9月10日 編集手帳
所用や出張で旅をしたとき、
帰宅してから「しまった!」と思うことが少なくない。
用件を済ませた空き時間に足を少し延ばせば、
すぐそばに景勝の地があった。
名高い飲食店があった。
珍しい博物館があったと、
あとで気がつく。
たいていの場合、
「しまった!」はすぐに「ま、
それもいいか」に変わる。
もう一度、
ここにおいで。
その土地が自分を誘っているように思われて、
いつ実現するとも知れない再訪の旅を心待ちにするのが習いである。
〈人はたまたま物を置き忘れるのではない、
その場所へ戻ってきたいからだ〉
レジナルド・ヒルの小 説『骨と沈黙』(早川書房、秋津知子訳)で、
登場人物が精神科医の所説を借りて語るセリフにある。
年齢で近年とみに物忘れがひどい身には心強いお説だが、
いつか再訪しようと心にきめた土地の名でさえ、
ときに忘れてしまうのが情けないところである。
24歳の若さがあれば何の心配も要らない。
大切な忘れ物を受け取りに、
その人が決勝のコートに戻る日は来る。
彼が味わった万分の一か億分の一にすぎないだろう悔しさを、
いまは腹に飲み下して、
そう思う。