問題が多過ぎはしないか:
萩生田文科相の発言:
野党は大臣が撤回しようと何だろうと国会で責めると言っている。相変わらぬ愚にもつかない姿勢だ。だが、野党と高校長だったかの組織が「大学入試に民間の試験を適用するのを見合わせるべし」と主張しているのは賛成である。多くのテストがそれまでの我が国の至らざる英語教育の成果を試そうという目的の為にあるようだから、その試験で良い成績であっても「外国人に対してか外国に行っても通じないような英語である場合が多く、何処かのカタカナ語製造業者に珍妙な言葉を生み出させる程度の効果しか発揮していない教育を改めない限り大して意味はない」と思う。
先ほどテレ朝のグッドモーニングに出演されていた宮家邦彦氏もこのテスト適用の件で「英語教育の改革が先」と主張しておられた。この辺りは当方の年来の主張と同じであって、珍しくも強力な援軍が現れたと思って、少しは意を強くした次第だった。戦後70年以上も経て、未だに「通じたか、通じないか」を問題にするような人が多い英語教育を続けている文科省の知能程度と認識を疑いたい。
ところで、萩生田文科相の発言だが、民間の試験に¥25,000等の高額な負担がかかるとか、地方都市の高校生が立地条件で不利であるというのならば、高校の証明書の下でかかるテストを受験する場合には高校生は無料にすれば良いのではないかと思う。それでは業者が困るというのならば、文科省か国家が不足分を負担することににすれば良いではないか。テストの適用を止めれば大学側がこれから問題を作らねばならないと言うが、作れないような教授や講師を雇っている大学側の問題だ。それくらい出来なくてどうする。
カタカナ語の乱造と乱用:
兎に角、テレビを付けてものの5分も聞いて見てご覧。意味不明か誤った使われ方のカタカナ語が少なくとも10回は出てくるから。また、仮令誤りではなくとも「何でカタカナ語を使うのか」と怒鳴りたくなるカタカナ語の羅列だ。最早「スタッフ」、「トラブル」、「チャレンジ」、「アドバイス」、「サポート」、「ジューシー」、「フルーティー」、「ボリュウミー」、「パワー」、「メンタル」、「ポジティブ」、「コラボ」、「ワンコイン」、「コンプレックス」、「フリップ」等々は完全に本来の日本語や漢字の熟語を駆逐して戸籍を得た日本語となり果せてしまった。カタカナ語排斥論者としては何とも言いようがない思いだ。
そこで念の為に幾つか困ったなと思う例を挙げて反撃に出てみよう。先ずは「コラボ」である。これは元は“collaborate”であって、OXFORDにも“work together with 誰それ”という意味であると出ている。ジーニアス英和には頭に(文芸・科学の分野で)とあって「協力、協同する」とある。言うなれば、かなり難しい部類に入る言葉で、不肖私は「そういう言葉があるとは承知していたが、誰かが使うか、こちらから使った記憶など全くない代物」なのである。それが堂々とカタカナ語にされて「協力乃至は協同」の意味で使われるだけに止まらず「コラボ」という短縮形まで造ってしまった製造業者には敬意さえ表したくなってしまう。
以前にも採り上げたが、驚かされたのが「ドラゴンクエスト」か「ドラクエ」だった。テレビでそのCMを見た時には「クエスト」か「クエ」が英語の“quest”だったとは夢にも思わなかった。“quest”という単語がある事は承知していたが、これも「コラボ」と同様に聞いたことも使ったこともなかった。但し、“in quest of ~”というフレーズがあるのは知っていた。そこであらためてOXFORDを見ると“formal or literary”とあった。即ち、形式的で文語的だと言っているのである。日常的には使っていないと言って良いと思う。それがゲームの名称に出てくるのが凄いと思う。
この二つであらためて痛感したことは「我が国の英語教育で如何に単語の知識というか、語彙を(無駄に!)増やすことに重点を置いているか」かが余りにも明らかだという点だ。こんな日常会話はいうに及ばす、20年以上もアメリカ人の会社にいて毎日相互に交わす報告書の中に出てこなかったような単語を覚えさせたことが何の役に立ったかということだ。いや、無駄な力を使わせていると言っても良いだろう。高校3年の英語の教科書を読んだアメリカ人が「アメリカの国語の教科書にこんな難しい文学作品は使っていない」と叫んだことと共通する無駄なか科学的教育だと非難したい。
マスメディアの情けなさ:
今回の萩生田大臣の発言の件で、彼らは何か有意義なことを報じたか。少なくとも、民間のテストの適用をもっと真っ向から採り上げて是非を論じるべきではないのか。英語教育の改革を唱えても良いのではないか。彼らにそれが出来ないほどカタカナ語にドップリと浸かっているから、宮家邦彦氏の口を借りることしか出来ないのだ。英語をもっとまともに普及させたいのであれば「外来語ハンドブック」などは直ちにゴミ箱に捨てるべきではないのか。この広い世界の何処かにいる、まともな英語力を備えた人物にコラボを依頼して、チャンとした論陣を張ったらどうだ。
萩生田文科相の発言:
野党は大臣が撤回しようと何だろうと国会で責めると言っている。相変わらぬ愚にもつかない姿勢だ。だが、野党と高校長だったかの組織が「大学入試に民間の試験を適用するのを見合わせるべし」と主張しているのは賛成である。多くのテストがそれまでの我が国の至らざる英語教育の成果を試そうという目的の為にあるようだから、その試験で良い成績であっても「外国人に対してか外国に行っても通じないような英語である場合が多く、何処かのカタカナ語製造業者に珍妙な言葉を生み出させる程度の効果しか発揮していない教育を改めない限り大して意味はない」と思う。
先ほどテレ朝のグッドモーニングに出演されていた宮家邦彦氏もこのテスト適用の件で「英語教育の改革が先」と主張しておられた。この辺りは当方の年来の主張と同じであって、珍しくも強力な援軍が現れたと思って、少しは意を強くした次第だった。戦後70年以上も経て、未だに「通じたか、通じないか」を問題にするような人が多い英語教育を続けている文科省の知能程度と認識を疑いたい。
ところで、萩生田文科相の発言だが、民間の試験に¥25,000等の高額な負担がかかるとか、地方都市の高校生が立地条件で不利であるというのならば、高校の証明書の下でかかるテストを受験する場合には高校生は無料にすれば良いのではないかと思う。それでは業者が困るというのならば、文科省か国家が不足分を負担することににすれば良いではないか。テストの適用を止めれば大学側がこれから問題を作らねばならないと言うが、作れないような教授や講師を雇っている大学側の問題だ。それくらい出来なくてどうする。
カタカナ語の乱造と乱用:
兎に角、テレビを付けてものの5分も聞いて見てご覧。意味不明か誤った使われ方のカタカナ語が少なくとも10回は出てくるから。また、仮令誤りではなくとも「何でカタカナ語を使うのか」と怒鳴りたくなるカタカナ語の羅列だ。最早「スタッフ」、「トラブル」、「チャレンジ」、「アドバイス」、「サポート」、「ジューシー」、「フルーティー」、「ボリュウミー」、「パワー」、「メンタル」、「ポジティブ」、「コラボ」、「ワンコイン」、「コンプレックス」、「フリップ」等々は完全に本来の日本語や漢字の熟語を駆逐して戸籍を得た日本語となり果せてしまった。カタカナ語排斥論者としては何とも言いようがない思いだ。
そこで念の為に幾つか困ったなと思う例を挙げて反撃に出てみよう。先ずは「コラボ」である。これは元は“collaborate”であって、OXFORDにも“work together with 誰それ”という意味であると出ている。ジーニアス英和には頭に(文芸・科学の分野で)とあって「協力、協同する」とある。言うなれば、かなり難しい部類に入る言葉で、不肖私は「そういう言葉があるとは承知していたが、誰かが使うか、こちらから使った記憶など全くない代物」なのである。それが堂々とカタカナ語にされて「協力乃至は協同」の意味で使われるだけに止まらず「コラボ」という短縮形まで造ってしまった製造業者には敬意さえ表したくなってしまう。
以前にも採り上げたが、驚かされたのが「ドラゴンクエスト」か「ドラクエ」だった。テレビでそのCMを見た時には「クエスト」か「クエ」が英語の“quest”だったとは夢にも思わなかった。“quest”という単語がある事は承知していたが、これも「コラボ」と同様に聞いたことも使ったこともなかった。但し、“in quest of ~”というフレーズがあるのは知っていた。そこであらためてOXFORDを見ると“formal or literary”とあった。即ち、形式的で文語的だと言っているのである。日常的には使っていないと言って良いと思う。それがゲームの名称に出てくるのが凄いと思う。
この二つであらためて痛感したことは「我が国の英語教育で如何に単語の知識というか、語彙を(無駄に!)増やすことに重点を置いているか」かが余りにも明らかだという点だ。こんな日常会話はいうに及ばす、20年以上もアメリカ人の会社にいて毎日相互に交わす報告書の中に出てこなかったような単語を覚えさせたことが何の役に立ったかということだ。いや、無駄な力を使わせていると言っても良いだろう。高校3年の英語の教科書を読んだアメリカ人が「アメリカの国語の教科書にこんな難しい文学作品は使っていない」と叫んだことと共通する無駄なか科学的教育だと非難したい。
マスメディアの情けなさ:
今回の萩生田大臣の発言の件で、彼らは何か有意義なことを報じたか。少なくとも、民間のテストの適用をもっと真っ向から採り上げて是非を論じるべきではないのか。英語教育の改革を唱えても良いのではないか。彼らにそれが出来ないほどカタカナ語にドップリと浸かっているから、宮家邦彦氏の口を借りることしか出来ないのだ。英語をもっとまともに普及させたいのであれば「外来語ハンドブック」などは直ちにゴミ箱に捨てるべきではないのか。この広い世界の何処かにいる、まともな英語力を備えた人物にコラボを依頼して、チャンとした論陣を張ったらどうだ。