8月9日付 編集手帳
都々逸にある。
〈松という字を分析すれば きみ(公)とぼく(木)との差し向かい〉。
人と人とが寄り添う。
差し向かいになるはずが、
相手からツンとそっぽを向かれた松は気の毒である。
大津波で倒れた岩手県陸前高田市の景勝地「高田松原」の松で作った薪(まき)を
「京都五山送り火」(今月16日)で燃やす計画が中止になった。
放射能汚染を心配する声に配慮し、
大文字保存会(京都市)が判断したという。
犠牲者の名前や復興の願いが書き込まれた薪は、
鎮魂の祈りとともに京都の夜空を焦がすはずであったが、
それも残念ながら叶(かな)わない。
高田松原は原発から遠く離れ、
検査でも薪から放射性セシウムは検出されなかった。
それなのに、である。
この一件は例外的な出来事であって、
被災地の人々や産品を科学的根拠もなしに遠ざける心が知らず知らず、
日本人の胸に根を張ったのではないと信じたいが、
さて、どうか。
一人ひとりが胸に手をあててみる機会になるなら、
不幸な松たちも幾らかは浮かばれよう。
「大」という字を分析すれば、
おのれ一人がいるばかり。
寄り添う心を持てない世の中はさびしい。