中学生の投稿に「しつけより個性の尊重」と言う意見が載っていたがやはり本当に言わんとする事を理解していないだろう、服装や髪型を規制しても生徒の反感を買うだけだと言うが子供に反感を買うのは大人の仕事だから仕方ない、むしろ反感を買わないように放任する方が大人の責任を放棄している事になる、おしゃれしたい時期は認めるがだから好きにやって良いという理屈にはならない、最初に書かれていた様に「我慢や辛抱」は社会と折り合いをつけると言うより社会生活を維持する為に非常に重要な事なのだ、決して「そんな下らない事」などではない。
命の大切さはこの社会生活の中で他人の考えと自分の考えが違う事は当然あるが相手も同じ様に考えがある事を認めお互いに折り合いをつける事が重要だというルールを身に付ける為に必要だ、自分以外の他人には多くの大人が含まれている事を理解し認めなければならない
服装の個性に関して言うとファッション雑誌やテレビで見る流行の格好は決して個性的とは言わない、其れこそ没個性の代表だと理解しないとならない、
「今の若い者は」と言うのはソクラテスの時代から言われていたと言う、我々大人たちも若い時は「今時の若い奴らは」と言われて居た、しかし何時の時代もそう言ってくれる大人達がいて、そんな話は聞かない若者も多く居て、やっとそれで社会は継続して来た、何も言わなくなったら社会は維持出来ないと同時に若者全員が大人の言う事を唯々諾々と聞いてしまっても恐らく成り立たない
しかし、今の虐め問題や世界的にも低くなった公共の場でのマナーの悪さは恐らく「自分が思う儘に何処でも振舞う、思うようにならないと怒るか放棄する」と言う子供(若者)が多くなり「もう少し厳しくした方が良い」と言う意見が投稿されたのだと思う、
恐らく敗戦で「自由」の概念が180度変わった事に原因があるのではないかと愚考するのだが、実際は決して「自由」の概念が変わったわけでは無い、アメリカの持ち込んだ自由の概念のうち「責任」の部分が抜け落ちて教育現場とマスコミに広がった為だろう、
日本は(一般人で今の官僚には通用しないが)最初から「責任を負えない事は出来ない」と言う事を明文化していないが普通に親から子に伝わって来た、そして村や町の暗黙のルールとして自分と相手の距離は互いに半歩引いて付き合うのが礼儀であり常識だったのだが
力で国を奪って来たアメリカの自由は「奪い、守る」と言う方式で出来上がってきた、いい例が「銃の所持」に関する考え方が有る、日本は拳銃の所持は「銃刀法」で厳しく制限されている、
アメリカはスーパーストアで拳銃が誰でも買える、「其れは余りに危険だ」と言う意見に所持法の反対者は「法で一般市民が拳銃を持てないと言う事は違法者だけが拳銃を持つと言う事だ、法を遵守すれば防ぐ方法も無い、違法者の銃に銃で対抗するのは市民の権利で其れこそ自由」だと言うのが彼らの論法だ、まあ現在この意見を推し進めているのは武器のメーカーだと言う事は有名な話では有るが
学校の運動で子供が怪我をしたから学校に責任が有る、と言うのは学校で運動を教そわるのが子供の権利だと言う事の中に「本人が不注意だったら怪我をするかもしれない」と言う責任も含まれる事位理解しなければなるまい、
全ての子供に眼が届く人数の教師を配置しろと言うなら教育に掛かる租税が数倍になる事も承諾しなければ成らないのは当然だ
社会補償、インフラの整備など国や地方のサービスを充実させる事を要求するならそれに見合った税金が居る事は理解できるだろう、明治以前の日本人はその辺りを「お上の言う事」と言う事で納得して来たのだが軍事政府が引き起こした大戦が終結しアメリカが日本の教育が軍事国家教育だと押し付けて来た考え方は僅か建国200年」程度の熟成不足の文化意識だった、
あれから50年以上が経ってアメリカの意識も変化してきたがアメリカの100年は歴史の40%位になる、しかし日本では0.5%でしかない、アメリカの方式を金科玉条の如く崇めるのはそろそろ止めた方が良い
命の大切さはこの社会生活の中で他人の考えと自分の考えが違う事は当然あるが相手も同じ様に考えがある事を認めお互いに折り合いをつける事が重要だというルールを身に付ける為に必要だ、自分以外の他人には多くの大人が含まれている事を理解し認めなければならない
服装の個性に関して言うとファッション雑誌やテレビで見る流行の格好は決して個性的とは言わない、其れこそ没個性の代表だと理解しないとならない、
「今の若い者は」と言うのはソクラテスの時代から言われていたと言う、我々大人たちも若い時は「今時の若い奴らは」と言われて居た、しかし何時の時代もそう言ってくれる大人達がいて、そんな話は聞かない若者も多く居て、やっとそれで社会は継続して来た、何も言わなくなったら社会は維持出来ないと同時に若者全員が大人の言う事を唯々諾々と聞いてしまっても恐らく成り立たない
しかし、今の虐め問題や世界的にも低くなった公共の場でのマナーの悪さは恐らく「自分が思う儘に何処でも振舞う、思うようにならないと怒るか放棄する」と言う子供(若者)が多くなり「もう少し厳しくした方が良い」と言う意見が投稿されたのだと思う、
恐らく敗戦で「自由」の概念が180度変わった事に原因があるのではないかと愚考するのだが、実際は決して「自由」の概念が変わったわけでは無い、アメリカの持ち込んだ自由の概念のうち「責任」の部分が抜け落ちて教育現場とマスコミに広がった為だろう、
日本は(一般人で今の官僚には通用しないが)最初から「責任を負えない事は出来ない」と言う事を明文化していないが普通に親から子に伝わって来た、そして村や町の暗黙のルールとして自分と相手の距離は互いに半歩引いて付き合うのが礼儀であり常識だったのだが
力で国を奪って来たアメリカの自由は「奪い、守る」と言う方式で出来上がってきた、いい例が「銃の所持」に関する考え方が有る、日本は拳銃の所持は「銃刀法」で厳しく制限されている、
アメリカはスーパーストアで拳銃が誰でも買える、「其れは余りに危険だ」と言う意見に所持法の反対者は「法で一般市民が拳銃を持てないと言う事は違法者だけが拳銃を持つと言う事だ、法を遵守すれば防ぐ方法も無い、違法者の銃に銃で対抗するのは市民の権利で其れこそ自由」だと言うのが彼らの論法だ、まあ現在この意見を推し進めているのは武器のメーカーだと言う事は有名な話では有るが
学校の運動で子供が怪我をしたから学校に責任が有る、と言うのは学校で運動を教そわるのが子供の権利だと言う事の中に「本人が不注意だったら怪我をするかもしれない」と言う責任も含まれる事位理解しなければなるまい、
全ての子供に眼が届く人数の教師を配置しろと言うなら教育に掛かる租税が数倍になる事も承諾しなければ成らないのは当然だ
社会補償、インフラの整備など国や地方のサービスを充実させる事を要求するならそれに見合った税金が居る事は理解できるだろう、明治以前の日本人はその辺りを「お上の言う事」と言う事で納得して来たのだが軍事政府が引き起こした大戦が終結しアメリカが日本の教育が軍事国家教育だと押し付けて来た考え方は僅か建国200年」程度の熟成不足の文化意識だった、
あれから50年以上が経ってアメリカの意識も変化してきたがアメリカの100年は歴史の40%位になる、しかし日本では0.5%でしかない、アメリカの方式を金科玉条の如く崇めるのはそろそろ止めた方が良い