新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

我が国の紙輸出入統計の分析

2024-02-25 07:58:59 | コラム
2023年の紙類の輸出入統計から:

昨24日に続いてこの紙類の輸出入統計からの話題を。ここには輸出入の相手国別に分析してみようと思うのだ。

紙類とは言うが厳密には、この統計では「印刷用紙のような紙と、紙器用板紙と段ボール箱の原紙のような板紙」に分かれている。輸出の総量は1,876,012トンで対前年比△19.0%と、円安を活かして健闘していた。一方の輸入はと言えば1,004,563トンで△12.0%と矢張り円安の影響を示す低調振りだった。当方が現職だった1993年末までは円高にも支えられて輸入には勢いがあったのと比べれば、陳腐な表現を用いれば「隔世の感を免れない」のである。

そこで、本稿では輸入と輸出の国別の実績の内訳を取り上げてみようと思うのだ。1995年に製紙新興国の中国と並ぶ最大手であるインドネシアで今や世界最大の製紙会社と言っても過言ではないAsia Pulp & Paper(APP)の工場で、三菱重工製の超大型の最新鋭の抄紙機から時代に取り残されていた、アメリカの製紙業界では想像も出来ないようなスピードで良質な上質紙が吹き出されてくる(?)光景を見て打ちのめされた経験をしていた。

暫くは物も言えなかった程の衝撃を受けたのを思い出す。余りにも凄すぎる時代の変化だった。30年前頃には新興勢力にしか過ぎなかった中国は、今やアメリカを遙かに抜き去った世界最大の製紙国なのである。そこで、そのような世界の製紙国の地図がどのような変化を遂げたかを、この統計から見ていこう。当方は対日輸出の担当だったのだから、輸入の方が気になるので、そちらから先に。

輸入の国別内訳:
国別の輸入の第1位はインドネシアで、その全体に占める比率は35.4%、2位は中国で23.2%、3位はアメリカで19.3%、4位は韓国で8.8%、5位はフィンランドで3.9%、6位がスウエーデンで3.4%、7位がUK(=英国)で2.8%となっていた。我がアメリカはと言えば157.087トンだったのだからミルクカートン原紙の124,310トンが80%を占めており、新聞用紙等はほぼ完全に市場を失って往年の面影はない。

新興勢力が過半数を占めていて、これが時代の変化を痛感させてくれている。即ち、アメリカの凋落はウエアーハウザーやインターナショナルペーパーのような最大手が次々と新聞用紙(印刷用紙類)の分野から撤退したことの影響をあからさまに示している。

輸出の国別の内訳:
輸出に目を転じてみよう。仕向け先の第1位は意外と言うべきか何と言うべきか中国で32.6%、2位はベトナムで11.8%、3位は韓国で11.2%、4位は台湾で10.5%、5位はフィリピンで7.2%、6位はタイで7.0%、7位はマレーシアで6.5%、8位はインドで4.4%、9位はインドネシアで2.5%、10位にやっとアメリカが現れて1.4%となっている。記憶ではアメリカは我が国の優れた印刷用紙に高率の関税をかけて閉め出したとかだ。

ここでは、我が国の輸出先はアジアの発展途上国向けだったことが手に取るように見えてくる。これは、何れは彼等が製紙の新興勢力に成長した頃には、我が国からの輸入を必要としなくなるかも知れないことを予告しているとも読める。私には危険信号とも見えるのだが。

マスコミに一言:
私はここに取り上げた輸出入の統計で国別の内訳が出ているのは、世の流れの変化を知る意味でも大いに役に立つと思っている。だが、報道機関が発表する貿易統計には滅多にこういう精密な分析がないのは如何なものかと思うのだ。例えば、自動車産業界では港湾の広いヤードに無数の自動車を並べて輸送船に積み込む画を見せられるが、何処の国にどれ程向けられているのが報じられたことがない。

食料だって、カロリー計算では70%も輸入に依存していると警告する報道はあるが、何処の国から何を如何なる比率で輸入しているかなどは聞かされたことがない。この現象は政府が明らかにしないのか、マスコミの手抜きか知る由もないが、その気になれば上記の紙類の輸出入統計が示すように、資料はあると信じている。その資料を入手して、上記に当方が取り上げたような分析を見せて貰いたいものだ。

資料:紙業タイムス社刊 FUTURE誌 2024年2月26日号

2月24日 その2 長引く円安の状況下で

2024-02-24 09:21:51 | コラム
2023年の紙類の輸入実績から見た時代の変化:

¥150に近寄ってみせる長引く円安の下ではどうなっているかと、1994年まで20年以上もの間携わってきた紙類の貿易統計を眺めてみた。尤も、私からすれば「対日輸出」であるのだが。あの為替の状況では出超であることくらいは解りきっているが、印刷(紙)媒体衰退の時期にあってはどんな変化が生じているか、特に輸入については未だ少しだけでも関心があるのだ。

紙パルプ業界の実情をご存じではない方々は多いと思われるので簡単に触れておくと、私の1975年から1993年末までの実質的な紙輸出の担当期間中を通じて、我が国の輸入紙の三大品目はと言えば新聞用紙、中質コート紙、ミルクカートン原紙(か、時には段ボール原紙)だった。最初の2品種は印刷(紙)媒体向けの印刷用紙。私の在職中にでもアメリカに次ぐ世界第2位の紙類生産国でありながら、輸入に頼らなければならない紙があったのだ。

そこで、2023年の輸入実績である。往年の3大品目から見ていこう。

先ずは新聞用紙だが、印刷媒体としての新聞がネットの普及に圧されているとは誰もが承知していることとは言え、新聞用紙の輸入量は994トンと言う俄には信じがたいような少なさだったのだ。1990年代には300万トンはあったように記憶して国内の生産量は、新聞協会の発表によれば23年には167万トンで前年比△10.1%とあるから、その落ち込みは明らかである。何故、どのように減ったかを私が説明するまでもあるまい。

次は中質コート紙である。この紙は近頃では余り手に取ってみないのだが、花田紀凱氏推薦の「ニューズウィーク日本語版」の本文に使われているような少しだけ光沢がある薄手の紙のこと。我が国にも生産しているメーカーがあるがしぶとく残り、6万トンがUK、中国、フィンランド等から入っていた。だが、6万トンで23年の3大品目には入れないのだ。

3番手にミルクカートン原紙(牛乳パックの紙)を取り上げよう。 これは私が1975年から日本向けの輸出に心血を注いで来た品種である。ご存じの方もおられるかも知れないが、この品種は世界最高の製紙の技術保有国である日本では生産されておらず、牛乳の紙パックが導入された1960年代半ばから輸入に依存してきたのである。我が国で技術的に作れないのではなく、国内の需要の規模が小さ過ぎるので、国内では生産せずアメリカからの輸入のみだった。

私の在職中の輸入の最高到達点は約22万トンで、我が方が#1シェアーホールダーで8.5万トン。過去最高の輸入量、即ちミルクとジュース等向けの需要は25万トンに達していた。この紙1トンからリッターのパックが約2.8万枚取れるのだから、かけ算してみればわが国全体の牛乳とジュースの需要量が朧気ながら見えてくるかも知れない。

その25万トンに達していたものが23年には12.5万トンにまで減少していた。これは牛乳の消費量が激減したことを示しているのだが、その背景には人々の趣向が変わったことと、学童が減少したので学校給食課頼成の減退があるように聞いている。12.5万トンの内訳は残念ながら嘗ての王者アメリカが49.4%でフィンランドが48.0%と、私から言わせれば様変わりである。実は、この量でも23年度では第3位だった。

第2位には私の知識というか在職中の経験では「アレッ」と思わせられた19.3万トンの白板紙が登場していた。この紙は葉書やメニューなどの印刷にも使われるが、一般的には「紙器用板紙」と呼ばれている言わば包装用紙である。用途はケーキ、薬品、食品、煙草のパック等々の綺麗な印刷を施した凾(箱)になる。こういう紙器用板紙の輸入が伸びては少し意外で、数量的には第2位に上がっていた。

輝く第1位はと言えば「コピー用紙」(業界の呼称は「特定形状非塗工印刷用紙」であるが)の40.9万トンだったのだ。印刷用紙の需要が減退してもコピー用紙の需要は未だ未だ健在だったと知らされた。この種の紙が日本で出来ないはずがないだろうと思われるだろうが、確かに出来ている。だが、大型の抄紙機で合理化された工程で大量生産さる中国とインドネシアにはコスト的に対抗できないのである。比率はインドネシアが67.81%、中国は31.9%となっていた。

別な見方をすれば「アメリカと日本のように紙類の生産設備の合理化/近代化が遅れていたと言うよりも、利益も上がらずインターネットに圧倒されて将来性に乏しい印刷用紙を早い時点で見切っていたのでは、城を近代的な設備を誇る中国、インドネシア、韓国、ブラジル等の新興勢力に明け渡してしまった」と説明する方が解りやすいかも知れない。

久しぶりに輸入統計を見て陳腐な感想を言えば「時は容赦なく流れて、世界の紙類の需要と供給の実態を変えていた」のである。

参考資料:紙業タイムス社刊 Future誌 2024年2月26日号


迷惑メールの近況

2024-02-24 07:02:55 | コラム
1日100本以下が続いているが:

100を切っているのは、ヘボなゴルファーにとっては喜ばしい成績かも知れないが、迷惑メールではそうとはならないので困る。

迷惑メールの襲来は当方だけの問題かも知れないが、矢張り近況を書き記しておきたいのだ。ズッとその流れを見てきていると「この毎日押し寄せてくる迷惑メールにはスパムメール送信総司令部があって『このメールアドレスには、あれとこれを主体にして送れ』であるとか『今月はアマゾンを控えめにしてヤマト運輸か三井住友銀行主体(「メイン」なんて言わないよ)にせよ』というような作戦計画を立てて、標的に送りつけるようにしているのではないのか」と思わせられるのだ。

それが証拠に、嘗ては300~400本もあった頃には圧倒的過半数が「アマゾン」、amazon、amazon co.のような表示の仕方で送りつけられていた。当方がその点を取り上げると、敵も然る者でアマゾンを引っ込めてヤマト運輸にするとか、etc乃至はETCサービス等のように新手を繰り出してくるのだ。私にはとてもバラバラに多数の送り屋がいて思い思いに送っているとは思えない程統制が取れていて、計画性があるかのような変化を見せるのだ。

先月半ばからの新たな傾向には、刮目すべき流れが出てきた。それはセゾンカードとイオンクレジットサービスの急増である。全体の数は100本以下に止まっていて、アマゾンが殆ど見当たらなくなったかと思えば、この両者が取って代わってきたのだ。当方は純情にも「なる程、手を替え品を替え作戦か」と唸らせられている。

ところが、ここ2週間程の間には、司令部の指示が末端まで徹底していなかったのか、セゾンカードがOCNのブロッキングサービスの網目を潜り抜けて午後になっても束になって受信されるようになってきたのだ、しかも複数のメールアドレスを使って。この現象がOCNの不手際なのかどうかは不明だが、兎に角セゾンカードの急増振りが目立ってきている。

だが、これとても嘗てのヤマト運輸のように消え去っていくのだろうが、彼等司令部の新手を見つけ出しては送ってくる努力?と「継続は力なり」じゃなかった「継続は力の無駄遣いなり」と言いたい姿勢には腹が立つが、凄いものだとほんの少しだけ感服しているのだ。終わりに、最も腹立たしいことは、私のメールアドレスを使った妙な英文のメールが来ることだ。だが、開いてみることはしないので内容は不明だ。


私はアメリカを体験してきた

2024-02-23 08:46:15 | コラム
アメリカの文化を語ろう:

昨日も「日本とアメリカ合衆国の企業社会の間の相違」を取り上げた。これは、在職中の1990年代から機会があれば「私にしか体験も見聞も出来なかったと信じている内側に入って見たアメリカと、我が国との間にある何ともしようがない文化(ある国乃至は集団の言語・風俗・習慣と思考体系のこと)の相違」を論じてきた。「アメリカとはこういう国なのですよ」と一所懸命に語りかけてきたつもりだった。

だが、何時ものことでこの私流の「日米間の文化比較論」は、ブログではある程度のアクセスしかいただけないのだ。昨日も、その点は覚悟して、では大袈裟かも知れないが、折角22年以上もアメリカの社会の内側で知り得た事柄を書き残して、我が国と何処がどのように違うのか、何故彼等はあのように考え、行動するのかを論じれば、諸賢が「アメリカとは」を考えて頂く時に、その資料か叩き台にでもなれば幸甚であると思っているのだ。

何故、このような比較論を書き続けるのかと言えば、1990年に本部でプリゼンテーションをしたように「日本とアメリカでは相互に理解不足により要らざる誤解か誤認識というか齟齬というか軋轢が生じている場合が多いのではないかと思うから」なのである。尤も、残念ながら私が指摘する相違点を認識していようといなかろうと、お互いに日常生活には何ら支障が無いような問題でもあるのは間違いないと思う。だが、書き残しておこうと思うのだ。

こういうことを私のような視点から特に取り上げて論じておられた学者、大学教授、ジャーナリスト、有識者(専門家)、政治家もおられなかったと思う。私のような視点から語るアメリカには違和感を持たれる方が多いだろうくらいは承知して論じ且つ語ってきた。それは、私は図らずもアメリカの大手紙パルプ林産物業界の大手2社に職を得て、世界でも最も難しい市場であると認識されている日本向けの輸出に、アメリカの会社の社員として20年以上も携わってきた経験を分かち合えればと念じているからだ。

これは普通の日本の会社に勤めておられるか、アメリカに駐在されたか、大学に留学されたことからでは知る機会がないというか、しようと思っても出来ない経験だったと信じているからだ。いや、誰にでも経験できることではなかっただろうと自負している。

そこで、今回はこれまでに余り取り上げてこなかった実際に見てきた異文化の実例を取り上げて比較していこうと思う。

私は20年以上もアメリカ人の社会の中で過ごしている間に、中流から世に言うアッパーミドルかそれ以上の人たちの家庭の中にも、同僚としてかあるいは部員(部下)として、準家族扱いかお客様として入っていく機会を得た。難しい言い方をしなければ、家族のように親しく付き合って貰えて、家族と食事をすることもあれば、彼等に請われて共にスーパーマーケットまで材料を買いに出て、一家揃ってすき焼きをしたこともあった。

すき焼きは家族全員に楽しんで貰えたが、奥方からはクレームが来た「今後あのように煙が出て台所を汚すような料理は二度と作らないようにしてください」と言って。彼等の台所には堂々たるアッパーミドルクラスの家でも、我が国ならば何処に行ってもあるような大きな俎板、各種の包丁などは準備されていないのである。即ち、サッと電子レンジ(electric oven)でチンするだけの調理法が多いのだから。

副社長が遠来の最大の取引先の常務さんを自宅にお招きして、アメリカ式では最大のお持てなしである夕食に招待した時のことだった。奥方が調理するところはダイニングルームからも丸見えだった。副社長が庭で焼き上げたステーキに添えるジャガイモを、奥方がチンする場面まで常務さんには見えていた。常務さんは感動する前に驚かれて「こんなお持てなしで良いのか」と、異文化を見守って帰国された。

これには後日談があって、次に副社長が来日した時に常務さんは自宅に招待されて、純日本式に自宅で調理された山海の珍味を並べ立てられて歓待されたのだった。和食、特に生ものが苦手だった副社長は最大限の努力で日本食と会話を楽しむ夜とした。

視点を変えよう。日本ではアメリカだけではなく、白人と言うべきか、アメリカやヨーロッパの世界ではごく当たり前の「挨拶の方法としてkiss」がある。頬でも口でも、誰でも見たことがあるように行われている。ところが、この習慣は我が国の文化には馴染んでいないようで、キスは恰も性愛の第一段階の如くに看做されていて「二人の間でのファースト・キスは何時」などと尋ねてしまうのだ。彼等の家庭の中にいれば家族の間で朝から晩まで実行されているのだ。

私はそういう異文化の世界に馴染むのには、人知れぬ苦労というか度胸を養わされた。それは、工場の事務方に長い付き合いがあった女性がいた。工場に行くたびに事務方の彼女も打ち合わせがあるので、ごく当たり前と思って先ず握手から入って行った。すると、何年か経ってから突如として「もう好い加減に他人行儀は辞めて、チャンと普通にハグしなさい」と抱きつかれてしまった。「ファースト・ハグ」で、恐ろしい程の異文化との遭遇だった。

激しい動悸が来たし、どうしようかと腑抜けになったかのような感覚にとらわれていた。何が言いたいのかと言えば、こういうアメリカ人の中では当たり前の礼儀は、私にとっては異文化そのものだったという事なのだった。これに慣れないと彼等の仲間として認識されないことがあるのかというレッスンだった。

こういう異文化との遭遇ではキリスト教関連の経験も取り上げておこう。2000年の4月にリタイア後に初めて本部を訪問した時のことだった。長年仕事での付き合いがあったLindaが、復活祭の日曜日にミサに行こうと誘ってくれた。信者であるかないかなどは問題ではないし、終わった後に実家の両親と夕食会があるから参加してはと招待された。感謝して参加した。

恐る恐る勿論プロテスタントの教会に生まれて初めて入った。カトリックとは違って新教は形式にとらわれないのが特徴と聞いていたが「どう致しまして」で、誠に荘厳なミサで圧倒された。バチカンでサン・ピエトロ大聖堂に一歩踏み入れた途端にその何が何だか良く解らなかった余りの荘厳な雰囲気に圧倒されて、信者でもない私が涙を流していたのと同様な感覚で、気が付けば涙が流れて止まらなかった。

儀式終了後に全員が立ち上がって“Happy Easter!”と言いながら、誰彼となくハグし合うのだった。これが宗教の持つ何とも説明を付けられないところで、ハグの相手も私も感動(なのだろうか)涙を流して主の復活を祝っていたのだった。「信ずる者は救われる」と言うが、信者たちはこういう救いを求めているのかなと考えていた。

このようにプロテスタント(一神教)のミサに参加する機会を与えられて、初めてアメリカで「キリスト教の儀式」に接して、何がどう具体的に違うのか不明だったが、我が国との違いを痛感できた一時だった。


日本とアメリカ合衆国の企業社会における文化の違いを考える

2024-02-22 09:23:13 | コラム
日本とアメリカの間には文化(言語・風俗・習慣と思考体系)に違いがある:

導入部:
1972年8月に未だ39歳の時に、アメリカ紙パルプ産業界の上位5社の中に入っていたMead Corp.に日本駐在のパルプマネージャーとして入社したのだった。その頃には純情にも(「naïveにも」でも良かったかも知れない)日本とアメリカの企業社会には何ともしようがない「文化の相違がある」などとは全く意識せずに、ただひたすらこれから果たしていくべき任務と仕事の重大性だけを意識して、何として採用された期待の大きさに応えようとだけ考えていたと思う。

だが、1990年に「Japan Insight―日本とアメリカの企業社会の間に存在する文化の相違」と題したプリゼンテーションをウエアーハウザーの本部で試みるまでには18年もかかっていたのだった。それほどの年月を費やして理解し認識できたことは「例えて言うならば、日本とアメリカの企業社会ではそれぞれのOS(operating system)が別種であるか、全く違っている」のでありながら、双方で「相手国のOSもこちらと同じはずだから、有無相通じるべきだ」と思い込んでいる点なのだった。

そこで、本論に入る前に具体的な例を挙げて「何処がどのように違っているか」を述べていこう。

4年制の大学の新卒の採用:
日本では当たり前のことである「入社試験をして新卒者を毎年定期的に採用して、その会社の方針で教育していく形」は「アメリカ、特に製造業にはそういう制度も慣行もない」という違いがある。尤も、金融/証券界はそうではないようであるが。私が知り得た範囲内では、4年制の大学の新卒者(BA)は先ず中小企業に就職し、そこで何らかの優れた手腕を発揮できるよう努力して、大手製造業から勧誘を受けるか、自ら売り込むか、人材会社に登録しておく等々の手法で、我が国で言われ始めた「job型雇用」のチャンスを待っているのだ。

MBAの学歴:
「最早、この学歴はある程度以上の規模の会社では、生き残れるか否かの分かれ目となる重要な資格」になっていると聞いている。今ではMBAを取得するビジネススクールに入学する前には新卒者(BA)は4年間実務社会での経験が求められているので、金融/証券界や会計事務所、コンサルティング事務所等をその足場として就職する例があると聞いている。

なお、アメリカの会社で上記のような採用のシステムがあり、仕事の担当分野等々全てが個人単位であるのだから、「同学年の同期入社」も「同じ部や課の中での同僚との比較による出世競争」もあり得ないことになる。1980年代までは有名私立大学のMBAなどは所謂「スピードトラック」に乗って出世街道をひた走る為の有力な武器だったのだが、21世紀の現在ではMBAは生存する為の資格に変わってきたのだ。

日本とアメリカの教育(勉強の仕方)の違い:
ここにも日本とアメリカとの間には大きな違いがあると言える。アメリカの大学に行けば「膨大な量でとても来週の授業までに間に合わせられない」と諦めてしまうような宿題や、リポートの提出等が求められ、平常点、出席点、試験の成績、debateでの発言等々に成績を単純に合計し割り算して判定する採点方式であるのが日本との相違点であろう。だが、問題はこれだけに止まらない具体例を挙げおこう。

ウエアーハウザー本社には“Market & Economic Research (M&ER)というアメリカ全土に名を知られたエコノミストのLynn Michaelis率いる強力な「経済調査部」があった。そこにICUからUCLAのMBAを持つエコノミストのMU君(日本人である、念のため)がいた。私も出張の度に時間が許せばU君から色々と勉強させて貰っていた。そのU君が我が社でも度々実行されたリストラにかかって整理された。

「何で君が」と尋ねると「自分と同僚のアメリカ人の2人の何れかが整理対象となっていた。だが、自分が負けるとは読めていた。何故なら、彼よりも英語の能力が劣るから」と、切られた理由を解説してくれた。U君は「それでなくても我が国とアメリカでは教育の仕方と言うか教え方が違うので、その環境で小学校から育っていないと勝ち目は薄い」とも言うのだった。

彼は何処か違うのかと言えば「UCLAのビジネススクールに入って周りを見渡せば、アメリカ人の院生たちがそれほど頭脳明晰ではない者ばかりで、これならば充分に優等生でマスターを取れると思った」のだそうだ。だが、実際に授業が始まると彼は誤解であり誤認識だったと徐々に解って、自分には勝ち目がないのでは無いかと見えてきたそうだ。彼は「そのアメリカ式に慣れて卒業はしたが、成績は劣等生の部類だった」と悔やんでいた。

それは「彼等は日本式の教えられたことだけを復習し、さらに予習をして試験で良い成績を挙げる方式ではなく、自分から能動的に勉強と新規の研究課題を見出してそれに挑んでいくアメリカの方式で育ってきている。それに対して、我々は言うなれば受動式の受け身の勉強方式で過ごしてきたので、彼等と比べて能力が劣っていなくても、劣勢になってしまうのだ」と文化の相違を解説してくれた。彼は「負け惜しみだが」と言って「始めからアメリカで勉強していたら負けなかったのに」と回顧して見せた。

“文化の違いという名の凸凹道を貴方が平坦な道路だと思って歩けるように綺麗にならして上げるのが私の仕事”
私が生涯最高の上司と呼んで来た10歳年下の副社長兼事業部本部長(当時)と私自身、それに事業部がこの日本市場で成功するためには、「企業社会における文化の違いを如何にして征服して不要な摩擦を起こさずに揺るがぬ取引関係を確立するか」が、私に与えられた最大の課題の一つであると認識していた。だからこそ「文化の違いとは如何なるものか」を認識することに神経を集中した。私が語る事柄はその努力の成果であると自負すると共に、もしかすると日本とアメリカは相互に本当に理解し合う時が来ないのではなどと本気で心配している。

日本とアメリカ相互の理解・認識不足:
日本とアメリカの文化に明らかな違いがあることに対して、最早戦後70年以上も経っているのに、日米相互に認識不足であるのはどうしたことだろう?思うに、圧倒的な大多数の人は「アメリカのことは先刻承知だ。何もことあらためて聞かされることではない」と認識しておられるだろう。日本では未だに「アメリカとは服装がキャジュアル(カタカナ語は「カジュアル」)で、言葉遣いもスラングが多く、粗野な人が多く、自由で、誰でも出自に関係なく努力さえすれば報われて、出世も経済的な大成功も可能な国だ」と信じておられると真顔で言われた事もあった。偽らざる所を言えば「矢張りアメリカといえども知られざる国なのだな」と、言うなれば安心して気落ちしたかの感があった。

その背景には我が国の、英語等の外国語によるによる「日本とは」等の情報発信量がほとんどゼロに近いことがあるだけではなく、「アメリカとは」という情報の受信も誠に不十分であったと確信している。一例を挙げてみれば、2007年の第一次安倍内閣の総辞職の報道はアメリカではUSA TODAY紙ではベタ記事、CNNのニュースでは一度だけという状態だった。彼等の日本に対する関心の度合いが解る扱い方だった。結論的に言えば、日本とアメリカ政府が相互に時機を逸することなく正確で詳細な情報の発信の努力をすべきなのだが、この辺りは報道機関の責務ではないのか。

 私は1990年以来、機会ある事に書き物と講演と、さらに96年からはラジオ放送で、同盟国間の相互理解と正確な認識の必要性を説いてきた。アメリカ側の対日本の理解度などはかなりお寒いものであると、22年有余の外資暮らしで十分承知していた。私は故田久保忠衛氏が指摘したような「我が国はアメリカの妾」などではなく、企業社会では「親会社対子会社」のように見ていると解釈していた。

だからと言って、日本側の「アメリカとは」との理解が十分だったとも思えない。この度の佐々木麟太郎君のスタンフォード大学進学についてのテレビの報道を見ていると、彼等は知っていて言わないのか、知らずに言うのか不明だが「よくもそんな事が言えるものだ」と呆れさせられているほど、実態を知らないかのようなのも困ったことだと思う。

 その相互不理解振りたるや「長年連れ添った夫婦間の相互理解の認識と理解不足よりも酷い状態」と、多くの大学で国際法を教えておられたTY先生が喝破された。私如きには到底思い浮かばなかったような至言であると思って拝聴した。

 本心を言わせて貰えば、私の文化比較論の主張の如きものが未だに役に立つようでは、我が国のアメリかに対する認識不足が浮き彫りになって余り宜しい事ではないと思うのだ。だが、「相互の認識と理解不足の状態ではない」と思っておられる方が多いようなのも困ったことではないか? 私の経験上からも言えるのだが、アメリかには平然と「日本は中国の一部では」などと言う人たちが今でもいるのだ。

結び:
以上を「序論」として、今後も何とか機会を捉えて昭和20年から習い覚えた英語と実際の経験を活かして「日本とアメリカの文化の相違」の各論を取り上げていこうと思っている。

 何れにせよ、ここに記した事柄は昭和26年(1951年)に入学した上智大学で学んだ文化の相違点と、日本とアメリカの紙パルプ・森林産業界の会社に22年も勤務した経験に加えて、1994年1月末でのリタイア後から2007年までの多くの職歴と、在職中にアメリカのアッパーミドルとそれ以上の人たち及び彼等の家庭にも入って感じ取り更に見聞した文化の相違に基づいているのであるが、飽くまでも比較論であってアメリカ礼賛ではないと申し上げておく。