わたしの場合、2回目のファイザー社のワクチン接種が8月5日に終わりました。
その病院は待合室の真ん中にガラス張りの吹き抜けがあり、その中には樹木が植えてあります。
そのときはまだ真夏の日差しが差し込んでおり、接種後の15分間の経過措置の間、樹木を眺めていました。
なんというか、ゆったりとしたその空間には「ワクチン接種を済ませた」というみんなの安堵感と一体感のようなものが漂っていました。
まだ接種をしていない若い世代に感染が広がっているといます。
これほど感染が広がると、みんながウイルスに怯えるようになり、人と人の関係が疎遠になった社会であるとはいえ、怖さという一点で、ある意味の「まとまり」を覚えるのです。
実際、電車に乗っていても、『感染しないか」という不安な気持ちを抱き、ある種の緊張感を感じることもあります。
でも、同じ気持ちで電車に乗っている人もいるのだろうと思い直し、「呉越同舟」(仲のよくない者同士が、災難のときには助け合う)ならぬ「同舟」を感じるのです。
そういえば、教員の頃、よく生徒にハイタッチしたりして、あいさつを交わしていましたが、いまはそのような接し方はできなくなりました。
人には、物理的に近づきすぎてはいけないということを子どもに強いる学校になっています。
どのように、人との関係を築いていくのか。人を信じなさいと教えるのが学校であるはず。
どのように、意思の疎通を実現するのか。新型コロナウイルスは、人間関係をつくる根っこの部分に入り込んで、難しい課題で私たちを惑わせます。
会いたい人に会えない、触れたい人に触れられない今なので、心はつながりたいと思う今日このごろです。
どのように、意思の疎通を実現するのか。新型コロナウイルスは、人間関係をつくる根っこの部分に入り込んで、難しい課題で私たちを惑わせます。
会いたい人に会えない、触れたい人に触れられない今なので、心はつながりたいと思う今日このごろです。
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