新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

お知らせ

2022-09-19 08:53:45 | コラム
明20日から、やや悪化の兆しが見えた基礎疾患の検査のために入院致します。その為に退院する日まで本日の一本を以て休載いたします。

宜しくご理解のほどを。

真一文字拝



スポーツ、あれやこれや

2022-09-19 08:38:24 | コラム
野球、ゴルフ、サッカーを語ろう:

先ずは野球から:
私は各テレビ局が早朝から時差があるアメリカで、大谷翔平が今何をやっているかまでも報じてくれるのには、余り感激していないし評価もする気がない。私はそれよりもスワローズが無事に連覇に向かって進んだかと、村上宗隆が何とも言いようがない「敬遠攻勢?」を切り抜けて、王貞治の記録を破ったかの方に興味も関心もあるのだから。

どのテレビ局の解説者もあの立浪監督の申告敬遠の是非を論じなかったのは、不甲斐ないとしか思えなかった。最下位の球団が首位のスワローズを倒すのは甲斐甲斐しくて良いかも知れないが、その為の手段が申告敬遠とは情けなさ過ぎる。昨夜もタイガースの矢野監督は「批判されるのは承知だったのだろう顔付きで」村上を申告敬遠した。3位を死守してCSとやらに出たいのは当然だろうが、「目的は手段を正当化しない」と知るべきだ。姑息的だ。立浪は言語道断。

私は彼らが村上に打たせないようにする動機を推察すれば、自分の球団が村上に新記録を立てさせたと、後世まで喧伝されたくないためだと見ているのは僻目か。恐らく、嘗て外国人の打者に王貞治の記録を破らせまいとして四球攻めにしたのとは、違う現象だと思っている。好意的に見れば「現在の監督たちはそれほど排他的にはなりきれてはいない」と思うのだが「排内的」であるのは好ましくない。

私だって大谷翔平が2年続けてアメリカカンリーグのMVPを取れれば良いだろうと思っている。だが、私は非難攻撃されるのを怖れずに言えば、我々は大谷翔平君に「我が国を代表してMLBに行って我が国の野球選手が地元の選手たちに負けないほど優れていることを是非とも立証してくれ」と依頼した覚えはないのだ。私はこれまでに何度も「大谷翔平はいまだ嘗て見たこともない逸材である」と賞賛した。その素質に花が咲いたのは大変結構なことだと認識している。

次は女子のゴルフに行こう:
昨日も東海クラシックで尾関彩美悠(アユミと読むのだそうだ)が18番ホールで怖めず臆せずにパットを真ん中から決めて優勝して見せた。前週の川崎春花と同じに19歳だそうだ。私はその物怖じせずパットを決める姿を見て、あの渋野日向子がThe Openを制覇した最後のパットを決めた光景を思い出した。言ってみれば「怖い物知らず」の強みだと感じていた。尾関にも川崎にも同様の感があった。

「怖い物」を知った渋野日向子は、あれ以来安定した力を見せきれずにいる。「勝負」というものの怖さはこの辺にあるのだ。「勝ち方を知っている」という表現を私は良く使う。この力は1回や2回勝ったくらいでは本格的に身に付く代物ではない。尾関も川崎も「勝ち方」を知ることが出来るのは未だ先のことだろう。

昨日が三回忌だった実弟はシングルハンディキャップの腕だったが、「優勝には運もある。常に2位に入る力がある者が実力者」と言っていた。渋野、川崎、尾関の3人が一層の力を付けて「勝ち方」を身につけた実力者になる日が来ると良いと思う。

最後に私の本来の持ち場であるはずのサッカー:
11月のW杯が迫ったにも拘わらず、森保監督は26人に絞りきれずにいる。失礼を顧みずに言えば「どんぐりの背比べ」の感が濃厚なのだ。その30人だったかに選んだ顔ぶれを見ていても新鮮味が感じられない。際立ったというか、大谷翔平や村上宗隆のような存在が見当たらない。何故だろう。

中学からJリーグにかけての年齢層にある息子さんたちを出しているだろう年齢層の父親の方々は、異口同音に「今や子供たちはサッカーをやりたがっていて野球ではない」と言われる。それでも非常に優れたと見える素材を、野球に数多く見かけるのは何故だろうかと訝っている。残念なのだ。

今朝ほども、テレ朝で久保建英がスペインでGKへのバックパスを執拗に追ってボールを奪う直向きなところを見せて、得点に結びつけた場面を流していた。良いプレーだと評価できる。解説していた福田正博は「久保はディフェンスをしないと批判されるが、このプレーは良かった」と褒めた。

私はこの久保君に関しては2点挙げておきたい。第一には「彼は上手いことは無類に上手いのだが、その良い所を引き出してくれるのはスペインのリーグのように周囲にいる世界的水準にある上手い選手たち」であり、日本の代表の中に入れば周囲に久保の力を存分の発揮させる使い方で出来る者がいないのが問題」と見ている。

第2の問題点は「恐らく、彼は森保監督の目指すティーム作りには不適格なのでは」だと思っている。そういう点では、香川真司も同じような不幸な境遇にあったと、未だに残念至極な事だったと思っている。解りやすく言えば「監督さんには好きと嫌いがあるもの」なのだ。伊東純也などは足が速いだけが取り柄だったが、森保監督が辛抱強く使い続けている間に、右サイドのエースにまで成長した。

久保君は最早森保監督が指導して伸ばせる余地が残っていないのではないのか。言い方を変えれば「森保監督のメリットにならない」のではないのか。

President誌の柳井正氏との対談で、川淵三郎氏は「ヨーロッパには沢山の有望な若手が行っているが、未だに一本目の地位を確実にしている者が少ないのは・・・」と残念がっておられた。私は以前にも「本田圭佑や香川真司は日本代表で振るわないのは周囲に本田も香川もいないからだ」と指摘した。大勢のヨーロッパ組の実力が向上すれば、彼ら一人ひとりの周囲に実力者が増えてくるので、何時の日か代表ティームの実力がヨーロッパに負けない水準に達すると期待したいのだ。


我が国と欧米人との物事の考え方の違い

2022-09-18 08:01:24 | コラム
プーチン大統領は「向こうが止めると言わないのだ」と言った:

私はこのプーチン大統領がインドのモディ首相に向かって言ったと報じられた一言に興味を感じた。我々と欧米人(白人としても良いと思うが)との思考体系の違いが良く現れていたからだ。

プーチン大統領は「ウクライナとの戦争を止めなさい」と言われて「向こうが止めると言わないのだ」と答えたと報道されたことを取り上げたのだ。我々の理解と認識では「侵攻を開始したのはロシア側」である。そのような状態で始まった戦争を、ウクライナが「止めない」と宣言することがあり得るとは思えないのだ。それでも、プーチン大統領は「ウクライナ側」の責任の如くに言うのだ。

私はこの辺りに白人の世界というか、ヨーロッパやアメリカの人たちの我が国の思考体系にはあり得ない「自らの非を潔く認めずに、悪いのは先方である」と決めつける物の考え方が見えていると思って聞いた。拙著「アメリカ人は英語がうまい」の中でも「海の向こうの謝らない面々」と題して、この辺りの文化と思考体系の違いを表現した。

即ち、プーチン大統領は事がここまでに及んでも「戦争を止めない非はウクライナ側にある」と平然としてインドの首相に言うのだ。私はこのことはプーチン大統領が途方もない鉄面皮であるのではなくて、彼らの世界では当たり前のことであり、彼らはそのように物事を考えているのだという思考体系の表れに過ぎない。マスコミもこの発言を取り上げるのならば、この彼らの「自らの非を認めず、謝罪などしない文化の表れ」と解説しておいて欲しかったと思っている。

ここで強調しておきたかったことは、「我が国のように常に潔く綺麗に対処して『自らの非を認める』を認めるのは、我が国の文化であり美徳であると思う。だが、この綺麗な姿勢は先ずヨーロッパやアメリカの人たちには「美しいとは認識されず、矢張り非を認めたか」と解釈されるのだと考えておくべきだろう。

“I am sorry.”と言うな:
彼らの思考体系には「自分たちが悪う御座いました」と認めることは先ずないのだ。この思考体系が最も良く現れているのが“I am sorry.“という謝り方はしない点だ。それは、ビジネスの場以外でもそう言ってしまう事は「私が悪かった。如何なる経済的な補償要求にも応じるから、お許しを」と認めたのと同じ事になるからだ、彼らはこのように考えているのだ。

彼らの自分たちの過ちを認めない態度は、彼らが傲慢な訳でも、責任感が無いからでもなく、自分たちを防御するためにそう言い方しか出来ない頭脳造になっているだけのことだと認識しておく必要あるのだ。

私は別に「彼らはそういう人種だから認めて上げなさい」などと言うつもりはない。彼らの我が国とは正反対の思考体系を承知した上で交渉に臨まれれば、腹を立てること無く、彼らを説得して話し合いを進めることが出来ると言いたいのだ。私は彼らが“We regret such an accident happened.“と言ったならば、最大限自らの非を認めたと解釈して頂きたいと、我が国の取引先に申し上げてきた。

だから、例えばアメリカにでも行って、何か事件にでも出会ったしまったときに、素直に自分から“I am sorry.”などと言ってはならないのである。

こういう違いがある以上、プーチン大統領がインドの首相に勧められても「では、戦争(侵略)を止めましょう」と言わないのは、ごく普通の現象であり彼が傲慢である事にはならないとは思う。

アナウンサーは“Gone!”と絶叫する:
これは大谷翔平がホームランを打ったときに、アメリカのアナウンサーが叫ぶ台詞。即ち、我が国のアナウンサーが「打球が入りました」とホームランを形容するのに対して、アメリカでは「ボールが行っちゃった」と形容するのだ。この辺りは私が「逆さの文化」と表現してきた物の考え方の違い出ていると思って聞いている。

アメリカでは「観客席にボールが行ってしまった」と言うのに、我が国では「観客席に入りました」と正反対(誰が何時から「真逆」と言う事にしたのか)の見方をしているのが興味深いのだ。

この一言だけで断じるのどうかなとは思うが、ダルビッシュがMLBに行って2~3ヶ月経ってから「何か異種の競技をやっているのかと思った」と語ったように、彼はMLBではbaseballをやっているのに対して、NPBでは「野球」をやって来たことに衝撃を受けたのだった。


私が見る岸田内閣の不安材料

2022-09-17 08:26:32 | コラム
あらためて岸田文雄内閣総理大臣に奮起を促したい:

岸田文雄氏については、予てから非公式な経路からの情報でも「力不足では?」と懸念する声が党内でも密かに囁かれているとの噂があったと聞いたこともあった。個人的には、あの30万円給付案が滑ったときに、この方の政治生命というか将来性は暗いのではと思わざるを得なかった。語り口でも常に誹りを受けないような具体性に乏しい無難なことばかりで、何を言いたいのかがので、自信がないのかので、自信がないのかとの印象だけが残った。

その岸田氏が突如奮起されて「二階幹事長追い落とし」を唱えて、積極的に脚光を浴びる位置に登場されたのは意外だったし「案外、この方も何か良いことをするのじゃないのか。これまでの慎重居士の姿勢は世を忍ぶ仮の姿だったのか」と見直しても良いのかなと感じさせる何かがあった。ところが、現実に総理大臣になられてみれば「聞く力」だの「手帳」などと、具体的に国民の為に何をやってくれるのかという点では、期待しにくい方だとしか感じさせて貰えなかった。

「矢張りそうだったのか」と失望感を禁じ得なかった。だが、私は持論として「我々国民が民主主義とやらの旗の下での選挙で選んだ総理大臣なのだから、俺は広島に行って彼に投票した訳ではなくとも、岸田氏に期待してお任せすべきである」と考えているので、「何時の日にか」と待つことにして来た。

だが、そこに岸田氏の統治能力というか「自分が一国の指導者である」との毅然たる態度で臨まねばならない安倍元総理の非業の死への対処、即ち国葬儀と対旧名統一教会の問題への対応がはかばかしくなく、野党とマスコミ連合軍に格好の非難攻撃の材料を提供する結果にしてしまった。しかも、為にする世論調査での内閣支持率が不支持率を下回るところまで持って行かれてしまった。

今頃になって言っても詮無いことだが、岸田総理は旧名統一教会問題があそこまでになってしまう前にというか、発生した時点で「私が総理総裁の責任として、この件に関しては自民党所属の全議員に即刻如何なる形でも、関連があった者は完全に断ち切れと指示した。今後一切国民の皆様に疑惑を持たれることはないと保証するので、宜しくご理解を」と、総理大臣として党総裁としての固い意志と決意を示しておけば済んだことではなかったのかと遺憾に思っている。

指導者としてグラついていたから、幹事長に党内の議員の身体検査を命じて、その結果報告に手間取り、出てきた結果が不十分だったことが野党とマスコミ連合軍にまたもや付け込む隙を与えてしまったのではないのか。マスコミは総理には木原誠二という片腕の官房副長官がいると報じるが、片腕はあの程度の対処法の進言しか出来なかったのかと疑いたくなってしまう。

国葬儀にしても、Prime Newsにゲスト出演された伊吹文明氏は「閣議決定に持っていかずに、国会と野党に諮っておけば・・・」とまで言っておられた。失礼を顧みずに言えば「聞く力を言われるのならば、閣議にかける前に先達の意見を訊かれても良かったのではないのかな」と思わせるのは、岸田総理には何らかの焦りもあったのかと感じている。

私は何度か「優先順位のつけ方に疑義がある」と指摘してきた。その一例としてNATOの会議に赴かれたのを挙げたい。私には海外出張に重点を置かれたかに見える動きは、国内の情勢への対処が不十分だとしか見えてこないのだ。解りやすい例を挙げれば「円安対策」、「物価上昇」等の国民の生活に直結しかねない問題への対応は言うに及ばず、今度は「冬場の節電を」と、今から国民に呼びかける不始末などは論外であると思う。

エネルギー問題を何処まで理解しておられるのかと言いたくもなってしまう。原子力発電所を幾つだったか動かせと言われたそうだが、報道ではそれらの原発は規制委員会が稼働を認めてあったところだそうだ。慎重に事を運ばれるのも結構だが、国民の生活が少しでも改善される方向になる政治をされるのが、内閣総理大臣の重大な責務ではないのだろうか。そうと知ってか知らずにか、エリザベス女王の葬儀への参列は取りやめされたのではなかったか。

私は如何なる事があっても、故安倍元総理が言い切られた「悪夢の民主党政権」を再来させそうな方向にはならぬよう、最善の努力をお願いしたいのだ。


英語の雑談

2022-09-16 08:38:49 | コラム
英語の四方山話:

今回は私一人が面白がっているような話かも知れないが、カタカナ語で言うトリビア(で良いのかな)に興味がおありならば、ご一読を。

King’s Englishとなった:
この話はチャールス新国王になられる前のことだが、こう言っておこう。それは、エリザベス女王が亡くなって多くのイギリス人が弔意を表している中で、中年と見えた女性が「女王のお姿」という意味で"figure“を遣ったのだ。だが、その発音が「久しぶりにUKの英語を聞いた」と痛感させられた「フィがー」だったのだ。「フィがー」の印象は強烈だった。

思うに、多くの方は「フィギュアー」がアメリカン・イングリッシュの発音だとは認識されていないのではないか。それで、なのかどうかは解らないが、"figure skating”は「フィギュアースケート」と呼ばれている。私が面白がっている訳は、フィギュアースケートはイギリスとオランダが発祥の地とされているのに、何事でもイギリスの英語を有り難がる傾向の我が国で「フィガースケート」とせずに「フィギュアースケート」になっていた点なのだ。

そこで、思いつくままにKing’s EnglishとAmerican Englishとの発音の違いを取り上げてみよう。1972年にアメリカの会社に転じる前にも、多少UKの大手製紙会社との付き合いもあった。そこで、初めてQueen’s Englishに接して幾つか「アレッ」と思わせられた発音があった。例を挙げてみよう。

この会社の日本支社長が"They have put up a bloody damn wall up there.“と言うのが聞こえたことがあった。「血まみれな壁」とは何の事かなとは思ったが、聞き流した。後年解ったことはbloodyはQueen’s Englishにおけるswearwordだったのだ。言ってみれば”god damned”のような罵りの言葉だった。

“schedule“は何方も「スケジュール」だと認識されているだろうが、これが「シェジュール」だったのだ。次が“reduce”で「りジュース」になっていた。そこで「なるほどリデユースはアメリカ語だったのか」と解った次第。この件には先があって、技術的な話し合いの中で「レジューサ」と聞こえたので「再びジュースにする薬剤とは何だろう」と当惑させられた。だが“reducer“即ち「還元剤」だったのだ。

エリザベス女王が亡くなったことでテレビ局が連日ニュースを流すので”can’t“を「カーント」と発音するのが聞こえたのも懐かしかった。アメリカでは「キャアスル」となる“castle”もKing’s Englishでは「カースル」なのだ。

こういう正規品の他にUKには”London Cockney“がある。これまでに何度も採り上げたようにマスコミが「貴公子」と持て囃したサッカーのDavid Beckhamは自分から「ダイヴィッド・ベッカム」と名乗っているように”a”は「アイ」と発音するのである。これはオーストラリアにも存在していて「国名」のAustraliaを「オーストライリア」と発音する首相もおられた。ごく一般的な挨拶の”Good day, mate.“は「グッダイ・マイト」と聞こえることが多い。

学校教育ではこのようなKing’s EnglishとAmerican Englishの違いも教えるべきだと思うし、何れの発音に準拠するかも明らかにして教える方が良いのではないかと思うのだ。

心不全他:
実は慢性心不全を抱えている当方は、来週から暫く振りに検査入院することになった。15年の1~2月と心不全で入院した後で、アメリカの元同僚に経過を知らせる必要が生じたので、英語で何というかを調べた。出てきた表現は“heart failure“で、医学用語は“cardiac arrest”だった。

この“failure“はカタカナ語では屡々「トラブル」として遣われているようだ。例を挙げれば「エンジントラブル」と言われているのは、私は“engine failure”だとするべきだと思っている。屁理屈を言えば「心不全を英語で言って見よ」となると「ハート・トラブル」になってしまうのではないかと思う。

余談の部類に入るかと思う話を。私は2006年に第1回目の心筋梗塞に襲われ、無事回復した後に所用でウエアーハウザージャパンを訪れたことがあった。そこには10数年ぶりに出会うパルプ部のマネージャーがいて「君はハートアタックになったと聞いていたが、元気なようで何よりだ」と言ってくれた。私は一所懸命に調べてあったことで「ハートアタックではなく、“myocardial infarction“だったのだ」と言ったら怪訝な顔をされた。

後で解ったことは、これは医学用語で、アメリカ人たちはこの種の病気を「ハートアタック」と括っていたのだった。なお、救急隊が遣う専門語では心筋梗塞は「AMI」即ち“acute myocardial infarction“で、「急性心筋梗塞」の意味だ。何度も何度も救急車のお世話になっている間に覚えてしまった。因みに、「心肺停止」は「CPA」である。