子ども家庭庁が、来年の4月から設置されることになりました。
これは、今まで文科省や厚労省、警察庁、内閣府などが担ってきた子どもにかかわる行政事務を集約するはたらきをすることになっています。
国連の「子どもの権利条約」に基づいています。
この権利条約は、子どもは健全に成長し、安全な生活が保障され、守られる権利があることを国際的にうたっています。
日本では、従前から、子どもは未熟で何もできないからという理由で、子どものための施策を大人が考えて、「転ばぬ先の杖」のように、「子どものためによかれ」と進めてきました。
そこに、どれだけ子どもの声や意見が聞かれ、反映されてきたかというと、心もとない限りです。
新型コロナウイルス対応では、感染防止のための方策をほとんどすべて大人が決めてきました。
給食は机をくっつけないで、みんなが前を向き、「黙食」するように強いてきました。
楽しいはずの給食の時間が苦痛になっている子がいます。
日本社会や日本の学校教育のなかでは、子どもは教えられたり、指導される対象であるという考えが根づいています。
子どもはたしかに手がかかります。友だちともめごとも起こします。
しかし、存在そのものを受け止められ、見守られるべきものです。
人として大切にされ育まれた子は、大人になると他の人の意見を尊重して、共に生きる人になるのです。
子どもの願いや思いを聴き、それに応えていくことは、心ある教育関係者なら、今まで実践してきたことです。
そして、大人と対等な関係を築き、子どもの声を聴き、子どもの願いに応える教育を進めるのに子ども家庭庁が貢献するなら、新しい庁をつくる意味があるというものです。
刑務所の生活に適応し過ぎると、出所後に再犯に至りやすくなります(先日の立てこもり事件のように。そういう方、少なくないです)。
学校生活に適応し過ぎて、その後の人生で躓く、となれば、本末転倒。
(「子どもはたしかに手がかかります。」わが身を振り返って、深く染み入る言葉。)
「人として大切にされ育まれた子は、大人になると他の人の意見を尊重して、共に生きる人になるのです。」
名古屋の所謂「ドン横」に集っていた子たちの存在が思い浮かびました。「人として大切にされ」なかった結果、あの場所に集い、食い物にされたのでしょう。
刑事司法系と教育界、問題意識を共有しやすい(子ども家庭庁が少年院を所管しても驚きません)。