私が、教師になったころは、児童生徒が学校に登校しないことを「登校拒否」と呼んでいました。
ところが、社会での認識が進むにつれ、登校できない(しない)理由は子どもそれぞれにさまざまであり、共通しているのは「登校できない」という状態である。
たからその状態だけに焦点を当て、「不登校」という言葉が使われるようになったという経緯があります。
不登校の原因は、はっきりしていないことも多く、複雑に絡み合っている場合もあります。
私たちはふつう、結果には必ず理由や原因があるとして、原因究明に注力します。私たちは因果関係で物事を理解することに慣れているのです。
たしかに、いじめによる不登校の場合、いじめと学校に来れないという因果関係を明らかにする必要があることもあります。
また、親御さんの中にも、わが子の不登校の原因を見つけ、それを解決して登校できるようにしたいという意向を持たれている場合があります。
しかし、そのような場合でも、「原因の解決⇒登校できる」とだけ考えるのではなく、原因を抱えながら何ができれば登校できるのか、どんな力をつけると登校に向かえるのかというように、登校できないという状態をどう乗り越えていくかを探すことに重点を置いたほうがいいように思います。
「友だちが、自分のことを笑ったり、悪口を言う」という理由で学校に来ない生徒がいたとします。
周りのおとなが「笑った、笑われた」「悪口を言った、言われた」という事実を明らかにして、仲直りの謝罪をさせた。
それで、登校するようになったかといえば、登校日数という結果だけをみれば、よけいに来ることができなくなったという例もあります。
じっさい、「不登校の原因はなに?」と問われて、はっきりと明確に答えることのできな生徒も多いのです。
この例の場合、この生徒はウソをついたのではないのです。思い当たることが「笑われる、悪口」だったのであり、その他の複雑に絡み合う心のモヤモヤを表現できなかったのです。
上の例の場合は、ほかの原因に対応したり、その原因を抱えながらどのように学校生活に向けていくかという配慮がなく、アフターフォローというサポートがなく、その後も来れなくなったという状況であると考えることができます。
では、不登校生徒への支援をどうしていけばいいのか。
「これから何をしたい?」とか「どうなりたい?」と教師が問いかけても、先の未来のことや未来の目標を答えることができる子はまずいないでしょう。
その場で立ちすくんでいるのが不登校の生徒なのです。
❶そこで、第一に、安心できる居場所があること。それは学校でなく、家であってかまいません。安心できる居場所が確保され、エネルギーを充電していけば、学校でもがんばることができます。
❷次に、ずっと先のことは無理でも、なにか学校登校に向け、少しでもできることをいっしょに考えることです。
そのために、学校でのクラスの様子を伝えるとか、この学校行事にだけは出席してみようとか、学校だよりや学級通信を届けるとかして、つねにその子と学校をつないでおく必要があります。
子どもが多くの情報の中から、選んでくれればいいのです。
❸さらに、ネガティブな方向に向きがちな子どもの考えに変化をつけるため、なにか日常生活でこれはやってみようということを決めるのもいいでしょう。
犬を連れて散歩する、近所をジョギングする、お風呂の掃除をするなど、学校に関係ないことをやってみて、環境に対して働きかける経験を積むことで、自分の行動に自信を持たせていきます。
❹あと、教師にはできないこととして、中学生の近未来を描く大学生のボランティアに協力を求めることも効果的です。
少しだけ先の未来を子どもに描かせることができます。
「わたしもこうすれば、大学生になれんだ」という目当てもつことができます。
不登校生徒の支援は簡単ではないでしょうが、不登校の生徒は多くの生徒の課題を凝縮した姿でもあります。
「どの生徒も不登校になりえる」という認識をもちます。
不登校の課題に向き合うということは、すべての生徒に向き合うことになるのです。
教師にとっては、何のために教師になったか、生徒にどうかかわるかを問い直すことを求めているのが不登校の生徒です。
あと、今回の新型コロナウイルス感染防止のため、長期にわたる休校になりました。
ほかの多くの生徒は、学校に行きたくても行けないという思いを経験しました。
それは、多くの人にとっては「非日常」だったでしょうが、不登校の生徒にとっては、それは「日常」であるのです。
世間の人びとが、そういう見方で不登校の生徒の心情に想いを馳せてほしいと、わたしは望みます。
(本文の内容と写真は、無関係です。)
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