に「英語は楽ですよ。理数系と違って覚えるだけで済むのだから」と言ったのが非常に印象的だった。英語は難しくないと断言した珍しい例だった。彼の見解が正しいか否かは措くとして、我が国の学校教育における英語では、生徒や学生が英語を何かとても難しいものと思ってしまうような教え方をしているのではないかと、私は真剣に疑っている。

何も英語を科学的に分析しなくても直ぐに解る面倒くささを挙げてみれば、語順が日本語とは違う、日本語の文法とは違いすぎる(例えば三人称単数の場合は動詞の後に”s”を付ける)、定冠詞と不定冠詞をその場その場で正しく使い分ける、不規則動詞の方が規則動詞よりも遙かに沢山ある、未来形・現在形・過去形・過去完了形・大過去形を適切に使い分ける、時制の一致を求められる、直接・間接話法がある、仮定法がある、品詞とは異なる分類がある等々数え切れないほどの要素がある。

アメリカにはこういう冗談があった。それはその昔に野球が存在しなかった頃のこと。現在の野球と全く同じルールでの新規のスポーツ”Baseball”を発案した人がいた。彼はこのスポーツを推進すべくその分野を所管する部門を訪れて事細かに説明して新規採用を願い出たそうだ。だが、担当者に「そんな面倒なゲームの進め方と細かすぎる規則で縛った競技が受ける訳がない」と一蹴されたというのだ。

英語の難しさを上記に並べたのだが、これほど七面倒くさい文法(=規則)で縛り上げられた言語をきちんと科学的に整理して恰も数学を教えるように、児童や生徒や学生に優劣の差を付ける判定をしながら教えていれば「何だ、こんな難しいもの。好きになれない」と思ってしまう者たちが出てくるのは仕方がないのではないのか。丁度、Baseballは難しいから採用しないと拒絶されたように。

このような英語が持つ難しさと面倒くささを如何にして克服させるか、または自分で克服する道を切り開かないことには、現在の「科学としての英語」の教え方を根本的に変えることを考えない限り、小学校から教えようと、native speakerを何万人連れてきて教えさせようと結果は変わらないと思うのだ。おっと、本稿は我が国の英語教育批判の目的ではなかったのだ。

*文法の難しさ:
私は文法を教えるのは不思議なことだと思っている。我々は学校で「国文法」を教えられて日本語を話しているのではないし、国文法の試験を受ければ碌な点が取れなくともちゃんと日本語が話せている。だが、学校教育でイヤと言うほど英文法を教えられても「流暢な英語」を話せるようになる保証はない模様なのだ。しかし、英語学者は数多く出ておられるし、英書講読などでは非常に難しい教材が使われている。

どうやら、初めから規則で縛り上げて教えると英語学には精通するし、学者は養成出来るが、言葉にして自分の思うところを自在に表現する力は養えないようだ。だから、1990年に指摘したことだが、我が国の学校教育における英語は「児童乃至は生徒に優劣の差を付ける為に教えている」のであって、自己の意思を表現する手段乃至は方法を教えているのではないと言うことだ。

文法尊重だとそういう結果になるということだと思う。要するに遺憾ながら、”I know how to express myself in English.”とはならないのだ。

私は幸いにして文法的に正確な英語で自分の思うところを表現出来るようになったし、大学までの英語の試験で文法の範疇で失敗したことはない。これは自慢話ではないのである。私は何度も何度も主張してきたように「英語の勉強は教科書を意味が理解するようになるまで何度でも音読し、暗記して暗唱が出来るまで何十回でも続けること」を実行してきた。その間に勿論、文法即ち規則の勉強も怠らなかった。

そうすることで「三人称単数の”s”だろうと、不定冠詞だろうと、時制の一致だろうと何だろう」と間違えることなく口から出てくるようになったのだった。音読を続けていれば自ずと意味も解ってくるのだから、英文和訳の勉強などはした記憶もなかった。この勉強法で「本当に英語が解るようなるか」との疑問が出るだろうが、高校3年の時に教えて頂いた鈴木忠夫先生は「それで良い。

間違った文章が口から出なくなるまで音読し続けなさい」と言って下さった。換言すれば「難しい文法の規則などは忘れて文章の形で覚えておこうと音読すれば良いのだ」となる。但し、この方法には「本当にそんなことで良い成績が取れるか」と恐れられた親御さんも生徒、学生も、社会人もいた。だが、これで成功した例は私以外にもいたのも紛れもない事実だった。

*単数・複数:
これも我が国にはない観念なので厄介だ。それが証拠に「カタカナ語」にする段階で99.99%複数形は葬り去られているではないか。加えて言えば、所有格の”s”も追放されている。名詞には集合名詞、可算名詞、不可算名詞のような複雑な分類がある。そうかと思うと、不特定少数か多数か解らない場合に”they”を使わせられるし、集合名詞などは如何なる代名詞を使えば良いのか迷わされる。困ったものだ。

*定冠詞と不定冠詞:
これなどはnative speakerたちでさえ「使い分けに自信がない」と言うほどだ。「こんなものを、我が国のように文化も思考体系も異なる国の者に使いこなせる訳がない」くらいに割り切っていても良いだろうとすら思う時がある。文法を間違えると無教養だと見做される危険性があるとは言ったが、native speakerたちでさえ自信がないと言うのから、我々外国人がこの使い方を間違えても問題なしと割り切ろう。

*時制の一致:
私は何時のことだったか同僚に「君にとって英語での最難関だと思うことは」と尋ねられ、その場で出てきたのがこの”Sequence of a tense”だった。これは直接話法では問題ないが、間接話法では途方に暮れることが度々あった。それは如何に英語でも過去完了より先がないので、発言の順番が付けられなくなるからだった。native speakerたちがどう対応するかを訊けば良かったと思っている。

因みに、某有名私立大学のT教授がその分野でのアメリカ最高権威の学術誌に掲載されるべき論文のお手伝いをした時に一度却下された理由が「内容は合格だが、時制の一致と定冠詞と不定冠詞の使い方に疑問がある」だった。身震いがするほど恐ろしかった。

*言葉の種類:
文法に言う「品詞」(=part of speech)の他に「口語体」、「俗語」(=slang)、「慣用句」(=idiomatic expressions)、「汚い言葉」(=swearword)が挙げられる。これまでの経験で言えるのだが、学校教育では現実に日常的に使われているこれらの言葉には触れていないようだ。詳説は避けるが、何処かで教えておく必要がある。そうでもないと、とんだ下層階級の仲間入りをしてしまう危険性があるのだから。

私は最も困ることだと思うのが「ある特定の業界や分野において普通に使われる隠語や符牒のような言葉」である”slang”と、「汚い言葉」(=swearwordであり、無教養と下層階級であると疑われる)が混同されていることだ。この二つは断固として違うと言っておく。”slang”を使うことが下品であるとは言えないのだ。

結び:
以上で英語が持つ、日本語にはない難しさの一部は述べたとは思う。と言うのは、これらは私が感じた難しさであって、難しさは各人の受け止め方によって違ってくると思う。各人がその難しさを分析して、如何にして克服して自分が目指すところに到達されるよう励んで頂きたいと願っている。確認だが「英語は文化も思考体系も違う余所の国の言葉だ」ということ。


5月23日 その2 ICTかの進歩発展は何処まで行くのか

2017-05-24 14:04:38 | コラム
サイバー攻撃の行く末は:

私はICT化の目覚まし過ぎる進歩・発展は誠に結構なことだとは思って、蚊帳の遙かな外から眺めてきた。言うなれば「デイジタル・デイバイド」世代の負け惜しみであろうか。例えば、2007年9月に成田空港に行ってタッチパネルでのチェックインにドギマギし、何とかPCを使えるような技術(!?)を活かして荷物まで無事に預けることが出来たのだったが、「何と言う悪い時代になったものだ」と声を出さずに怒り狂っていた。

この度の身代金サイバー攻撃を見るに付け聞くに付けて、デイジタル・デイバイド世代として以前から不安に思っていたことが一層ハッキリと思い浮かんできたのだった。それは極めて簡単なことで、マスコミが嬉しそうに自動運転だの無人運転などと囃し立てる自動車産業界が送り込もうとする次世代の車である。こんな危ないものはないのではないかと思うのは、後期高齢者の戯言だろうか。

言いたいことは、世界150ヵ国だったかにそのウイルスを撒き散らすような技術がある連中がこの広い地球の何処かに何千人何万人といるはずだと、23日夜のPrime Newsに登場された専門家が教ええて下さった。と言うことは、そういう連中からすれば今や自動車無人操縦のアプリケーションなのかソフトウエアなのか知らないが、そのファイヤーウォールを破って侵入する研究くらい開始しているだろうか危惧しているという意味だ。

畏メル友RS氏は「○○時までにビットコインで1000万円払わないと東京湾へダイブするとか・・・すぐにドラマになりそうですが、杉下警部殿も相当PCに詳しくないと解決はできません。」と指摘された。面白いドラマが出来そうではないか!?

それだけではない、こういうコンピュータ関連のソフトウエアなのだろうか、アプリケーションなのだろうか、にはバグのようなものが生じて操縦中に狂いが生じることはないのかなと思わずにはいられないのだ。2006年に入れた2代目のPCの設定に来てくれたエンジニアは「今日ここにお届けに上がったPCが精密機械である以上、何らかの欠陥があるかも知れないとご承知置き下さい」と堂々と宣言した。

あれから10年以上を経たからにはPC制作の技術も進歩しただろうが、ソフトもアプリも進歩しただろうから、一層何らかの新たな欠陥を内蔵してはいないのかなどとデイジタル・デイバイド世代は考え込んでしまう。車の自動操縦とPCの何れがより簡単なものなのか、または遙かに複雑で難しいものなのかは想像も出来ないが、サイバー攻撃をするような連中は準備怠りなくその機会を待っているのではないのか。

この世界はモグラ叩きか、賽の河原か、頭が尻尾を追っているのか(”head chasing tail”などと言うが)、日進月歩か、AIを追い続けるのか、人工的な非現実的な需要を追っているのか等々は、デイジタル・デイバイド世代の私には想像も出来ない。だが、途方もない時代に入って行こうとしているような恐ろしさが見える気がしてならない。

そうかと言って、研究開発の飽くなき追及を放棄すれば「何処かの国がやり遂げてしまい、我が国は置いて行かれるだけなのかも知れない」という恐ろしさもあるでは。こんな心配はデイジタル・デイバイド世代の杞憂に終わってくれることを願って終わる。


サイバー攻撃

2017-05-24 07:53:40 | コラム
Wanna cry ransom ware:

23日のPrime Newsはこの世界150ヵ国だったかで猛威を振るっていると聞く「身代金サイバー攻撃」とでも言えば良いのだろう「ウイルス」の特集だったので、大いに興味と関心を持って見ていた。専門家のご意見と解説を拝聴すれば、有り難いことにこのサイバー攻撃なるものが如何なる悪かということが少しは解るようになった。なお、掲題の綴りがこれで正解かどうかは自信がない。

私が意外に思ったことは、元農水大臣で確か西川公也前TPP委員長の後を継いだはずの森山裕衆議院議員が専門家の席に座っていた点だった。私は森山氏は失礼な表現かも知れないが、高卒で鹿児島市議会議員から国会に出てこられた農林水産分野を専門とされているという程度の認識だった。その森山議員が出てこられて一体何を語られるかということにも興味があった。

ところが、森山裕衆議院議員のサイバーテロやウイルスの世界的情勢についての知識はなかなかのもので、時折隣席の専門家に助言は求められたが堂々たる解説ぶりだった。私には驚きで、自民党では彼のようにインターネットについて専門的(なのだろう)見識を持った議員がいるとは非常に結構なことだと思った。森山議員はアメリカ等の外国を回られてこの分野の権威にも会っておられたようで70歳を超えた年齢でこの分野に挑戦しておられたことにも敬意を表さねばならないかと考えさせられた。

森山議員礼賛はこれくらいにして、あのサイバー攻撃はDPRKが絡んでいるとは報道されているが、この方面ではアメリカ、ロシア、中国、イスラエル、フランス等々多くの国が多大な資金と人材を投じていると専門家たちが語られた。どうやら何処の国が仕掛けていることかは断定されていない模様だった。その恐ろしさと恐ろしくない点も聞けた。

更に何故、どのようにしてウイルスが拡散していくかの解説もあったので、大袈裟に言えば「何時我が家のPCがそれに犯されるかなどは予想も出来ず、Windowsを常に更新しておかない限り侵入される危険性はある」と教えて頂けたのだった。だが、これ以上私の習得した事柄を披露する勇気はない。何分にも「デイタル・デイバイド族」だし、森山議員よりも一回り上の年齢であるのだから。

それにしても、森山議員のあの番組への登場には新鮮な驚きがあったと言えば失礼に当たるだろうか。

5月23日 その2 Uberが利用されていた

2017-05-23 16:18:04 | コラム
過疎の村でUberが:

先週だったか、NHKで再放送を含めて2度も過疎の村(申し訳ないが何処の県だったかを失念)で高齢のご婦人がやおらタブレットを取り出して”UBER”というサイトを開き、顔写真を見ながら送迎をしてくれる人を呼んで依頼している場面を見せられて、家内とともに色々な意味で感心し且つ感服したのだった。恥ずかしながら、我妻はガラケーは何とか操作出来てもタブレットは使えないだろうと自信たっぷりだった。

その高齢の老婆は「これがあるお陰で何処にでも行けるようになった」と感謝しながら、ドアに何事かが表示してある自家用の軽自動車で迎えに来てくれた老人に送られて何処かに出ていった。費用はタクシーの半分ほどで済むそうだ。もう一つの例では、老夫婦が矢張りタブレットを操作して車を呼びタクシーであれば片道3千数百円はかかる病院までを千六百円ほどで出掛けていったのだった。往路はどうなっているかは知らないが、やはりこの新制度に大いに感謝していた。

私はUberなるアメリカで始まったシステムにはさして知識がなく、スマートフォンのアプリケーションであり、合法的な白タクのようなもので、我が国にも進出していたらしい程度のことしか知らなかった。それが過疎の村でにも応用されていたとは些か驚いたのだった。また、PCなどを使い慣れているとは見えない高齢者がタブレットを操作して、送迎を依頼していたのには「時代が変わったものだ」と唯々感心していた。

それと同時に、若者が何を求めているのか、この出てきただけでは何の役に立つのかとも思えない東京と、それ以外の大都市に指向してしまう現代にあっては、取り残された高齢者の交通手段にUberを利用しようとされた地方の行政(なのだろう)の発想には敬意を表したいとすら思った。同時に、過疎地においては高齢者が自分で運転が出来なくなった場合の選択しにUBERがあるとは想像も出来なかった。

因みに,”Uber”とは如何なるものかを検索してみると、知恵蔵には下記のようにあった。

引用開始
<スマートフォン経由で、ハイヤーのような運転手付の高級車を呼ぶことができるシステム。同システムを運営する会社や、利用する車及び利用するためのスマートフォンアプリの名称を指すこともある。「Uber」は、2010年に米国サンフランシスコでスタートし、14年9月現在、英国、フランス、オーストラリア、シンガポール、中国、日本など45カ国、100以上の都市で利用できる。14年3月3日にはUber社が日本市場へ参入したため、14年9月現在、東京都心での利用が可能となっている。

Uber利用者は、スマートフォンに専用アプリをダウンロード、インストールし、初回に、名前、メールアドレス、クレデイットカード番号などの情報を登録する必要がある。>
引用終わる

となっているところを見ると、その地方では恐らくスマートフォンよりは大きくて扱いやすいタブレットを導入したのかと思って見ていた。重ねて言うが「時代は進歩して変わっていくもの」だと痛感したのだった。


英語力とは

2017-05-23 08:57:57 | コラム
英語力を考える:


また、こむずかしい英語の話かなどと思われずにお読み願えれば幸甚である。

回顧談:
「英語力」などとは言ってみたが、これが具体的に何を意味するかは茫洋として不明な気がする。私は1945年の4月から中学の1年生として初めて敵性語の英語の勉強を始め、1994年1月末でW社をリタイヤーするまでの間に、英語と公式的に縁が切れていたのは日本の会社に勤務していた17年半のそのまた間の16年間だけだった。その16年間には「英語は普通の人よりは解るので、趣味として親しんでいこうか」といった程度に考えていた。

思い起こせば、非常に優れた英語教育をして頂いたと今でも感謝している湘南中学から高校を通じて、一度も「英語を話すこと」乃至は「英語で話せるようになること」を教えて頂いた記憶はない。飽くまでも総合的な科学としての英語を学ぶことに集中していたとお思う。換言すれば、何処まで行っても「学問」なのである。しかしながら、英語で話す時にはその「学問」がものを言うことを忘れてはならない。それは何とも指摘してきた「文法を間違えるようでは無教養な奴」と見做されることだ。

1972年8月にアメリカの会社に変わってからは英語は趣味どころか、生活の為にはなくてはならない手段となり「上手いとか下手とか言う次元にはないもの」に変わってしまった。そもそも、あの1954年頃の三白景気が終わりに近くなり未曾有(当時)の就職難の時期に、敢えて英語を使わねばならない外資を避けて就職させて頂いたのだった。それにも拘わらず17年経ってからその外国の会社に転じたのだったから、英語などは出来て当たり前で評価の対象などになるはずもないのだ。

2017年の現在ではその英語の世界だったアメリカの会社を離れて23年である。その間にも折角習い覚え、使いこなしていた英語を放っておくのは勿体ないという思いは常にあった。偉そうに言えば、何とかしていくらかでも次世代の為に残して置くか残せる方法はないのかなどと考えたこともあった。とは申せ、何時までも過去にしがみついているのもみっともないのかなという気もしていた。

その一方で多くの方のご厚意で「英語とは」であるとか「どうすれば自分の言いたいことを英語で言えるようになるのか」や英語の理解なくしては認識出来ないだろう「日米企業社会の文化比較論」を大学、商社、市民講座等で語る機会を与えられてきた。率直に言えば「我が国の学校教育における英語教育の至らなさ」をあからさまに語り且つ書いても来た。「英語とEnglishは違う」と力説した。

話す力=自分の思うところを表現する能力:
リタイヤー後の23年間で解ってきたことは元々獲得形質に過ぎない英語力というのか英語は徐々に退化していくもので、最早1年に2~3度しか本当の意味での会話というか自分の思うところを表現するか十分に表現せねばならない機会がなくなると、自分でも呆れ且つ情けなくなるほど単純なというか、折角アメリカ人の中にいて習い覚えた格好良い洒落た表現は出て来なくなっていたのだった。この点は書いてみても同じで、後から読み直すと「何でこんな言葉遣いしか出来ないのか」と嘆いたものだった。

聞き取りの力:
次に衰えたのが聞き取る力で、80歳を過ぎた辺りからテレビから聞こえる音声の聞き取り能力が呆れるほど退化し、特に余り日常的に慣れていなかったQueen’s English(欧州人の英語を含めて)の聞き取りは情けないほど出来なくなった。それではアメリカ人ならば聞き取れるのかと言って、今ではテイラーソン国務長官は南部訛りがきついなと直ぐに解る程度である。

読解力:
自分でも不思議なことは「我が国の学校教育の特徴」として指摘してきた「優れた読解力」が私にも備わっていた模様で、目で追って読んでみれば未だ未だ理解する能力が残っていたのだった。これは、もしかすると、10年ほどお手伝いした某専門出版社の海外ニュースの和訳の仕事の賜物かも知れない。

以上、ここまで述べてきたように「英語で話すこと」即ち、「自分が思うことを英語で表現する能力」(英語では”How to express oneself in English”と言えば良いだろう)を備え、そのように書ける能力があり、読解力をも備わっていることを「英語力」(=English ability)と言うのかと考えている。

発音:
ここまでで「発音」に触れていなかったが、私は持論として「発音が良いのは七難隠す」と主張してきた。それは正しいかそれに近いアメリカ語乃至はQueen’s Englishの発音が出来ていれば、相手も聞き取りやすいし集中して聞いてくれると思うからだ。その発音の正確・不正確なことと綺麗であるかないかは、英語を習い始めた時にどのような教え方をされたか、または何処の国の人に如何なるな訛りで教えられたかに大きく左右されると思う。

階層:
しかも、それだけではなく、私の英語を「支配階層のそれだ」と仏文学のTK博士がいみじくも指摘されたように、例えばアメリカならばどの階層の者に教えられたか、何処の地方出身者に教えられたかで発音もそうだが、英語の質そのものが大きな影響を受けると承知して貰いたい。言葉遣いもそのうちに入れたいので、トランプ大統領が度々ご自分の支持層向けに話す時に使われる”I’m gonna ~.”のようなものは一般的な日本人が使うのは極めて好ましくないのだ。ここは正しく”I am going to .”のように言えるようにするのが先決だ。

言葉の種類:
このような注意すべき言葉遣いの他に「使っただけで教養と育ちを疑われる”swearword”」もあれば、隠語や符牒であって”swearword”ではない”slang”=「俗語」もあれば、「口語的表現」もあるし「慣用句」=”idiomatic expression”もあるので、こういうことを教えるのであれば、何時何処の段階にすべきかという問題もあるだろう。私はこれだけではなく「日本語と英語の世界における文化と思考体系の違い」を教えておかないと、何時何処で「無意識の非礼」や「礼儀知らず」を相互に犯す危険性が高いと唱えてきた。

英語を教える:
そこで、最後に残った疑問はと言えば、上記の全ての事柄というか項目を理解し、認識して使いこなせる必要がある人が日本全体で何パーセントいるのかということだ。英語英語と騒ぎ立てるが、どの段階を目指して学校で教えれば良いのかが監督官庁でお解りなのかと疑う。また、上記のようなことを全て解った上で、異文化の世界で過ごした方がおられない限り、完全な英語力を備えられるような人を育てられる人がどれだけいるのかという疑問も生じる。

次回には「私が感じた英語の難しさ」を採り上げて見たいと考えている。