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フリードリッヒ二世の生涯(下)ー塩野七生

2022年08月26日 | 読書
評価5

再読(前回2020年11月26日)。
神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒとローマ法王の対立はエスカレート。1239年に3度目の破門に処された皇帝はついに1241年公会議のためジェノヴァからローマに向かう聖職者を襲撃して捕虜としてしまう(メロリアの海戦)。対立の原因は、フリードリッヒが教会法以外の法に基づく中央集権的君主政国家創設を目指したことにあった。

1243年に即位したインノケンティウス4世は関係改善の気配を見せるが、和議の先送り後リヨンへ逃亡、皇帝の地位の剥奪を目的とする反皇帝十字軍の結成や皇帝と息子の殺害を企てるのだった。1250年にフリードリッヒが病でこの世を去ると、ローマ法王はフランス王ルイ9世の弟シャルルにシチリア王国統治権を授与し(1264年)、シチリア攻略に成功するが、1282年にはアラゴン家に嫁いでいたフリードリッヒの孫娘コスタンツァが率いるスペイン軍がシチリア全土からフランス軍を一掃して怨念を晴らすのだった。

近代の先駆者フリードリッヒの没後41年目のアッコン陥落(1291年)によりシリア・パレスチナの十字軍国家は崩壊し、時代はルネサンスへと向かうのであった。

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