私にしか語れないと自負するアメリカの文化を:
アメリカとはこういう国なのだと思っている話を採り上げていこう。
俺の年俸は彼より低いのだ:
我が副社長兼事業部長は言った「俺の年俸はあの営業部長より低いのだ」と。何故これが逸話なのかと言えば、副社長はそもそも州立の4年制大学出身で、本社とは別組織の工場での地方採用の会計係だった人物。それが抜群の才能を見込まれて、我が事業部のシカゴのカートン販売の営業所長に引き上げられてきたのだった。所長とは言っても所謂「ワンオペ」だったが、そこでも抜群の成績を上げて、34歳で本部のカートン販売部門のマネージャーに大抜擢された。
即ち、シカゴ時代には上司だったマネージャーを、原紙販売部門のマネージャーに押し出したのだった。そして、またまた大活躍で利益を大幅に増加させ、遂にはその後2年で彼を工場から引き上げてきた上司の副社長兼事業部長を追い落として、事業部長に昇進したのだった。という事は、彼が横に押し出した嘗ての上司だったマネージャーは、何と地位が逆転して彼の部下になったのだ。
そこで、新事業部長が私に「俺は彼の上司にはなったが、未だ年俸は彼の方が高いのだ」と言って笑った。この意味は「アメリカの企業社会では年俸制で給与は1年ごとに事業部長と話し合って決めるのだ。故に、その年の途中で昇格しても役職等の諸手当などがない世界だから、年俸は変わらず据え置き」という事。我が国で事業部長の給与が、配下の部長よりも低い事などあり得ないと思うが、アメリカではこの例が示すように、当たり前なのだ。
なお、新事業部長は翌年に自ら改訂して、部下のマネージャーよりも高額の年俸になった。
リタイアした工場の事務課長の家は:
工場の(日本式で言えば)事務課長辺りに相当するFrankが「リタイアしたので、君に遊びに来いと言っている」と、技術サービスマネージャーのGregが言うので、お互いに時間の都合が良い時に案内して貰った。Gregがまるで人が住んでいるような気配がない小高い丘を上がっていくので「何処に行く気か」と尋ねると「この丘がFrankの家だ」と妙な事を言うのだった。
頂上まで上がると100坪はあるだろうか広々とした家があった。「凄いな」と感心して「この丘は君の所有か。その広さは」と尋ねると、約5エーカー(=約6,000坪)の丘全体が彼の土地だと言うではないか。正直、幾ら土地が安い地方の都市でも、個人で5エーカーとは度肝を抜かれた思いだった。軽くウッドデッキでビールなど飲みながら(往年はビールの一杯くらいは飲めた)Frankにフランクに「リタイアした後に何か趣味でもあるのか」と尋ねた。
答えもまた素晴らしかった。「あそこを見ろ」と指さす方を見れば、馬が2~3頭草を食べていた。「あのように馬を放牧して楽しむのが趣味だ」と言われてしまった。Gregは本社機構の一員だが、在職中にコロンビア川という川幅3kmの河川敷の所謂“water front”という、最もアメリカ人たちが憧れる贅沢な場所に、1エーカー(=1,200坪)の土地付きの家を買って、リタイア後の生活の準備してあった。
州立大学にしか進めないと解った時に、自分の将来が決まったと感じた:
2005年に偶然に我が社の林産物事業部門の中のある部の統括の経理担当のマネージャーの女性と、成田行きの京成スカイラナーの中で知り合った。彼女を日暮里の駅で見送っていたのが息子さんで、明治大学に留学中なので、一度会って話を聞いてやってくれと依頼された。帰国後にヒルトンホテルで3時間程語り合った。そして、「何故、日本に留学したのか」等々色々と訊いてみた。
彼は州立のUniversity of Oregonにしか進学できないと解った時に「高校までの間にもっと勉強しておくべきだったと反省した」と言うのだった。実は、これは非常に尤もな嘆きなのだ。それは、アメリカでは我が国とは異なって州立等の公立大学は私立大学よりも格下に評価されているのだ。州立大学、それも4年制の出身では先ず大手企業に途中からでも採用される機会は殆どなく、またその機会があっても身分/地位の垂直上昇は望めないのだ。
彼が言うには「大いに反省して、どうしたら自分の将来を自分の手で切り開けるかを考えた」そうだ。そこで到達した結論は「母が勤務している会社は輸出に注力して日本を主力にしていると理解している。そこで、経済学を学ぶ傍ら日本語を身につければ、日本向けの輸出企業に就職する道が開ける」と考えて、教養課程で2年間日本語を習得してから、明治大学の政治経済学に留学したのだという。
ここまでのところで要点は二つあって、先ずは「アメリカでは州立大学ではビジネスの世界では容易に立身出世の道が開けてこないという事」と「日本との密接な関係を考える時に、日本語を習得してあれば、海外への進出の可能性が出てくると考えたという事」なのだ。また、この彼の考えの背景には「ウエアーハウザーの経理担当マネージャーの家庭からでは、東海岸のIvy Leagueの私立大学への進学は経済的には難しい」という事がある。
この会談で非常に衝撃を受けたことがあった。それは、彼が「2年間大学の教養課程で日本語を学んだだけで、明治大学の政治経済学に留学して、日本語の授業に何らの問題もなく理解できているし、ついて行けている」と自信たっぷりで言った事だった。「我が国の英語教育で2年間勉強しただけで、アメリカの大学に行って何の問題もなく英語の講義に付いていけるだろうか」を考えてみて貰いたい。何かが違いすぎないか。
何か忘れてはいませんか?:
少し軽い話題を。アメリカでは旅行社のガイドなどには、彼らが団体客等を案内した店から一定額の手数料が支払われるような決め事(文化?)があるようだと何となく聞いていた。私は仕事の一部で日本からいらした団体などのアテンドをする機会が屡々あり、要望があれば買い物にご案内する事があった。確か1983年にシカゴで、30数名の団体の買い物ツアーをした場面があった。
ご一行様がお土産に化粧品を買いたいとの要望があり、かの有名なる「華麗なる1マイル」と言われる“North Michigan Avenue”のデパートにご案内した。ご一行様は何故か私がお勧めしたChanelではなく、クリスチャン・ディオールの化粧品売り場に殺到され、買いまくられた。売り場の担当者はサンクスギビングとクリスマスが同時にやってきたようだと大喜びだった。私はふと思い出して、担当者に「何か忘れていませんか」と揶揄ってみた。
彼は慌てふためいた表情で「大変失礼致しました」と言って奥に引っ込んで何かを持ってきて「これをどうぞ」と言うのだった。矢張りガイドに手数料を払うというのは事実だったと確認できた。だが、彼には「私はこれこれ然々のアメリカの会社のマネージャーで、現地でのアテンドをしている者である」と名乗って、丁寧に返却した。まさかツアーガイドだと見られるとは予想していなかった。
クレディットはSueに付けておくから:
アメリカは何事でも「個人が単位」と繰り返して指摘してきたので、その具体例を。私はスーツケースやブリーフケースを同じブランドで、同じ店の顔見知りの女性店員・Sueから買い続けていた。名刺も渡してあった。すると、彼女が東京のオフィスにまでセールの葉書を送ってきた。偶々出張の時期と合ったので、その葉書を持って長年狙っていたガーメントバッグを買いに出かけた。生憎彼女は休暇だったので、店長が担当して無事購入できた。
すると、女性の店長が言うには「心配しないでください。今日のクレディット(=creditは手柄、功績の意味)はSueに付けておきますから」だった。この意味は「アメリカの小売業では販売員たちは言わば個人事業主たちで、一人一人が自分の店を張って自分の常連乃至は固定客を沢山持っておこう」とするのだ。この習慣を知ってからは、化粧品なども同じデパートの同じ販売員から買うようにして、大いに便宜を図って貰っていた。この辺りも文化の違いの一つの例だろう。