マスコミは何が故に未だに海外での成功を喜ぶのだろう:
この度の吉野彰氏のノーベル化学賞は誠に素晴らしいことであるとともに、企業内の方の研究に賞が与えられたことも大いに意義があると思っている。私は我が国の何事につけても世界的に見て水準が高いことをあらためて実証したのだという見方をしたいのだ。それにつけてもテレビや新聞でのあの大騒ぎは、私には鼻につくのだ。私は彼らの感覚では「我が国は未だに敗戦直後の世界に置いて行かれた低水準の国で、その小国が欧米人の世界で認められたとか乃至は漸く我が国も認められたと言って騒いでいる時代錯誤の世界にいる」としか思えないのだ。
戦後間もなくの私が未だ5年生の中学校にいた頃に、近所で貿易商を営んでおられた方が「喜んでください。我が社も漸く認められる存在になってアメリカ向けの輸出が成約しました」と歓喜しておられたような感覚を未だに引き摺っているような気さえするのだ。違うだろう、我が国は既に「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代を経て世界の一流国なのだ。ノーベル賞受賞は確かに素晴らしいが、それが天からでも授けて頂いたかのように褒めそやし、吉野氏ご夫妻をインタビューして夫婦間の会話まで聞き出すような愚にもつかぬようなことをしている場合かと言いたくもなる。
私も戦後間もなくから英語を話すように仕付けられたし、中学生の身でGHQの中に入っていた経験もしたので、早くから外国人との接触があった。その上に39歳からアメリカの会社に変わったので、彼らの文化(言語・風俗・習慣・思考体系の意味)の中で仕事をしたし、アメリカ以外のヨーロッパ人とも仕事上での交流が出来た。ここで学んだというか知り得たことは「私(というか我々日本人)は彼らの世界に後発で入ったいったのであって、彼らから見れば異邦人であり、異種のゲームをしている人種だ」と看做されているようだという点だ。
考え過ぎだという方もおられるだろうが、実際に彼らの中に入って20年以上も彼らの為に(対日輸出に)それこそ命を賭けて働いてみて、何処からともなく現れた日本という国は端倪すべからざるものだと恐れさせていたのだった。だが、彼らの中で懸命に働けば働くほど「自分がやっていることは、彼らが創り上げたゲームの中に外から分け入っていって、彼らを凌駕する実績を挙げることは大いに評価されるが、所詮はこれは彼らのゲームであって我々のものではないようだ」と解ってくるのだ。
例えば、「目下あれだけの人気を見せて、あれほど方々で賛美の声が上がっているラグビーを見よ」ということだ。このままスコットランドに勝つか引き分ければ世界の八強に入って行けるのだ。だが、あの出場している国々を見れば英連邦の諸国が圧倒的に多いのだ。彼らのゲームだったのだ。そこに我が国が台頭してあそこまでのし上がっていったのは快挙だ。ノーベル賞にしたところで、北欧のスエーデンが発祥の地だ。その賞を今や毎年のように我が国から受賞者が出ているのだ。彼らのゲームに馴れたのではないのか。
それを当たり前の現象とは言わず、未だに「アメリカに輸出が出来ました」という1940年代の感覚にとらわれているのが、我が親愛なるマスコミなのだ。吉野彰氏が奥方に隠れて煙草を吸われることまで取り上げることと、リチュームイオン電池の発明と何の関係があるのか。もう好い加減に世界の市場、学会、スポーツ界に出ていき成功される人々を大事のように騒ぎ立てる報道姿勢から脱却したらどうだ。永年彼らの中で過ごした私は、我々はアメリカやヨーロッパ人の後ろについて行く国ではないのだと良く解っている。もっと自国に誇りと自尊心を持って報道すべきではないのか。
彼らに解るかどうかは解らないが、異国に出て行って彼らが定めたルールと体格を基準にして出来上がっているゲームをするのは容易ではない。だが、私は我が国は既に自分たちの国独自のゲームを確立しその基準の下にプレーしているのだとも身を以て体験した。現時点で確かにGAFAには置いて行かれたようだし、中国の電子産業の分野におけるアメリカをも凌駕する台頭振りには劣っているのかも知れない。だが、こういう現象が何時までも続くものではなく、何時かはまた「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時がやって来るかも知れないではないか。
マスコミは卑下するような姿勢をもう好い加減に捨て去るべきだ。彼らだって「特派員」などと言う大時代な感覚の名称の駐在員を海外に派遣しているのだから、我が国が如何に優れているかくらいは解るはずだ。それくらいは外国語をまともに勉強していれば掌握できるはずだ。私には見えたのだから。「何、学校で教えてくれた英語では通用しなかった」とでも言うのか。
この度の吉野彰氏のノーベル化学賞は誠に素晴らしいことであるとともに、企業内の方の研究に賞が与えられたことも大いに意義があると思っている。私は我が国の何事につけても世界的に見て水準が高いことをあらためて実証したのだという見方をしたいのだ。それにつけてもテレビや新聞でのあの大騒ぎは、私には鼻につくのだ。私は彼らの感覚では「我が国は未だに敗戦直後の世界に置いて行かれた低水準の国で、その小国が欧米人の世界で認められたとか乃至は漸く我が国も認められたと言って騒いでいる時代錯誤の世界にいる」としか思えないのだ。
戦後間もなくの私が未だ5年生の中学校にいた頃に、近所で貿易商を営んでおられた方が「喜んでください。我が社も漸く認められる存在になってアメリカ向けの輸出が成約しました」と歓喜しておられたような感覚を未だに引き摺っているような気さえするのだ。違うだろう、我が国は既に「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代を経て世界の一流国なのだ。ノーベル賞受賞は確かに素晴らしいが、それが天からでも授けて頂いたかのように褒めそやし、吉野氏ご夫妻をインタビューして夫婦間の会話まで聞き出すような愚にもつかぬようなことをしている場合かと言いたくもなる。
私も戦後間もなくから英語を話すように仕付けられたし、中学生の身でGHQの中に入っていた経験もしたので、早くから外国人との接触があった。その上に39歳からアメリカの会社に変わったので、彼らの文化(言語・風俗・習慣・思考体系の意味)の中で仕事をしたし、アメリカ以外のヨーロッパ人とも仕事上での交流が出来た。ここで学んだというか知り得たことは「私(というか我々日本人)は彼らの世界に後発で入ったいったのであって、彼らから見れば異邦人であり、異種のゲームをしている人種だ」と看做されているようだという点だ。
考え過ぎだという方もおられるだろうが、実際に彼らの中に入って20年以上も彼らの為に(対日輸出に)それこそ命を賭けて働いてみて、何処からともなく現れた日本という国は端倪すべからざるものだと恐れさせていたのだった。だが、彼らの中で懸命に働けば働くほど「自分がやっていることは、彼らが創り上げたゲームの中に外から分け入っていって、彼らを凌駕する実績を挙げることは大いに評価されるが、所詮はこれは彼らのゲームであって我々のものではないようだ」と解ってくるのだ。
例えば、「目下あれだけの人気を見せて、あれほど方々で賛美の声が上がっているラグビーを見よ」ということだ。このままスコットランドに勝つか引き分ければ世界の八強に入って行けるのだ。だが、あの出場している国々を見れば英連邦の諸国が圧倒的に多いのだ。彼らのゲームだったのだ。そこに我が国が台頭してあそこまでのし上がっていったのは快挙だ。ノーベル賞にしたところで、北欧のスエーデンが発祥の地だ。その賞を今や毎年のように我が国から受賞者が出ているのだ。彼らのゲームに馴れたのではないのか。
それを当たり前の現象とは言わず、未だに「アメリカに輸出が出来ました」という1940年代の感覚にとらわれているのが、我が親愛なるマスコミなのだ。吉野彰氏が奥方に隠れて煙草を吸われることまで取り上げることと、リチュームイオン電池の発明と何の関係があるのか。もう好い加減に世界の市場、学会、スポーツ界に出ていき成功される人々を大事のように騒ぎ立てる報道姿勢から脱却したらどうだ。永年彼らの中で過ごした私は、我々はアメリカやヨーロッパ人の後ろについて行く国ではないのだと良く解っている。もっと自国に誇りと自尊心を持って報道すべきではないのか。
彼らに解るかどうかは解らないが、異国に出て行って彼らが定めたルールと体格を基準にして出来上がっているゲームをするのは容易ではない。だが、私は我が国は既に自分たちの国独自のゲームを確立しその基準の下にプレーしているのだとも身を以て体験した。現時点で確かにGAFAには置いて行かれたようだし、中国の電子産業の分野におけるアメリカをも凌駕する台頭振りには劣っているのかも知れない。だが、こういう現象が何時までも続くものではなく、何時かはまた「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時がやって来るかも知れないではないか。
マスコミは卑下するような姿勢をもう好い加減に捨て去るべきだ。彼らだって「特派員」などと言う大時代な感覚の名称の駐在員を海外に派遣しているのだから、我が国が如何に優れているかくらいは解るはずだ。それくらいは外国語をまともに勉強していれば掌握できるはずだ。私には見えたのだから。「何、学校で教えてくれた英語では通用しなかった」とでも言うのか。