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昭和50年白堊野球物語(終)-S42佐藤泰久さん作

2013年05月31日 | 白堊野球
センバツでも夏でもあと一歩のところで甲子園への夢を断たれたエース林とキャプテン金野は、各々東京六大学の立教、明治に進学する。すなわち林は城南小→下橋中→盛岡一→立教、金野は大船渡小→大船渡中→盛岡一→明治の球歴となる。

林は野手に転向、一年秋から代打で出場し活躍、江川とも対決した。金野は当時東京六大学最強の明治・島岡監督のもとで3年春の早明戦から出場、初打席初ホームランという快挙をやってのけた。そして昭和54年秋のシーズが終わると、各々、立教大学野球部主将、明治大学野球部主将に推挙された。

そして昭和55年10月26日、両教え子が対決する秋のリーグ戦立明2回戦に小山野球部長はバックネット裏観戦に駆けつけたという。春のリーグ戦優勝校・明治への立教の挑戦、延長にもつれこんだ熱戦は10回裏二死、立教キャプテン・林のサヨナラホーマーで決着する。これによって明治の3シーズ連続優勝は断たれた。両チームナイン整列して最後の挨拶、両チームの先頭にはキャプテンとしての林、金野の姿があった。


時はくだって平成11年、この年、盛岡一高野球部は創部100周年を迎えた。一高野球部の歴史はすなわち岩手野球の歴史でもある。記念試合として一高OBVS盛商OBが企画され、5月2日、岩手県営球場に往年の名選手が集った。監督は一高が杉田清彦、盛商が佐々木宏、まさにあの昭和50年夏の再現である。森雄一(S24,25甲子園出場)、小笠原敬二(S43甲子園出場)、駒木進(同)、森常記(S53甲子園出場)、、、その中に混じって金野健の姿もあった。解説者としてアナウンサー席についたのは、一高から金野、盛商からは「44イニング無失点」の滝村正彦だった。アナウンサーの「あの夏以来ですが、その後会うのは初めてですか」との呼び水に

滝村:「はいそうです、24年ぶりです」
金野:「そうです、あまり会いたくない相手です(笑)」

金野のいつわらざる心境だったのだろう。そして再度の対決の時がやってきたのである。


5回裏2死1・3塁で24年の歳月を経て、金野・滝村は再び対決する。余裕の笑顔を見せる滝村に対し金野の表情は真剣そのものだった。脳裏に去来するのはあの昭和50年の夏か..。ボールスリーからレフト線ファール、そして5球目、痛烈な当たりではあったがセンターフライに終わった。かくて四半世紀を経た竜虎あいうつ戦いもまた軍配は滝村に上がった。激烈を極めたOB対決も10-11で盛商の勝利に終り、この物語は完結を迎える。

昭和50年の一高野球部、惜しくも甲子園への出場はかなわなかったが、白堊野球史上5本の指には入るであろう、いやもしかすると最強であったかも知れない。このチームに続く後輩たちは、ベスト8、ベスト4と好成績を重ね、昭和53年にはみごと9回目の甲子園出場を果たすことになるのである。

最後に我が一高野球部、そして永遠のライバル盛商野球部のさらなる発展を心から願って、「昭和50年白堊野球物語」の終章とする。(完、文中敬称略)

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それでは、
林寿郎選手 (立教大学主将) と金野健選手 (明治大学主将)の「週刊ベースボール増刊号」に掲載された記事を紹介します!

S42佐藤泰久先輩からお送りいただいた画像です。

少し字が小さいかもしれませんが、是非お読みください。

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