新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

5月28日 その2 5月27日のスポーツ

2017-05-28 15:28:29 | コラム
先ずは川淵三郎氏に敬意を表することから:

27日には多くのスポーツ鑑賞を楽しめた。そこで第一にバスケットボールのBリーグをあそこまで発展させた川淵三郎氏に敬意を表したくなった。ご承知の方は多いと思うが、川淵氏はサッカー協会のチェアマンだった元はと言えば、早稲田のア式蹴球部(昔は確かこの名称だった)出身の名手の一人だった。確か私とは学校年齢では4年下だったと記憶する。

バスケットボール:
そこで、そのBリーグの決勝戦だった栃木対川崎の試合から。自慢話から入れば、私は高校の頃は校内のバスケットボール部員以外では5本の指に入るだろうと自称していたほど熱中していたものだった。それは言うなればコンビを組んでいた近藤君(その頃既にサッカーでは全日本級と言われていた選手で、既に故人だ)とサッカーのパスの原理を応用して走り回ったし、サッカーと違ってタックルが来る訳でもなかったので、怖いもの知らずだった。因みに、近藤君は家業の乳業会社を継ぐべく獣医大学に進み、サッカーを諦めたのは惜しんでも余りあるものだった。

さて、決勝戦である。流石の私にも何らの閃きもなく、希望的観測で田臥勇太が率いる栃木ブレックスに勝たせたいなと願っていた程度。バスケットボールはサッカーや野球よりも遙かに解りやすい競技で、選手たちが人間業とも思えない技術と身長で、次から次へとゴールを決めていくのを見ているのは楽しい。更に、コートサイドで見る機会があれば、あの凄まじいまでの当たり合いと競り合いの迫力には圧倒されるだろう。何よりも良いのはサッカーと違って得点が多くなることかも知れない。

昨日は一度は第3クオーターだったかに7点も話された栃木が最後の最後に坊主頭のアフリカ系選手と田臥勇太の獅子奮迅とでも形容したい働きで川崎を引き離して優勝してしまった。将に手に汗握る熱戦で、あれでは、これから先にサポーターだか応援団として東京に来られた人たち以外にも、一層ファンが増えていくのではないだろうか。

英語の講釈も忘れてはならない。優勝監督のインタビューでウイスマン監督が最後に「ファンの”phenomenalな応援に感謝」と言ったのを聞いて、恐らく通訳さんは訳しきれないだろうと危惧したところ、矢張り全く違うことを言ってお茶を濁してしまった。これは、かなり洒落た言い方で、Oxfordには簡単に”very great or impressive”とある。素晴らしい応援に感謝されたのだった。

六大学野球の早慶戦:
NHKは律儀なものだと感心している。私は甲子園野球と同様に「古き良き時代の血湧き肉躍る娯楽」のように考えているのだが。昨日の試合は慶応の優勝がかかったいるのだそうだが、早稲田の先発投手が選抜で浦和学院(通称浦学)が優勝した時の小島(オジマと読む)だったのは印象的だった。私には「この高校出身の投手は上に行って余り伸びない」という偏見があるが、小島は慶応に満塁本塁打を一本献上したこともあって早稲田の敗因を作っていた。本日の慶応は5回で1点リードされている。この試合を落とすと立教の優勝になるそうだ。

スーパーラグビー:
ラグビー。も採り上げねば片手落ちになる。我らがサンウルブズは南アフリカのチーターズ(Cheetahsだが、似たような音で”cheater”=騙す人、詐欺師といったように意味なるので紛らわしい)と対戦していた。後半の途中の14対7と離されていたところまで見た。大したラグビーをする相手とも見えなかったが、我が方はどちらかと言えば守勢一方で、アナウンサー「ナイスタックル」などと褒めてくれるが、これ即ち、懸命の防御を表していた具合で、申し訳ないが途中で見切ってしまった。最終的に47点も取られた敗戦だった。私が見る限り、全てがもう一歩なのだが、それが全部集まればあのような大差の負けになるようだ。

最後はプロ野球を:
何故巨人はあれほど広島に惨敗が続くのかと同情したくなるような試合だった。私の結論は「所詮は外野手出身で何らのコーチ業の経験もない高橋由伸を監督に祭り上げたことが最大の原因だろう」と思う。勿論、まともな打者も投手も育てていない、ただ単に巨人に古くからいるだけのコーチ陣に過半の責任はあると思う。だが、それよりも悪いのはフロントオフィスだと思う。

それは他球団が使い古したFAの選手を何らの方針もなく買ってくることだ。それで獲ってきた村田がいながら、McGehee(これは「マギーヒー」と読むはずだ)を買ってくる無定見さにも驚かされる。村田の心中如何なものかと察する。更に、国の内外を問わずスカウト網が余りにもお粗末なことだろう。金さえ出せば良いというものではない。

高橋由伸の選手起用の批判は既に取り上げたが、当方があれほど駄目だと言った二塁の中井を引っ込めたのは良かったが、その後釜が年老いた日本ハムからの出戻りの脇谷では何おか言わんやだ。それだけではない、あれほど打てない衰えが見える長野を使い続け、外野には「あれは二軍か」と思わせるほど余所から取ってきた駄物ばかり。

投手陣だって問題が多い。漸く内海を二軍に落としたが、大竹(浦学出身)や宮国を使い続けては、菅野と田口で貯金した分を摺っているだけではないか。私は昨年だったかに、内海、大竹、杉内は戦力外として若手を育成すべきだと主張しておいたのだが。

巨人はスカウト網を充実させて、元手をかけずに獲ってきた若者を育てる技術を広島に教えて貰うべきだ。二松学舎などと言う過去に出たプロ選手では初芝くらいしかいなかった学校から鈴木誠也を獲ってあそこまで育てた辺りを見れば、巨人は球団全員で反省し恥じ入るべきだ。

他にも、菊池、丸、安部、田中、岡田等がどれほど育ったかを見よだ。あそこにジョンソンが復帰し、野村が戻れば一層強くなるだろう。でも、私は巨人が負けることでは気を悪くしない。セントラルリーグでは何時ガス欠になるかと思っていた阪神が頑張っている。DeNAの欠陥は既に指摘した。この有様では交流戦に入れば、セントラルリーグ勢には更なる苦難の道が待っているのではと危惧する。


トランプ大統領が気になる

2017-05-28 08:09:10 | コラム
トランプ大統領がG7を振り回したとか:

初めて参加したトランプ大統領が「アメリカファースト」でG7を振り回したと報じられていた。さもあらんと思った。彼の発言が十分に学習し熟慮した結果か、または単なる衝動的な子とかの判断は極めて難しいのだ。私は彼が共和党の候補者選びに参加してキャンペーンを開始した頃から「彼は無知ではないのか」と「無知の力」(=”Ignorance is right.”)の持ち主だと批判してきた。その頃に最も悩んだことは「彼の主張は十分な知識に基づいているのか、あるいは単なる不動産業者の思い付きなのか」が俄に判断できなかった点だった。

そのダニエル・トランプ候補者が遂には大統領に選ばれて「アメリカを再び偉大に」と「アメリカファースト」を実践することになってしまった。就任後はその2大スローガンに基づいた慎重に検討した政策なのか、あるいは衝動的に思いついたことをTwitter(これをどう読めたツイッターになるのか不可解だし、ツイートと動詞にするなど論外)で発表し、何者をも恐れない勢いで”Going my way”となったのだった。

そして、散々物議を醸した大統領令を、敢えて言えば、乱発して国の内外に要らざる波紋を巻き起こしていったのだった。その政策の中には一面的に見れば、決して批判すべきとも思えない不法移民を閉め出すようなものもあったが、イスラム教国やイスラム教徒からの反発を招いた。メキシコとの国境に壁を造りメキシコに100%の費用を負担させるという件は確かに勇猛果敢だったが、メキシコにも反対され予算も付かないとなったらほとんど言わなくなってしまった。

TPPからの離脱はキャンペーン中の目玉だった趣があるが、オバマ政権の置き土産であれば反対されるのも理解は出来るが、アメリカファーストを表しているとは言え常軌を逸していると感じた。また我が国や中国とメキシコを悪者にして「貿易赤字解消」を唱えるのも勇壮だが、アメリカの今日までの全世界との貿易の歴史を承知していれば、とても言い出せるような性質ではないし、自国が内需依存で世界に通用するような強力な輸出国でではないと知らないから言い出せることだとしか、私には思えないのだ。

我が国について考えれば、自動車の輸入が多すぎて怪しからんし、アメリカからの自動車の輸入が振るわないのは日本の責任であるかの如くに主張するのは、私に言わせれば「歴史認識の不足」であり「無知である」と言うしかないのだ。こんな戯言にまともに付き合っていく必要はないのだ。安倍総理以下はトランプ大統領の知識と認識の不足を是正する努力を怠ってはならない。何としても「知らなかったこと」を思い知らせらねばなるまい。

最早、就任後100日を過ぎたのだが、その間にどれほどアメリカの政治・経済・軍事・貿易・外交等の裏と表の実態を学習されたか知らないが、私には未だに学習の過程にあるとしか思えない点が多々ある。これについては信ずべきか否かは別にして、デーブ・スペクターは「大統領は側近や大臣等からのご進講をほとんど聞き入れない」と言っていた。

私はトランプ大統領が打ち出される政策の中には、キャンペーン中のものをも含めて「尤もだ」と思わせてくれる素晴らしい案件もあれば「何を言うのか」と呆れさせてくれるものもある。イスラム圏7ヵ国からの入国禁止の大統領令などは後者に属するとお思う。私は正当な根拠と裏付けがあるものと、無知の産物で衝動的な案件との選別は「一旦唱え出したが、時が経つにつれて言わなくなったこと出来る」のではないかと思っている。

最近の例には「金正恩とは話し合いで非核化を達成できる」と言い出して件がある。アメリカだけの例を考えても、金日成から金正日の頃までに何度DPRKと交渉し、6ヵ国会議(英語では”Six party talk”で、会議とはなっていなかった)を重ねて如何なる成果があったのかと考えると、これは無知の産物で衝動的だろうとしか思えない。だが、アメリカ大統領の発言である以上軽くは扱えない点が難しいのではないか。

即ち、もしも金正恩と話し合うことで問題が解決できれば素晴らしいのは間違いない。トランプ大統領は、恐らく「乃公出でずんば」の意気込みがあるのだろう。そうであれば、自己過信と言うべきではなく善意から出た発言なのかも知れない。私には益々解りにくくなるお方だと思えて仕方がないのだ。G6の代表者のお偉方の気持ちが解る気がする。


5月27日 その2 我が国とアメリカの会社の違い

2017-05-27 11:51:24 | コラム
新潮新書「警察手帳」を読んで:

この警察官僚だった古野まほろ氏(ペンネームだと思うが)の著作を読んで、そこに描かれた警察組織の中での階級と昇進や専務の話から、ふと日本の会社とアメリカの会社における昇進や身分や階級制度等々のことを思い浮かべていた。

もう何年も前に離れてしまった勉強会で、主宰者が興銀の元常務だったH氏だったが、ある時に当日の議題だった日本の会社における社員教育や人事制度の話が終わって雑談に入った時に、何気なく「日本の会社を離れていて良かった」と言ってしまった結果で大顰蹙となり、何故良かったかを言う前に議論が止まってしまったことがあった。こういうことまで思い出していたのだった。

その時には講師役だった方が日本の会社における集団での社員教育の長所を力説されたのは良く解ったが、会社によって異なるが一定期間は入社年次による恨みっこ無しの昇進が続くが、そこから先の評価というか査定には我が国独特のものがあり、アメリカのような生存競争よりも抜きつ抜かれつのような点があるのは諸刃の剣ではないのかと思っていた。

しかしながら、我が国の会社組織においてはアメリカのように初めから絶対に身分が垂直上昇することはない階層が存在しないのは、アメリカよりも遙かに平等な仕組みではあると思っている。我が国ではその人の出自がアメリカのように将来を決めてしまうことがなく、修士号を持っていなければ昇進もままならないことはないのは、アメリカから見れば寧ろ悪平等に近いほど公平のかも知れない。

我が国ではその年の大学の新卒者が採用され、会社の方針の下に教育され、その働きぶりが上司も兎も角人事部で査定され評価され、昇進に大きな影響を与えている制度だと思う。そこには全員に対して均等な機会が与えられていて、実績を積み重ねて昇進し、何時かは役員に選任されその先には社長の座も待っているのだ。言わば民主的であり良い制度だと思わせてくれる。

アメリカではそうは行かない。銀行や証券会社を除けば四年制大学の新卒者の定期的大量採用→教育→現場配属→昇進というコースは設定されていない。事務職(clerkで良いだろう)で中途採用された者は生涯その身分から離れることはなく、実績次第で引退するまで昇給はするが(勿論据え置きも減俸もあり得る世界だが)そのままで終わるのだ。この点を表立った不満だと言う者は少ない。

彼らは大学を出た後で何処か中小企業で腕を磨いて大企業に採用されるのを待つか、自分から売り込む以外は大手に入り込める機会は巡ってこない。大手ではリタイヤー者が出て欠員が生じたか、転職者が出たか、鶴首した者が出たか等々の場合に補充するのであって、その為の要員を雇用しておくことなどしていかないのだ。このような階層からある程度の規模の組織の長に選ばれることなど先ずないと思っていて間違いではない。

では、どこから組織の長が選ばれるかだが、ある日突然余所の会社から転職してくる経営学修士号(MBA)を持つ者が事業部長(=general manager)として君臨するか、時には一流私立大学のMBAが”manager”として採用されるのだ。同じ社内の別の部門からMBAが転じて来て君臨することはある。しかも、そのMBAにもハーヴァードのような有名私立大学と州立大学のそれとでは、言うまでもないことで格差がある。

そういう出世というか管理職に選ばれる者が歩む道筋を”speed track”と称しているが、確かに事務員や州立大学出身者を尻目に事業部長や副社長に任じられていくのだ。私は学閥はないとは聞いたが、学歴には、当人の能力が勿論影響するが、差別はあったと思って見てきた。私が1975年にW社に転じた時のCEOに次ぐ#2の位置にあった者は、私と同年のハーヴァードの法科大学出身のPh.D.だった。彼がその地位に上がったのは何と36歳だったそうだ。

実は、私が1974年にW社への転進が決まった際に「私がこの事業部の東京駐在に採用されました」と報告に行かされた人事部(記録を取るだけの部門で、ここには所謂人事権はない)で「君が我が社にいる限り東京駐在のマネージャーの身分が変わることはないと承知か」と念を押されたものだった。即ち、そういう要員を採用したのであって上記にスピードトラックとは無縁であると決めつけられたのだった。

先ほどの勉強会では「我が国の会社では常に社員の質の向上を考えており、集団での社員教育を怠りなく実行している点」を強調された。アメリカの会社でも同様な趣旨での研修会はあるが、それは何分にも出自も学歴も職歴も国籍も性別も異なる集団である以上、何処かで思想統一を図っておく必要があるのだろうと解釈していた。時には「馬鹿にするな」と言いたくなるような初歩的なことを講義するセミナーもあった。

言いたかったことは、我が国では基本的に機会均等であり、会社側が社員を自社の色に染まるように教育して競わせていくのだが、アメリカでは何ら我が国のような平等なところがなく、一定以上の層から出た者たちが学歴を引っ提げて出世競争に参加するという世界であるという違いがある。但し、身分と生活の安定さえ得られれば現在の事務職の層に止まっていても不満はないと認める連中もいるのだ。

兎に角言えることは「自分が最初に採用された会社に恩義を感じて生涯そこに止まって」などと考えている者がいればお目にかかりたい。彼らにとっては会社などは生活の糧を稼ぐ場所であって気に入らなければ次の職を探すのは当然という社会なのだ。私は何度も「君が前にいた会社は何処?」と普通に尋ねられた。また、他社からの引き抜きか転職の勧誘を受けたことがあって初めて一人前であるかの如くに言う世界だ。

即ち、アメリカには社会通念として転職が認められ、労働市場に流動性があるのだ。これが良いか悪いかではなく、このような我が国とは全く異なる企業社会の文化が厳然として存在するのがアメリカであり、我が国で「アメリカではこうなっているから」などと言って真似るべき仕組みではないと思っている。私は図らずも二度も転職を経験してしまったが、最初に日本を会社を辞めさせて頂いた時の大変且つ辛かった経験は忘れられない。

何れにせよ、我が国とアメリカの会社の何れが良いのかなどを論ずる気など毛頭ない。リタイヤーして23年を経た現在、偶々読んでいる本に触発されて、諸賢のご参考の為に振り返ってみた次第だ。何となく、ここまででは言葉足らずのような気もするが、要点は外していないと思っている。私の結論はその人の「向き不向き」の問題だと思う。

最後に一言。アメリカの会社は身分や階級を上げてくれないが「功ある者には禄を以て報いよ」というシステムがあること。

近頃気になること

2017-05-27 09:00:09 | コラム
些か気になる加計学園問題:

私には如何に判断して良いのか容易に結論が出せない案件のように思えてならない。だが、どう考えても民進党を主体とする野党と朝日新聞の狙いは「前川前文科省事務次官を担ぎ出してでも安倍内閣に深手を負わせることが最大にして唯一の目標である」としか思えないのだ。朝日新聞は「安倍の葬式は我が社が出す」と言っていたような新聞だから、今回あそこまでやったのは特に不思議ではないと思う、

民進党は政権にあった頃からおよそ国益などを考慮したことがない連中の集まりだから、あの文科省内の文書を入手すれば居丈高になって安倍総理と内閣に揺さぶりをかけようとするのもまた当然すぎることで、マスコミが挙って民進党の尻馬に乗って大騒ぎするような案件でもないとしか思えない。

だが、菅官房長官が前川氏のいかがわしい場所に頻繁に出入りしていたことを採り上げて個人攻撃的なやり方で言わば先手を打ったようなやり方も、余り綺麗(fair)ではなかったとしか思えない。しかしながら、その点を責められた前川氏の「女性の貧困問題の調査の為」という釈明も到底理解出来るものではない。中央官庁の事務次官たる者の言動とは思えない。

前川氏の暴露的な記者会見の狙いが「安倍内閣がその権威を行使して所管の官庁に影響を与えて総理の友人の教育機関を優先的に扱ったことを批判すること」にあり、さらに「事務次官辞任に追い込まれたことに対する報復」であれば、自らその官庁の責任者として職責を果たせなかったことを反省するのが先ではないかと思うのだ。逆恨みに近いと思う。

国立大学の出身であり、官庁の勤務して国にお世話になり続けてきたことを忘れたかの如くに、行政の長である内閣を批判するのは如何なものかと思うのだ。だが、それを知るや民進党や共産党が飛びつくのはごく自然なことで、そこに朝日新聞が援軍として加わり、昨夜偶然に見ていたテレ朝の報道ステーションでも富川が懸命に共同通信OBの後藤を焚き付けていた。

私には本当に文科省と内閣府が官邸の意向を受けて取り決めたのか、あるいは忖度したのか知る由もない。だが、願わくは安倍内閣はごく普通に否定すべきことは否定し、認めるべきは認めて、民進党と朝日新聞の有志連合(英語にすれば”coalition”だが、近頃のマスコミが好むカタカナ語にすれば「コラボ」かな)の妄動を退けて貰いたいものだ。

だが、遺憾ながら情勢はそれほど簡単なことではないように、彼らは誘導してしまったように思える。見当違いの議論かも知れないが、今治を特区に指定することが正当だとの判断をした根拠があるのだったならば、所管の官庁が公表しても良いのではないのだろうかとすら考える。出来ないのだったならば、それこそ有志連合が喜びそうな問題ではないかと思う。

この世には「上の命令に従うとか、上司の判断には逆らえないとか、それどころか自分たちの手の届かないところからの指示はあるものだ」と思うが、それに逆らうこともなく実施しておいて、今更反撃の記者会見をすることが賞賛されるべき英雄的な行為なのかどうか、私には良く解らないのだ。一強態勢ともなれば彼らはあの手この手で攻めてくるものらしい。

世相雑感

2017-05-26 16:55:14 | コラム
近頃気になった事柄:

昨25日はある勉強会で高齢の論客の方々の世相を斬るとでも形容したいような議論に参加して、気が付けば20時となり、その後は滅多にない遅い時刻の帰宅となった。その熱気を帯びた討論の中からこれと思った話題を抜き出してご紹介する次第。

*文科省の出所不明の文書:

この件にはかなり熱が入った。それは熱烈な安倍総理批判の自営業の社長の論客は「この件で安倍内閣が処理を誤れば退陣に追い込まれることすらあり得ると思う。だが、そこを回避すべく気心が通じている読売を使って前川前事務次官のスキャンダルを記事を書かせるなど姑息で、綺麗なやり方とは言えない。これは如何にも安倍総理と菅官房長官らしい。

だが、仮に安倍総理が退陣したとすると、現在の自民党には後継者と認められるような人材が不在。石破は空念仏のような理屈ばかりを並べているだけであり、総理大臣となった場合に何をするかという理念がハッキリしていない。岸田外相では如何にも力不足にしか見えない。安倍総理の政治にはアベノミクスと言い何と言い、結局の所これという成果が上がっていないと言いたい。

それというのも、碌な経営者がいなくなって東芝のような醜態をさらすような会社が出来たことが示すように、現在の我が国をになうべきあの年齢層の劣化が顕著である」と、誠に手厳しかった。さらに、この意見に同調する方が数名おられたのも興味深い現象だった。私自身も含めて「俺だったらあんなことをしなかっただろう。それにつけても現在のあの連中は」という論調に屡々出会うものだ。

*トランプ大統領論:
論点は、トランプ大統領はこのまま現在のロシアゲートだの何だのという危機を乗り越えられるのか辺りに絞られた感があった。私は共和党が議席の多数を占めている以上「弾劾」にまでは至らないだろうと述べた。と言うことは「辞任か?」である。問題はトランプ大統領自身が自分がやっていること乃至はやってしまったことが悪いとか違法であるとかの辺りに自覚乃至は認識があるかないかだろ思うとも指摘した。

私はトランプ大統領はご承知であれば、おやりになはならなかったと見てはいるのだが。その辺りが自営の不動産会社”D. Trump & Company”の経営者は「今やCEOどころかアメリカ合衆国の大統領なのだから、自分の会社の経営よりも広範囲に何をやっても良い権限を得たのだ」とでも思っておられるのではないかと、一人密かに危惧していると述べた。

昨夜の論客の中には「トランプ大統領の100日一寸の経験では海千山千の習近平やプーチン大統領には及びも付かないのではないか」との強い懸念を示された方がおられた。それ以外の大敵である金正恩対策も大きな問題と言うか課題で、迂闊に先制攻撃でも仕掛ければ、韓国は言うに及ばす我が国もとんだミサイルという飛び火が来るだろうと指摘された。誠に同感である。

*稀勢の里:
話題は大きく変わって相撲だった。私は相撲を好んでおらずテレビの中継など見ることがない。だが、昨夜話題となったのは稀勢の里の低迷である。私はあの負傷と言い休場と言い、彼に大きな責任があるとは見ている。だが、あの二場所連即優勝の後に、嘗ての琴奨菊の優勝の後と同様にマスコミは例によって例の如く、連日連夜稀勢の里を持ち上げ囃し立てた。その進行に伴って、私の目にはテレビに映る彼の顔が恐ろしいほど傲慢な表情になっていったと見えた。これは負傷よりも不味いことで「あれでは駄目だろう」とほぼ断定していた。

私は相撲をスポーツの範疇には入れておらず、あれは江戸時代から連綿と続く我が国の文化である「興業」だと認識している。だが、興業だろうとスポーツだろうと、「試合中に負傷することは何処かに何らかの落ち度があったか、心に緩みがあったこと」なのである。私は同情は無用であると断じている。また、負傷をおして試合に出ることを褒めるもの間違いであると信じている。

英雄視するような報道の姿勢は誤りである。治りきらずに出てきた稀勢の里の心得違いであるし、認めた親方も程度が悪い。高額な入場券を買って(買っていない者も多いと思うがね)見に来て下さったお客様に対しても失礼極まりないのだ。負傷して出て来て無様な負け方をしていることをマスコミはもっと厳しく追及すべきではないのか。そんな記事を書けば協会に出入り禁止にされるのか?だが、流石にこの私独特の相撲とマスコミ批判は余り受けていなかった。残念。