新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

10月28日 その2 水の恩恵と恐怖

2019-10-28 14:11:40 | コラム
水の恐怖と対策を考える:

私は昭和16年(1941年)から昭和37年まで藤沢の鵠沼(小田急の駅名は「鵠沼海岸」である)に住んでいたので、海水浴には良く出掛けていてその恐ろしさというか危険さは十分に心得ていた。あの海岸では潮が下の方で沖に向かってかなり強く引いているので、そうとは知らずに泳いでいると遙か沖合に出てしまって、戻ってくるのが困難になってしまう場合が多かった。その為に毎年のような水難の事故が発生していたので、その怖さを知った私はなるべく背が立たないところまで出ていかないようにしていた。これは海即ち、水とは怖い物だと認識していたという意味だ。

1974年の4月にフロリダ州の大西洋側の海岸で、アメリカで一度だけ海に入ってみたことがあった。その時も底の方での引き潮を強さに恐れをなし「触らぬ神に何とやら」で直ぐに引き上げて、美しいフロリダの砂浜を鑑賞するだけに止めたものだった。その怖さには砂浜の色は違うが、何となく懐かしき鵠沼海岸を思わせられるものがあった。

水(乃至は水分)は我々人間の身体の大部分を占めている重要な要素で、水分を常に十分に摂っておらねばならず、脱水症状でも起こせば時には生命が危険に曝されることにもなるとは、経験上も承知している。それほど人類にとっては重要なものであるにも拘わらず、その水が自然か天然現象によって過剰になると、この度の台風15、19、21号の襲来が示したように、途方もない災害を引き起こす恐ろしい物に変わってしまうのだ。

最早8年以上も前のことになった3.11の津波による東北地方を襲った大津波の光景をテレビで見せられた時には、到底この世の出来事とは思えず、まるでCGによる画像を見させられているのかとすら思わせられた。同時に痛感したことは「水にはこういう形での恐ろしさもあるのだ」という点だった。あの津波は地震に伴って起きた現象では人智では防ぐことも予防すらも不可能な恐ろしさだったのかと認識させられた。将に私が常に言っている「コインの裏側」をこれでもかと言わんばかりに見せつけられたと思った。

その恐ろしさが今回は三つの台風で関東から東北地方を襲って、津波ではなく大雨による河川の堤防決壊や越水があれほどの大災害を引き起こすものだと、あらためて知らされたのだった。土木工学的には色々と予防する手段はあるのだろうが、あのように「観測史上初」というような豪雨に続けざまに襲われては「予見不可能」な事態が生じるのは不可抗力だと思わせてくれた。これほどの異常気象が「地球温暖化」だけが原因なのか否かの見極めがついていないようだが、それこそ“Better late than never”で対策を講じる必要はあると思う。

私には二酸化炭素の発生を防止する対策が経産省か環境省の何れの管轄か知らない。だが、何れにせよ環境問題の一環だと認識しているので、小泉環境大臣が原発の関連ばかりを回っておられるのは見当違いのように思えてならない。彼は親譲りか何か知らないが原発に対する関心があるようだ。だが、事二酸化炭素の発生については火力発電所の方が抑制すべきではないのかと言いたくもなる。同時にプラスティックスのゴミが引き起こしている海水の汚染も好ましくない現象も環境問題であり、福島に貯蔵されている除染水の処分とともに焦眉の急として、彼が取り組むべき事だろうと思う。

今から来年の台風発生の季節までにどれほどの治山・治水の対策というか工事を全国で実施できるかどうか予測も出来ないが、過剰な雨と水に対する事前(次善?)の対策を講じておくことは極めて重要だと思う。私は地方で発生する山か崖等から生じる水流や土石流の原因には、我が国の面積の大きな部分を占めている闊葉樹に覆われた山や丘にあると思っている。それは紅葉が美しいの何のと景色の良さが称えられてはいるが、あれほど斜面に樹木が密生して手入れされていなければ、空気は循環せず日当たりも悪くなって樹木が強く根を張らず、土壌も地盤も劣化して大雨が降れば水分を吸い込んで山や崖が崩れてしまうのは仕方があるまいと思っている。

先日も専門家の方が「その過剰な樹木を伐採して販売しようにも、杉の木を3本伐っても1,000円にしかならず、林業は不採算で成り立たないのだから仕方がない」と指摘しておられた。その通りだが、政府か民間が何処かで手を打たねば、現状のままでは何時何処で山が崩れて犠牲者が出ることを防ぎようがないと思う。これぞ将に治山・治水の最たるものだと思う。そのように林業を不採算な業種に追い込んだ責任の一端は木材の輸入にもあるかと思うが、何れにせよ山林の管理は水対策として拱手傍観すべき事案ではないと思う。

因みに、アメリカの西北部を中心に600万エーカーの森林を所有するW社はその社有林で間引き、風倒木や虫食いの木を処理すること、下枝を払うこと、山林の伐採の期限を決めてクリヤーカットと呼ぶ一定の面積の木を全部伐採した後には整地して肥料を施して再植林している。これを“managed forest”と称しているが、山林にはこのような管理が必要なのだ。私は木材の担当分野にはいなかったので基本的なことしか知らないが、このような管理は必須だったようだ。


ハロウイーン(Halloween)に思う

2019-10-28 08:08:24 | コラム
何故あれほど愚かな者が多いのだろう:

私は在職中に2度ほどアメリカでこの行事の期間というのか当日に本社にいて、これに出会ったことがあった。しかしながら、お恥ずかしいことに、このハロウイーンなるものの存在を知らず「何故魔女の格好をした女性が社内にいるのか」と周囲に尋ねてしまった。それで初めてそういう行事があると知った次第。

2度目は来訪中の大取引先の常務さんを副社長の自宅に招待して夕食会かを催している時だった。玄関にキャンディだったかが入った大きなガラス瓶が置いてあるのは承知していた。そして夕食の最中に暗闇の中を大勢の子供たちがやって来て、例の“Trick or treat.”と叫んでいるのが聞こえた。暗かったので彼らが仮装していたかどうかは知らない。そして、副社長夫妻が玄関に出てその大きな瓶からキャンデイを配って終わった。そこで認識できたのは「仮装」と「トリック・オア・トリート」という組み合わせがハロウイーンとやらの中身だということだった。

それがどうだろう。一旦我が国に入ってくると(「入れてしまった」という方が正しいか?)「トリック・オア・トリート」何処かに消し飛んでしまって、今年のように渋谷区が特別条例を制定せざるを得ないような馬鹿者が仮装して集まり馬鹿騒ぎをするような、原産地のアメリカとは全く異なる行事に変わってしまったのだった。昨年辺りの渋谷の何とやら交差点での騒動を見ていると、我が国は善くぞこれほどまでの阿呆を育て上げたものだと、寧ろ感心してしまったのだった。

私は一刻も早くあのような馬鹿騒ぎを止めさせて欲しいと思っている。その為には罰則を伴わない条例では効果はないので、税金の無駄遣いではあるとは思うが、警察権を行使してでも馬鹿者どもを拘束するかあるいは逮捕してでも処罰したら如何とすら考えている。極端なことを後難を恐れて言えば、仮令暴力だの何のと言われようともあのような連中はぶったたいてでも止めるべきではないのかとすら言いたくなる。路上で飲酒をするなと言っても、渋谷に来る前に飲んでくれば効果はないだろう。兎に角、何とも情けない若者どもの痴呆化である。

因みに、私は「アメリカの会社に勤務していた」と言うが、それはアメリカに住んでいたのではなく、正確には「アメリカの会社の日本駐在マネージャーだった」と言うべきだった。であるから、1年間に6~7回ほどアメリカに出張していたので、その中で偶々ハロウイーンの日に向こうにいた事があったので、アメリかでは如何なる形になっているかを知って、それと我が国における馬鹿騒ぎを比較して論じてみた次第だ。あの馬鹿騒ぎはもしかして我が国の文化かも知れない。そうであれば、誠に恥ずべき文化だ。


10月27日 その2 イングランド対ニュージーランドのラグビー

2019-10-27 14:23:09 | コラム
強い方が勝った:

テレビと新聞の過剰だと言いたいほどのラグビー礼賛に言うなれば食傷気味だったが、イングランドというイギリスの本家対分家とでも言いたいニュージーランド(NZ)のラグビー戦を「イングランドが勝つのではないか」との閃きの下に、昨26日に観戦していた。敢えて「イギリス」という言葉を使ったが、これを広辞苑で見れば「(The United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)の西方、大西洋上にる立憲連合王国グレート・ブリテン島・北アイルランド及び付近の900以上の島々からなる。面積24万4,000平方キロメートル・・・」とある。

イングランドとはその中の一つである。それを知らなかった1969年頃に、この国から来ていた人に「イングランドからお出でか」と尋ねて「イングランドではない、UKと言え」と厳しい顔で言われたものだった。ニュージーランドは広辞苑によれば「1840年にイギリスとマオリ人とのワイタンギ条約によりイギリス領となる」とある。独立は1947年とある。この試合は言わば親子間の争いかというような気もして興味深かった。我が事業部にはニュージーランド人でオックスフォード大学のMBAのマネージャー(後にSales and Marketingの副社長までなった)がいた。

私の関心と興味はイングランドのヘッドコーチ(HC)が前回のW杯までの我が代表の指揮を執っていたエデイー・ジョーンズ氏がHCであることにあった。それは、どちらかと言えばラグビーの本家であったはずのイギリスの霞み気味だった存在を、ジョーンズ氏がその猛練習というか指導法でどのように立て直しているかが勝敗の鍵を握っていると思っていた。ボンヤリと考えていた事は「我がマスコミの過剰なNZの強さの称え方があるとは言え、NZと雖も人の子である以上、そう易々とは3連覇できるものか」という疑問もあった。イングランドの試合振りはほとんど見ていなかったので、どの程度の強さかは解っていなかった。

しかし、試合が始まってみるとイングランドの勝ってやろうという気迫と、やれるところまでやってやろうじゃないかという、古い言葉で恐縮だが「張り詰めた敢闘精神」の勢いは凄まじく、キックオフ後間もなくイングランドは結果的にはこの試合で唯一となったトライを決めてしまった。NZは油断していたのか乃至はイングランドのジョーンズ氏に鍛え上げられたのであろう精神力と鋭い出足とデイフェンスの当たりに圧倒されたのか、解説の広瀬がこれほど乱れているNZを見たことがないとまで言ったほど劣勢だった。

先日指摘したようにラグビーはアメリカ系の球技のように「モメンタム」に左右される性質ではないので、一度劣勢に立たされたNZは最後まで大勢を挽回するチャンスもないままにミスと反則を繰り返して、イングランドに4本もペナルテイーキックを決められて、如何ともする術もなく敗退してしまった。私にはラグビーの微妙な技術を判定するほどの眼力はないが、両者にほとんど力の差がなかったように思う。だが「勝って見せよう」という精神力の強さ(これを「メンタル」などという妙なカタカナ語で言うな)においてはイングランドの方が上で、それが試合を決めたと思っている。

見方を変えれば「両者ともあらん限りの力を出した素晴らしい試合だった」と褒めても良いのだろう。だが、私にはNZのミスの多さが気になったし、ウエールズ人のレフェリーがTMOだかに依存した判定でイングランドのトライを2本「ノートライ」という音声が聞こえたと思うが、無効にしてしまったのは気の毒だったとついつい思ってしまう。あれをトライと判定しなくてもNZの劣勢は明らかだったと思うので。ラグビーの面白い点は、レフェリーは試合を指導しているという点で、その判定には野球の球審よりも癖というか、極言すれば独断的のように見えるということだ。

本日はもう一つの準決勝戦である「南アフリカ対ウエールズ」の対戦がある。この試合にはさほど関心がない。だが、関心はあそこまで勝ち上がったイングランドが他国よりも1日休養日が長い利点を活かして優勝できるか否かにはある。イングランドはジョーンズ氏の指揮の下に組み合わせが決まった時点から、対NZのゲームプランを練り上げて練習してきたとアナウンサーが言っていた。であれば、南アフリカかウエールズ相手のスカウテイングとゲームプランは出来ているのだろうか。あの対NZの精神力は決勝戦でも発揮できるのだろうか。その辺りに私の関心と興味がある。

言い古された表現だが「技術力が同等ならば、精神力が強い方が勝つ」というのがあり、私もそれを信じている。だが、ただ精神力だけを鍛えてあれば良いものではないのが難しいところだ。最後にもう一度言うが「メンタル」などと言う形容詞をさも名詞の「精神力」のような意味で使うのを止めろ。「フィジカル」だって同様に形容詞だ。好い加減にしろ。


我が国の経済というか景気を考える

2019-10-27 10:31:29 | コラム
景気は悪くないのか:

先頃、我が国には2期連続で貿易赤字が出たと報じられていた。Prime Newsだったかでは、第一生命経済研究所の長濱氏は昨年の11月から統計上では景気は良くないのだと指摘していた。こういう状態を見聞きして思い出したことがある。それは10年1月1日にカリフォルニア州のパサデイナで投資ファンドをアメリカの国内外で運営して成功しているML氏に「アメリカと我が国の景気をどのように見ているのか」と質問したことで、L氏の短くて要を得た答えを思い出さずにはいられなかった。

L氏は「アメリカと中国の貿易取引関係が健全に続いている間はアメリカと中国の経済は心配ない。日本の経済はアメリカと中国の関係が安定していれば、当分の間は何ら問題ないと見ている」と答えてくれた。因みに、L氏はプリンストン大学の出身で銀行等に勤務した経験を活かして独立され、我が国にも進出されている腕利きである。私が興味深いことと感じた点は、彼は当初はニューヨークに本拠を置かれていたが、現在のICT化と言うべきかデイジタル化と言うか、グローバル化とも言うべき時代に合わせて、本部をホノルルに移されていること。

それはそれとして、私は現在の我が国の経済の状況を見ていると、将にL氏の指摘が当たっているように思えるのだ。トランプ大統領があそこまで中国を叩きに出られたことは、あの国が世界全体にその気になっていて与えているだろう影響と、習近平主席の野心の表れだとしか思えない世界各国への触手の阿漕で強引な伸ばし方を見れば、当然の策だと思って見ている。だが、そのアメリカと中国の貿易戦争の影響は、間違いなく我が国の経済に影響を及ぼしているとしか見えない。

私は最早現職を離れて日常的にアメリカと接触していない身であるから、論じていることは街角景気観測的であり、永年の経験から言う皮膚感覚的なことだ。その感覚で捉えている我が国の景気が緩やかであろうと何だろうと、活気を呈しているものではないのだと思う。感覚的に言えば「我が家の周辺とJRと西武戦の線路の向こう側にあるタクシーの運転手さんがたちが『新しい道』と呼ぶ無名の道路に真っ昼間から停車して寝ているタクシーの数が増えてきた傾向は、彼らは景気の恩恵に浴していない事を端的に表している」のである。

物価という点から見れば、大久保通りや高田馬場方面の早稲田通りに行けば、消費税が引き上げられようと何だろうとデフレ傾向的な安さが続いている。ドンキホーテやアジア系の外国人どもが群がる大久保通りの業務スーパーの値段を見れば、経営者たちは決して景気が良いなどとは見ていないと一目で解る。何処の店とは言わないが「在庫一掃価格」としか思えないような安値は相変わらず出ている。それが証拠に、私がジムの風呂場で使っているフェイスオッシュなどは¥100で購入したチャンとしたメーカーの製品だった。何処かで誰かが在庫を持て余したという証拠だ。

この一例だけで「緩やかな回復」などと言えるのかとまで言う勇気はないが、この界隈に住んでいればこういう目玉商品は頻繁に出ていうるのは事実だ。得意の英語の講釈をすれば「目玉商品」は“loss leader”となっている。そういう感覚が表れている表現だと思っている。

報道によれば、野党にとっては菅原一秀前経産大臣の他に未だ攻め立てない閣僚がいるかのようだ。私から見れば、そんなことを言っている場合かということだ。野党の連中が一度でも総理に「対韓国問題の処理にどのような対策で望み、何時になれば文在寅大統領を屈服させるのか」といったような質問をしたことがあるのかと言いたい。「内部留保を吐き出させる手立ては」と質問したという話を聞いたことがない。偶にはタクシーが公衆便所がある場所を求めて路上駐車して昼寝をしたり弁当を食べにこないように景気を良くする対策を論じたらどうだ。枝野や福山の顔を見ただけで胸が悪くなる。


10月26日 その3 「スニーカーの風物詩」をお詫びして訂正します

2019-10-26 12:51:39 | コラム
買い換えてみれば白い底だった:

先頃、3年以上も履き続けたNikeのスニーカーを某商社のファミリーフェアーでUnder Armour(UA)ブランドのものに買い換えた。いきなり余談だが、この「ワード」の厳格さでは“armour”というUK式の綴りは看過して貰えず、下に赤い線を引かれてしまうのだ。アメリカ式であれば“armor”だからだろうが、面白い現象だと思っている。序でに採り上げておけば「スニーカー」(=sneaker)は我が国で一般的に古き日本語での「運動靴」乃至は「ズック靴」を表しているが、私がアメリカで聞いた記憶があるのは“tennis shoes”だけだった。でも、スニーカーで通じるとは思っている。

本題に戻ろう。Nikeの靴は言うなれば「街歩き」というかその辺に出ていく時に履いていたのだが、今やスーツにネクタイという格好をすることなど先ずないので、スニーカーはその辺どころか、何処に出掛ける時にでも履いていたのだった。その結果というかNikeの質では長持ちがしないというのか知らないが、大分弱ってきたので買い換えを決意したのだった。そこで、東京ビッグサイトの会場に入って真っ先に目についたのが、格安で売られていたUAの靴だった。色も気に入ったのでその場で決めてしまった。

買ってから気が付いたのだが、そのスニーカーは近頃街中で見かける圧倒的多数の国の内外のブランド品に見られるような底が白い靴だったのだった。それが流行なのかどうかなどに全く注意をしていなかったのだが、自分が買ってしまったスニーカーは流行のものだったようなのだった。それから初めて気になって、街中で仔細に観察してみると80~90%のスニーカーの底は白いのだと解った。

当方は今更流行を追う年齢でもないのだから、底の色がどうあろうと履き心地さえよければ何の問題もないので気にしないが、スニーカーのデザインに流行り廃りがあるとは気がつかなかったというだけの話だ。読者諸賢もお気が向けば、一度下を向いて観察しながら歩いてみて下さい。でも、スマホのながら歩きと同様に危険かも。