情報が川を流れる大水のように押し寄せてきます。
しかし、この情報の洪水を使いこなせるほど人間は成熟していません。
だからむしろ、自分と同じ考えや意見ばかりが集まっている空間に無意識のうちに頼りたくなります。その方が安心できるからです。
ネットの「フィルター・バブル」は、その要望に応えてくれるように、見たいもの、読みたいものだけを提供してくれます。
そもそも、人間は見たいもの、信じたいものは積極的にに認識しようとします。
ただ、私たちが「見ている」と思い込んでいる光景は、じつは外部から受けた刺敵を脳内で再生したものです。
だから、その人にとって都合の悪い情報や怖いものが目の前にあると、脳が映像化を拒否して映さないことがよくあります。
つまり、人間は自分を肯定したり、正当化したり、興奮させたりする、「自分の都合」に即した刺激だけを強く受け取っているのです。
そこで、情報とのつきあいかたは、まず「自分の都合」を括弧で囲んでものごとを見たり、考察する習慣をつくることです。
「自分の都合」に基づいて集まる情報を前にして、ひと呼吸おき、物事がそこに至る文脈や経緯はなんだったのかを冷静に考えるのです。
つまり、事実に基づく論理が大切なのです。ウェブ上には、歴史の風雪に耐えた先人たちの知恵や思考、つまり論理もたくさん横たわっています。
ですが、今のSNSなどは、むしろ感情を増幅させるしかけになっています。
「とんでもない結果が待っていた」
「ありえない〇〇で」
「に涙が止まらない」
「に言葉を失う」などの扇情的な表現が並んで、「そうだ、許せない」「うーん、悲しい」という感情が高ぶるのです。
良識や見識をもって刺激的な情報に目を奪われるだけではなく、時々はあえて自分から
「ほんとうにそうだろうか?」
「それって、とんでもないことかなあ? よくあるのではないだろうか?」
「たしかに・・・、でも〜(Surely ・・・, but〜)」
と考えなおすことです。
または、言い換えはできないかと考えることです。たとえば「言葉を失う → 驚いた」となると、受ける印象も軽くなります。
いずれにしても、情報の洪水に個人としてはどう対応するかは、人として生きるうえで、必要不可欠になる時代に、私たちは置かれています。