英語が持つ難しさと嫌らしさ:
もう何年前のことかは覚えていないが、日本で生まれ育った日系カナダ人を父に持つ青年が高校生の頃に「英語は楽ですよ。理数系と違って覚えるだけで済むのだから」と言ったのが非常に印象的だった。英語は難しくないと断言した珍しい例だった。彼の見解が正しいか否かは措くとして、我が国の学校教育における英語では、生徒や学生が英語を何かとても難しいものと思ってしまうような教え方をしているのではないかと、私は真剣に疑っている。
何も英語を科学的に分析しなくても直ぐに解る面倒くささを挙げてみれば、語順が日本語とは違う、日本語の文法とは違いすぎる(例えば三人称単数の場合は動詞の後に”s”を付ける)、定冠詞と不定冠詞をその場その場で正しく使い分ける、不規則動詞の方が規則動詞よりも遙かに沢山ある、未来形・現在形・過去形・過去完了形・大過去形を適切に使い分ける、時制の一致を求められる、直接・間接話法がある、仮定法がある、品詞とは異なる分類がある等々数え切れないほどの要素がある。
アメリカにはこういう冗談があった。それはその昔に野球が存在しなかった頃のこと。現在の野球と全く同じルールでの新規のスポーツ”Baseball”を発案した人がいた。彼はこのスポーツを推進すべくその分野を所管する部門を訪れて事細かに説明して新規採用を願い出たそうだ。だが、担当者に「そんな面倒なゲームの進め方と細かすぎる規則で縛った競技が受ける訳がない」と一蹴されたというのだ。
英語の難しさを上記に並べたのだが、これほど七面倒くさい文法(=規則)で縛り上げられた言語をきちんと科学的に整理して恰も数学を教えるように、児童や生徒や学生に優劣の差を付ける判定をしながら教えていれば「何だ、こんな難しいもの。好きになれない」と思ってしまう者たちが出てくるのは仕方がないのではないのか。丁度、Baseballは難しいから採用しないと拒絶されたように。
このような英語が持つ難しさと面倒くささを如何にして克服させるか、または自分で克服する道を切り開かないことには、現在の「科学としての英語」の教え方を根本的に変えることを考えない限り、小学校から教えようと、native speakerを何万人連れてきて教えさせようと結果は変わらないと思うのだ。おっと、本稿は我が国の英語教育批判の目的ではなかったのだ。
*文法の難しさ:
私は文法を教えるのは不思議なことだと思っている。我々は学校で「国文法」を教えられて日本語を話しているのではないし、国文法の試験を受ければ碌な点が取れなくともちゃんと日本語が話せている。だが、学校教育でイヤと言うほど英文法を教えられても「流暢な英語」を話せるようになる保証はない模様なのだ。しかし、英語学者は数多く出ておられるし、英書講読などでは非常に難しい教材が使われている。
どうやら、初めから規則で縛り上げて教えると英語学には精通するし、学者は養成出来るが、言葉にして自分の思うところを自在に表現する力は養えないようだ。だから、1990年に指摘したことだが、我が国の学校教育における英語は「児童乃至は生徒に優劣の差を付ける為に教えている」のであって、自己の意思を表現する手段乃至は方法を教えているのではないと言うことだ。
文法尊重だとそういう結果になるということだと思う。要するに遺憾ながら、”I know how to express myself in English.”とはならないのだ。
私は幸いにして文法的に正確な英語で自分の思うところを表現出来るようになったし、大学までの英語の試験で文法の範疇で失敗したことはない。これは自慢話ではないのである。私は何度も何度も主張してきたように「英語の勉強は教科書を意味が理解するようになるまで何度でも音読し、暗記して暗唱が出来るまで何十回でも続けること」を実行してきた。その間に勿論、文法即ち規則の勉強も怠らなかった。
そうすることで「三人称単数の”s”だろうと、不定冠詞だろうと、時制の一致だろうと何だろう」と間違えることなく口から出てくるようになったのだった。音読を続けていれば自ずと意味も解ってくるのだから、英文和訳の勉強などはした記憶もなかった。この勉強法で「本当に英語が解るようなるか」との疑問が出るだろうが、高校3年の時に教えて頂いた鈴木忠夫先生は「それで良い。
間違った文章が口から出なくなるまで音読し続けなさい」と言って下さった。換言すれば「難しい文法の規則などは忘れて文章の形で覚えておこうと音読すれば良いのだ」となる。但し、この方法には「本当にそんなことで良い成績が取れるか」と恐れられた親御さんも生徒、学生も、社会人もいた。だが、これで成功した例は私以外にもいたのも紛れもない事実だった。
*単数・複数:
これも我が国にはない観念なので厄介だ。それが証拠に「カタカナ語」にする段階で99.99%複数形は葬り去られているではないか。加えて言えば、所有格の”s”も追放されている。名詞には集合名詞、可算名詞、不可算名詞のような複雑な分類がある。そうかと思うと、不特定少数か多数か解らない場合に”they”を使わせられるし、集合名詞などは如何なる代名詞を使えば良いのか迷わされる。困ったものだ。
*定冠詞と不定冠詞:
これなどはnative speakerたちでさえ「使い分けに自信がない」と言うほどだ。「こんなものを、我が国のように文化も思考体系も異なる国の者に使いこなせる訳がない」くらいに割り切っていても良いだろうとすら思う時がある。文法を間違えると無教養だと見做される危険性があるとは言ったが、native speakerたちでさえ自信がないと言うのから、我々外国人がこの使い方を間違えても問題なしと割り切ろう。
*時制の一致:
私は何時のことだったか同僚に「君にとって英語での最難関だと思うことは」と尋ねられ、その場で出てきたのがこの”Sequence of a tense”だった。これは直接話法では問題ないが、間接話法では途方に暮れることが度々あった。それは如何に英語でも過去完了より先がないので、発言の順番が付けられなくなるからだった。native speakerたちがどう対応するかを訊けば良かったと思っている。
因みに、某有名私立大学のT教授がその分野でのアメリカ最高権威の学術誌に掲載されるべき論文のお手伝いをした時に一度却下された理由が「内容は合格だが、時制の一致と定冠詞と不定冠詞の使い方に疑問がある」だった。身震いがするほど恐ろしかった。
*言葉の種類:
文法に言う「品詞」(=part of speech)の他に「口語体」、「俗語」(=slang)、「慣用句」(=idiomatic expressions)、「汚い言葉」(=swearword)が挙げられる。これまでの経験で言えるのだが、学校教育では現実に日常的に使われているこれらの言葉には触れていないようだ。詳説は避けるが、何処かで教えておく必要がある。そうでもないと、とんだ下層階級の仲間入りをしてしまう危険性があるのだから。
私は最も困ることだと思うのが「ある特定の業界や分野において普通に使われる隠語や符牒のような言葉」である”slang”と、「汚い言葉」(=swearwordであり、無教養と下層階級であると疑われる)が混同されていることだ。この二つは断固として違うと言っておく。”slang”を使うことが下品であるとは言えないのだ。
結び:
以上で英語が持つ、日本語にはない難しさの一部は述べたとは思う。と言うのは、これらは私が感じた難しさであって、難しさは各人の受け止め方によって違ってくると思う。各人がその難しさを分析して、如何にして克服して自分が目指すところに到達されるよう励んで頂きたいと願っている。確認だが「英語は文化も思考体系も違う余所の国の言葉だ」ということ。
もう何年前のことかは覚えていないが、日本で生まれ育った日系カナダ人を父に持つ青年が高校生の頃に「英語は楽ですよ。理数系と違って覚えるだけで済むのだから」と言ったのが非常に印象的だった。英語は難しくないと断言した珍しい例だった。彼の見解が正しいか否かは措くとして、我が国の学校教育における英語では、生徒や学生が英語を何かとても難しいものと思ってしまうような教え方をしているのではないかと、私は真剣に疑っている。
何も英語を科学的に分析しなくても直ぐに解る面倒くささを挙げてみれば、語順が日本語とは違う、日本語の文法とは違いすぎる(例えば三人称単数の場合は動詞の後に”s”を付ける)、定冠詞と不定冠詞をその場その場で正しく使い分ける、不規則動詞の方が規則動詞よりも遙かに沢山ある、未来形・現在形・過去形・過去完了形・大過去形を適切に使い分ける、時制の一致を求められる、直接・間接話法がある、仮定法がある、品詞とは異なる分類がある等々数え切れないほどの要素がある。
アメリカにはこういう冗談があった。それはその昔に野球が存在しなかった頃のこと。現在の野球と全く同じルールでの新規のスポーツ”Baseball”を発案した人がいた。彼はこのスポーツを推進すべくその分野を所管する部門を訪れて事細かに説明して新規採用を願い出たそうだ。だが、担当者に「そんな面倒なゲームの進め方と細かすぎる規則で縛った競技が受ける訳がない」と一蹴されたというのだ。
英語の難しさを上記に並べたのだが、これほど七面倒くさい文法(=規則)で縛り上げられた言語をきちんと科学的に整理して恰も数学を教えるように、児童や生徒や学生に優劣の差を付ける判定をしながら教えていれば「何だ、こんな難しいもの。好きになれない」と思ってしまう者たちが出てくるのは仕方がないのではないのか。丁度、Baseballは難しいから採用しないと拒絶されたように。
このような英語が持つ難しさと面倒くささを如何にして克服させるか、または自分で克服する道を切り開かないことには、現在の「科学としての英語」の教え方を根本的に変えることを考えない限り、小学校から教えようと、native speakerを何万人連れてきて教えさせようと結果は変わらないと思うのだ。おっと、本稿は我が国の英語教育批判の目的ではなかったのだ。
*文法の難しさ:
私は文法を教えるのは不思議なことだと思っている。我々は学校で「国文法」を教えられて日本語を話しているのではないし、国文法の試験を受ければ碌な点が取れなくともちゃんと日本語が話せている。だが、学校教育でイヤと言うほど英文法を教えられても「流暢な英語」を話せるようになる保証はない模様なのだ。しかし、英語学者は数多く出ておられるし、英書講読などでは非常に難しい教材が使われている。
どうやら、初めから規則で縛り上げて教えると英語学には精通するし、学者は養成出来るが、言葉にして自分の思うところを自在に表現する力は養えないようだ。だから、1990年に指摘したことだが、我が国の学校教育における英語は「児童乃至は生徒に優劣の差を付ける為に教えている」のであって、自己の意思を表現する手段乃至は方法を教えているのではないと言うことだ。
文法尊重だとそういう結果になるということだと思う。要するに遺憾ながら、”I know how to express myself in English.”とはならないのだ。
私は幸いにして文法的に正確な英語で自分の思うところを表現出来るようになったし、大学までの英語の試験で文法の範疇で失敗したことはない。これは自慢話ではないのである。私は何度も何度も主張してきたように「英語の勉強は教科書を意味が理解するようになるまで何度でも音読し、暗記して暗唱が出来るまで何十回でも続けること」を実行してきた。その間に勿論、文法即ち規則の勉強も怠らなかった。
そうすることで「三人称単数の”s”だろうと、不定冠詞だろうと、時制の一致だろうと何だろう」と間違えることなく口から出てくるようになったのだった。音読を続けていれば自ずと意味も解ってくるのだから、英文和訳の勉強などはした記憶もなかった。この勉強法で「本当に英語が解るようなるか」との疑問が出るだろうが、高校3年の時に教えて頂いた鈴木忠夫先生は「それで良い。
間違った文章が口から出なくなるまで音読し続けなさい」と言って下さった。換言すれば「難しい文法の規則などは忘れて文章の形で覚えておこうと音読すれば良いのだ」となる。但し、この方法には「本当にそんなことで良い成績が取れるか」と恐れられた親御さんも生徒、学生も、社会人もいた。だが、これで成功した例は私以外にもいたのも紛れもない事実だった。
*単数・複数:
これも我が国にはない観念なので厄介だ。それが証拠に「カタカナ語」にする段階で99.99%複数形は葬り去られているではないか。加えて言えば、所有格の”s”も追放されている。名詞には集合名詞、可算名詞、不可算名詞のような複雑な分類がある。そうかと思うと、不特定少数か多数か解らない場合に”they”を使わせられるし、集合名詞などは如何なる代名詞を使えば良いのか迷わされる。困ったものだ。
*定冠詞と不定冠詞:
これなどはnative speakerたちでさえ「使い分けに自信がない」と言うほどだ。「こんなものを、我が国のように文化も思考体系も異なる国の者に使いこなせる訳がない」くらいに割り切っていても良いだろうとすら思う時がある。文法を間違えると無教養だと見做される危険性があるとは言ったが、native speakerたちでさえ自信がないと言うのから、我々外国人がこの使い方を間違えても問題なしと割り切ろう。
*時制の一致:
私は何時のことだったか同僚に「君にとって英語での最難関だと思うことは」と尋ねられ、その場で出てきたのがこの”Sequence of a tense”だった。これは直接話法では問題ないが、間接話法では途方に暮れることが度々あった。それは如何に英語でも過去完了より先がないので、発言の順番が付けられなくなるからだった。native speakerたちがどう対応するかを訊けば良かったと思っている。
因みに、某有名私立大学のT教授がその分野でのアメリカ最高権威の学術誌に掲載されるべき論文のお手伝いをした時に一度却下された理由が「内容は合格だが、時制の一致と定冠詞と不定冠詞の使い方に疑問がある」だった。身震いがするほど恐ろしかった。
*言葉の種類:
文法に言う「品詞」(=part of speech)の他に「口語体」、「俗語」(=slang)、「慣用句」(=idiomatic expressions)、「汚い言葉」(=swearword)が挙げられる。これまでの経験で言えるのだが、学校教育では現実に日常的に使われているこれらの言葉には触れていないようだ。詳説は避けるが、何処かで教えておく必要がある。そうでもないと、とんだ下層階級の仲間入りをしてしまう危険性があるのだから。
私は最も困ることだと思うのが「ある特定の業界や分野において普通に使われる隠語や符牒のような言葉」である”slang”と、「汚い言葉」(=swearwordであり、無教養と下層階級であると疑われる)が混同されていることだ。この二つは断固として違うと言っておく。”slang”を使うことが下品であるとは言えないのだ。
結び:
以上で英語が持つ、日本語にはない難しさの一部は述べたとは思う。と言うのは、これらは私が感じた難しさであって、難しさは各人の受け止め方によって違ってくると思う。各人がその難しさを分析して、如何にして克服して自分が目指すところに到達されるよう励んで頂きたいと願っている。確認だが「英語は文化も思考体系も違う余所の国の言葉だ」ということ。