梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

一番昔の記憶、4歳頃

2012-12-02 12:07:30 | 雑記
私はかなり早い時期に母親を亡くした、しかしそれでも覚えている事は幾つもある、
かなり幼い頃の記憶だが断片的に思い出す事がいくつか有る、その事を姉に話したらどうやら4歳くらいの頃の記憶が多いようだ、断片の前後は自分でも良く分からないが姉とは疎遠になって20年以上が経つので話す機会もない、仮にあったとしてもそんな話をするような気分では無いがもう一人いる姉とは年に何度か会う機会があるのだが此方は私と年齢が8歳も離れているので一緒に暮らした記憶も少ない、数えてみると15歳で集団就職をして家を出たので私が小学校に入った時はまだ家に居たはずなんだが全くと言っていいほど記憶にはない、
一番古い記憶は恐らく未だ4歳になっていなかったんじゃないかと思うのだが定かではない、我が家は軍需工場で働いていたオヤジが終戦で没落して生まれ故郷に戻ってきて長男が継いだが街に出てしまい空き地になっていた山を親戚や近所の方の協力を頼んで素人が無理やり立てた掘立小屋に近い家で県道から少し上がった所に東を向いて建っていた、
八畳の畳敷きと3畳と6畳の板敷で土間の勝手と風呂とトイレが縦に繋がった形で北側にあり、その外側に20m程の庭を挟んで柱と一面だけ板壁の小屋が建ててあった、
両方とも屋根は杉皮葺きだが姉妹の方は私が中学になった時に波板トタンに葺き替えた、
この小屋に真冬のよく晴れた日に筵を何枚か敷いて真ん中で焚き火をしながらお袋が和裁をしていた事が有った、なぜ家に居られなかったか覚えていないのだが兎に角住いにはいれない事情が有ってこの筵敷で食事もした筈でその時は確かに上の2人の姉達と本の少しの時期東京から戻っていた次兄が居た、この次兄が子供達にと持ってきたのが缶詰の加糖練乳だった、甘いおやつといえば黒砂糖の塊位、ミルクは隣の家で飼っている乳牛から買っていた生牛乳しか知らなかった自分にはお袋が湯で薄めてくれた「加糖練乳」の味は衝撃的な美味しさで今でもあの味は格別な飲み物であり、かき氷も大抵「氷ミルク」である、
この記憶に関しては上の姉は「覚えていない」そうで5歳上の姉は「たしか、未だあんたはオムツが取れない頃の事」だと言う、因みに当時のオムツは布で寝るとき以外は大きく股ぐらの空いた袴の様な物を穿いている子供が多く要するに垂れ流しである、(尾籠な話になった)
多分此れが一番古い記憶だと思うが次に古いだろうと言う記憶はこれよりかなりはっきりしている、お袋に和裁を習いに来ていた娘たちが村の青年団で村芝居をすると言う事になってお袋が私を負って真っ暗になった山道を歩いて見に行った事がある、その時のおふくろの背中の匂いが今でも残っている様な気がする、東京に出て暫くしてこの道を車で辿った事があるが(よくこの道を私をおぶって此処まで来たのもだ)と言うのが印象だった、
道は岩肌を穿っただけで尖った岩がむき出しで雨水が流れた跡が山側から谷側に幾筋も付いている僅か3m程度の急坂である、家から村芝居のあった村社まで恐らく4km位はあるだろう、記憶では灯は持っていなかった様な気がするが殆ど真っ暗だったんじゃないだろうか、松葉城址の入口を過ぎると一旦道は平坦になりうねるように右に曲がると今度は右側が山となり左側が荒い流れの川になる、道が曲がる角に小さな木の橋が有ってその先が村社の境内である、此処の神楽舞台が村芝居の舞台になる、今見てみると本当に狭い庭で筵を隙間なく敷き詰めてそこに座って見学した、出し物は「ジャガタラお春」だった、
当然内容は覚えていないがその頃流行っていた「赤い花ら曼珠沙華、オランダ屋敷に雨が降る、泣いて・・・」と言う歌に合わせて青年団が芝居をする、
真っ暗な山の中に浮かび上がった神楽舞台の印象は未だに覚えている