自分には2人姉が居る、親父とお袋は再婚同士なのでお袋の違う兄が三人居るのだが歳が大変離れているので一度も生活を共に下事はない、
上の姉も8歳上なので中学を卒業して15歳で鷲津に働きに出た時自分の年齢は7歳だったと言う事になる、小学校には入学していた筈だが上の姉と生まれた家で暮らしていたと言う記憶が余り無い、
正月に帰省した時の思い出が切れ切れに残っている程度で一緒に生活をしていたと言う思い出が殆ど無いのだ、多分最初の帰省の時だと思う、その頃浜村美智子の「バナナボート」と言う曲が流行っていて曲の中の台詞が「今月足りない、借りねばならぬ」と聴こえると楽しそうに話していた記憶がある、
上の姉は子供の頃から膵臓に持病を持っていて結局鷲津の紡績を辞めてしまったが働いている期間中に当時売れっ子だった東宝の三人娘「団令子、重山規子、中島そのみ」が勤めていた会社で撮影をしてその時にエキストラとして写ったと写真を持って帰って来たのが良い思い出だったらしい、
下の姉は自分とは5歳違いでやはり中学を卒業すると紡績に女工として働きに出て行った、
当時は最低賃金法などが無い頃で今の貨幣価値とは違うとは言え初任給は確か千円に満たなかったと思う、その中から家に送金をしていたので殆ど小遣いは無かっただろうな、
この姉は子供の頃は健康だったのだが紡績に勤めて2年足らずで肺結核を患って退職してしまう、暫くは天竜川の磐田側にあった結核療養所に入院そして居てその後家に戻って来たが貧しい我が家では養える訳も無く数ヶ月して母親の産まれ故郷である伊勢崎に行く事になった、
私が未だ小学校の頃で計算してみると恐らく11歳だったと思うがおやじは出稼ぎで家に居なかったので隣家に泊まって数日過ごす事になったが初めて両親が居ない生活を経験して大変心細かった事を覚えている、
その時お袋は戦後初めて生まれた家に帰ったのだが結局その後2年を待たず他界してしまった、その姉も結局1年を持たずに結核を再発し田舎に帰って来た、結局その後はパチンコ店、喫茶店、バーとお定まりのコースを取ってしまう、しかしそれも3年程である事件のお陰で終え事になる、
私が中学校1年の2月に前に乳癌を摘出していたおふくろが肺癌を再発して入院、1週間余りで死んでしまう、暫く姉は一緒に居たのだが村に仕事も無く浜松に働きに出てしまう、しかし私が中学を卒業した直後に親父と自分の乗った乗合バスが川に転落し父親が脳挫傷を負うと言う事故にあう、
その時親父が入院していた病院で世話をしていた姉が隣のベッドに入院していた男性と仲良くなって退院と同時に結婚をしてしまったのだ、
未だ20歳だった筈だが21歳と25歳に男の子を出産して新興住宅地で餃子の店を始めそこそこ軌道に乗った頃、義兄が脳溢血で倒れ10日足らずで他界してしまう、
17歳でお袋、21歳で親父、そして26歳で亭主を無くし、心労から体を壊すという最悪と言って良い人生を経過し姉の性格は大きく歪んでしまう、
その頃結婚してそこそこの生活をしている上の姉や未だ20代になったばかりの自分の所に「私は家族で一番不幸な人間だからまともに生きている兄弟が面倒を見るのが当たり前だ」と兄弟だけでなく親戚や友人にまで言って廻るようになってしまった、
本当に不幸な生い立ちになったとは思うが其れは誰が悪い訳でなく言ってしまえば廻り合せとしか良い様が無い、
本人は「自分のことでは無いからそんな事を言える」と言うのだが自分も結婚をして家庭を持ち、上の姉もそれなりの家庭がある、出来る範囲はどうしても限られてしまう、夜中に突然電話が掛かって来て「今からそっちに行くから泊めてくれ」と言う様な事も有ったが賃貸に義母も含めて5人が3部屋に住んでいる所に来られてもどうする事も出来なかった、
見方によっては随分酷い弟だと思うがそれだけでは無い問題も有って今は本当に疎遠になってしまった、
今では甥達も既に40代と50代になっている筈で本来なら親子で平穏に暮らしている時期の筈だが伝え聞く所によると子供達も姉を避ける様な生活になっているらしい、
互いに残り少なくなった人生だ、家族としてもう一度睦み会えれば良いのだが、経済的にも自分の事で精一杯だし今までの事を思い出すとどうしてもダイヤルを回す勇気が出ない、
家庭も家族も縁の薄い人生で終えるかも知れないが自分は連れ添った女房と子供と孫が居るだけでも姉に比べれば幸福だと言える事は確かだな、
上の姉も8歳上なので中学を卒業して15歳で鷲津に働きに出た時自分の年齢は7歳だったと言う事になる、小学校には入学していた筈だが上の姉と生まれた家で暮らしていたと言う記憶が余り無い、
正月に帰省した時の思い出が切れ切れに残っている程度で一緒に生活をしていたと言う思い出が殆ど無いのだ、多分最初の帰省の時だと思う、その頃浜村美智子の「バナナボート」と言う曲が流行っていて曲の中の台詞が「今月足りない、借りねばならぬ」と聴こえると楽しそうに話していた記憶がある、
上の姉は子供の頃から膵臓に持病を持っていて結局鷲津の紡績を辞めてしまったが働いている期間中に当時売れっ子だった東宝の三人娘「団令子、重山規子、中島そのみ」が勤めていた会社で撮影をしてその時にエキストラとして写ったと写真を持って帰って来たのが良い思い出だったらしい、
下の姉は自分とは5歳違いでやはり中学を卒業すると紡績に女工として働きに出て行った、
当時は最低賃金法などが無い頃で今の貨幣価値とは違うとは言え初任給は確か千円に満たなかったと思う、その中から家に送金をしていたので殆ど小遣いは無かっただろうな、
この姉は子供の頃は健康だったのだが紡績に勤めて2年足らずで肺結核を患って退職してしまう、暫くは天竜川の磐田側にあった結核療養所に入院そして居てその後家に戻って来たが貧しい我が家では養える訳も無く数ヶ月して母親の産まれ故郷である伊勢崎に行く事になった、
私が未だ小学校の頃で計算してみると恐らく11歳だったと思うがおやじは出稼ぎで家に居なかったので隣家に泊まって数日過ごす事になったが初めて両親が居ない生活を経験して大変心細かった事を覚えている、
その時お袋は戦後初めて生まれた家に帰ったのだが結局その後2年を待たず他界してしまった、その姉も結局1年を持たずに結核を再発し田舎に帰って来た、結局その後はパチンコ店、喫茶店、バーとお定まりのコースを取ってしまう、しかしそれも3年程である事件のお陰で終え事になる、
私が中学校1年の2月に前に乳癌を摘出していたおふくろが肺癌を再発して入院、1週間余りで死んでしまう、暫く姉は一緒に居たのだが村に仕事も無く浜松に働きに出てしまう、しかし私が中学を卒業した直後に親父と自分の乗った乗合バスが川に転落し父親が脳挫傷を負うと言う事故にあう、
その時親父が入院していた病院で世話をしていた姉が隣のベッドに入院していた男性と仲良くなって退院と同時に結婚をしてしまったのだ、
未だ20歳だった筈だが21歳と25歳に男の子を出産して新興住宅地で餃子の店を始めそこそこ軌道に乗った頃、義兄が脳溢血で倒れ10日足らずで他界してしまう、
17歳でお袋、21歳で親父、そして26歳で亭主を無くし、心労から体を壊すという最悪と言って良い人生を経過し姉の性格は大きく歪んでしまう、
その頃結婚してそこそこの生活をしている上の姉や未だ20代になったばかりの自分の所に「私は家族で一番不幸な人間だからまともに生きている兄弟が面倒を見るのが当たり前だ」と兄弟だけでなく親戚や友人にまで言って廻るようになってしまった、
本当に不幸な生い立ちになったとは思うが其れは誰が悪い訳でなく言ってしまえば廻り合せとしか良い様が無い、
本人は「自分のことでは無いからそんな事を言える」と言うのだが自分も結婚をして家庭を持ち、上の姉もそれなりの家庭がある、出来る範囲はどうしても限られてしまう、夜中に突然電話が掛かって来て「今からそっちに行くから泊めてくれ」と言う様な事も有ったが賃貸に義母も含めて5人が3部屋に住んでいる所に来られてもどうする事も出来なかった、
見方によっては随分酷い弟だと思うがそれだけでは無い問題も有って今は本当に疎遠になってしまった、
今では甥達も既に40代と50代になっている筈で本来なら親子で平穏に暮らしている時期の筈だが伝え聞く所によると子供達も姉を避ける様な生活になっているらしい、
互いに残り少なくなった人生だ、家族としてもう一度睦み会えれば良いのだが、経済的にも自分の事で精一杯だし今までの事を思い出すとどうしてもダイヤルを回す勇気が出ない、
家庭も家族も縁の薄い人生で終えるかも知れないが自分は連れ添った女房と子供と孫が居るだけでも姉に比べれば幸福だと言える事は確かだな、