梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

「岳」

2011-05-26 10:05:08 | 雑記
「岳」と言う映画が掛かっている、私は未だ漫画を見るのでこの漫画も知っている、最近はテレビも映画も漫画からの物が実に多い、本職の映画脚本家として少し情けなくないか?
それはそれとしてこの内容は山岳救助隊の話しである、大変な仕事だと思うしすごい方たちだと思う、
しかしこの登山と言う遊び(と言えば恐らく大反発を貰うとは思うが生活上欠くべからざるものでなく好きだからと言う事は基本的には遊びだと思う)は余り好きではない、
好き嫌い、趣味と言う事は個人の問題で此れは何の感想も口を挟む気も無い、しかし特に冬山登山と言うのはかなりの危険が伴う、そう言う意味ではこの「岳」と言う話は良かったかも知れないが一方で救助される側も含めて「山のロマン」と言った方向に行くとしたら「それは違う」と思う、
幾ら注意したとしても遭難といつも隣り合わせの遊びである、つまり生命がけの遊びである、捜索に掛かる費用は実費であると言う事も必ず表現しておいてい欲しい、
どんな山男も殆ど全て家族が有る筈だ、帰らぬ人となった時その家族の悲しみは想像に難くない、仮に助かっても体に傷は残る、そして多額の費用が残る、
「好きなんだから止められない」と言うなら結婚はするべきではないだろうと思う、そこを理解して一緒になる相手が居るならそれはそれで納得ずくだから良いだろう、しかし子供は作るべきではない、大人になって「親は趣味に殉じたから」と言う子もあるかもしれない、しかし物心がついた位の子供にとって親が居なくなるという事はやはり大きな悲しみになるだろう、
「最大の親不孝は親より先に死ぬ事だ」と言う、自分が育てた子供のする事だと諦めるしかないにせよその与えた悲しみは多大だと思う、趣味を追求するのも良いし安全志向で何もしない人ばかりになったら確かに世の中面白くもなんとも無い世界になるだろうが1つ1つ取り出してみるとやはり許しがたいと思う、
私は特に親の身勝手で家庭的にに苦しんだという様な若年期を送った訳ではないがどうしても親が家庭を省みないで自分の生き方を貫くのには承諾出来ない、人が悲しむのを見るのはとても嫌いなのだ、
今度の被災の様に天災や事故でも見ていて辛くなる、まして親が「自分の行き方を求めて」家族を棄てるとか蔑ろにするのは親の資格は無いのではないかと思う、そう言う人間は子供を成してはいけないだろう、
漂白の詩人と言われる山頭火と言う詩人が居た、あの不定形詩と言うのも理解しがたいがそれ以上に壮年になってから
「詩の為に」突然家族を棄てて旅に出てしまうと言うのはそれが芸術の為と言う理屈をつけても私には納得の出来る事ではない、家族でもなんでもないから大きなお世話だが聞く度に腹が立つ渡しはおかしいのか?

公務員と言う職業の権利と責任

2011-05-25 13:57:51 | 雑記
布川事件の再審が無罪で確定した、この数年で何度再審無罪が出た事だろうか、大阪高検の事件もそうだったが警察・検察共に「有罪にする」と決めたら(有罪だと思ったらではない)何としても有罪にすると言うのが露骨に見えるだろう、
出て来た証拠が有罪に反するから出さない、録音すると都合の悪い所は編集する、此れは大阪高検でも特捜課長がやった事と粗同じだ、証拠を棄てなかった事は不幸中の幸いと言う事になる。
多くの再審が無罪になってその有罪になった理由が証拠隠滅、証拠捏造と言う事で布川事件では40年を獄中で死刑執行をおびえて暮らした訳だ。
人間は間違いを起こすと言う報道もあったがその内容は「間違い」ではなく「故意」である、釈迦に説法だが間違いなら過失だが故意なら犯罪だ、
しかしその当時の警察、取調べを担当した警官、証拠を隠した警察官、恐らくそれを全て知っていて検察に強盗殺人で書類を送った責任者、そして物的証拠も無く状況証拠と自白だけで、裁判では否定している自白で有罪判決を出した裁判官、彼らは全て、とまでは言わないが明らかに「犯罪者」である、
故意に犯人として指摘告訴すれば「誣告罪」だろう、警察機構の中では一般人に比べて絶対権利者であり外部との連絡も制限されている場所ではその力は余りに大きな差がある、
日本の官僚機構は全体的に強力な権利があるが責任は全く無い、世界広し言えどもこんな機構は先ず無いだろう、
たとえは厚生省は薬の認可権を持っている、厚生省の認可が無ければどんな薬も薬として販売が出来ない、逆に言えば売っている薬は厚生省が認可した物しか薬効をうたって売っては居ないと言う事だ、
しかしその薬で事故が起きても厚生省には何の責任も無いと言う、「厚生省で認可した薬だから売っていいがそれで事故が起きても知らない」と言うのはおかしいだろう、
「運転はお前達にはさせないが車が川に落ちても運転手の責任では無い」と言う様な事だ、無論大きな権利があるのは高級官僚と言う部類の一握りの人間だ、
多くの仕事をこなしている公務員の大半は責任は負わされても何の権利も無い、この振り分けをしているのは国家公務員試験Ⅰ級と言う奴らしい、しかし現場を通らずにつまり責任を負う事を一度も経験しないで強力な権利を持つと言う事は絶対にまともな人間にはならない、
数年前TV放送でこの公務員試験に合格した若者にインタビューをしているニュースを見た事があった、かの有名な大学をストレートで降りたというその若者はインタビュアーに「此れからの抱負」と「マイクを向けられたら「一般庶民の気持ちが解る公務員(官僚)になります」とにこやかに答えたが、未だ恐ら23位だろう、この時点で既に(自分は一般庶民ではない)と言う意識を持っているのだと思って暗澹たる気分になったものである、上級試験は受験資格を制限せずたとえ現役学生が合格して来ても最低10年は現場を経験させる必要がある。
無論その時点では資格は無効状態でなければならない、廻りの中途半端な役付き公務員が特別扱いする事は目に見えている、
警察も再審無罪になった場合に今回の様な故意が発覚したら遡ってその罪は償わなければならない、それが責任と言うものだ

模型飛行機キットの思い出

2011-05-24 11:30:45 | 雑記

お勝手の窓枠にかなり昔気まぐれで買って来た木彫りの動物がある、色と模様からすると猫かも知れないがそれにしてはスマートだ、黒と薄い茶色で水玉の模様が付いている、
持ってみると妙に軽い、昔この軽い木材を浸かった事がある、確か「バルサ材」と言う物だったと思う、
小学校の頃男子の遊びに模型飛行機と言う物が有った、この材料が「バルサ材」だった。細長い白い袋に入っていて羽根のカーブを整えるのに断面の形で何枚か入っていた、骨になるのは竹籤で先端は炙り曲げをしてその間をアルミニュームのチューブで繋ぐこの管を「ニューム管」と読んでいた、
グライダータイプとプロペラの付いた物と有って動力はゴムだった、ゴムひもを買う事もあるが輪ゴムを繋いだものを束ねて使う事が多い、グライダータイプも上手に作るとかなりの滞空時間を稼ぐ、重心近くを持って30度位の角度で投げ上げると緩く円を描いて上昇しゆるゆると輪を描いてゆっくりと降りてくる、
ゴム動力の方はゴムをいっぱいに巻いてからやはり重心の少し後ろを持って投げるのだが此方はプロペラの運動速度が有るので余り強く投げるとプロペラの軸が曲がってしまう事が有るので押し出す様な感じになる、
此方も上手く出来ていると円弧を描きながらどんどん上昇して行く、どちらも主翼の微妙なバランスで旋回するので完全にシントメリーにしてしまうとがらどんどん真っ直ぐ言ってしまうので穏やかな春先には風に乗って真っ直ぐ飛んでいってしまい落ちた所が分からなくなった事も結構有った、
ゴム動力のタイプには簡単な車輪が有ったが平らの所に降りてくる事など先ず無いので恐らく重心を取るのに付いていたのだろう翼は半紙か障子紙だったので未だ朝露の残る野原に落ちたりするとたちまち破れてしまった、
そう言えば厚紙で作った小さなグライダーも売っていたがどう言うわけか此方は夜店の屋台でしか売っていなかった、
此方は胴体の厚紙に切込みが有ってそこに主翼と尾翼を差込むだけで出来上がる、先端に鉛の錘が付いていてその鉤になった所に付属のゴムパチンコの様な物で打ち出すのだが此れは気持ちよくすっ飛んで行った、一生懸命作ったグライダーより随分飛んだが誰が作っても同じなのでやはり自作の物を作って遊んだ、
何年か前に千葉の「ドイツ村」に孫を連れて行ったらこの打出し型の飛行機が有って孫に買ってあげたら随分喜んでいたが都内ではそんな広場は無いので結局何処かに行ってしまった様だ、
考えてみるとあの頃は何でも作った、それが当たり前だったので出来上がりで売っている物は少なかった、竹馬も最初は親が、高学年になると自分で作った物だった、ノスタルジーだけではなくその方が楽しかった気がす

金子みすずの詩

2011-05-23 09:32:55 | 雑記
最近「金子みすず」と言う詩人の話題が多くなった、旅行番組にもかなりの頻度で登場する、
例のACが流した「こだまでしょうか」と言う詩である、確かに素敵な言葉で現代でも通じる詩で最初に聞いた時はこんなに前の詩人だとは思わなかった、
あの放送で彼女は一躍有名になった様だがその事は確かに功績だとは思う、しかしあの放送の仕方は逆にせっかくの素晴らしい詩を陳腐にしてしまった、一番流れていた頃は全チャンネルに15分とおかずに流されていた、
あの映像も暗くリアルな物だったのでそれも影響したのかも知れないがいわば食傷になったと言事でついには押し付けがましいという印象は拭えなくなった、
此れは私だけでは無かった様で1ヶ月を過ぎ放送も通常に復した来たら放送の中でも又週刊誌のコラムなぞでも揶揄する様な分も見られる様になったのでやはり多くの人が同じ様な感じは受けていたのではないだろうか。
数十年前に武者小路実篤の賛だと思うが野菜の画に「仲良き事は美しき哉」と言う文章が流行した事が有る、
此れも単独で言うと素敵な画と文章だったがカレンダーからブックカバー位はいいとしても商店街で配られる団扇にまで出てくるとどんどんその良さは陳腐になってしまう、
良い香りの柑橘系香水が小さな子供から「トイレの臭いだ」と言われるのにどこか似ている、
確かに公共広告と言うメディアとしてはある程度のそう言う方向性で流す必要があったのかも知れないがもう少し考えて放送をしたほうが良いのではと思う、結局「又か」と言う印象しか残らないのだから。
予断だが「武者小路実篤」を”むしゃこうじさねあつ”と放送していた事が有った、”むしゃのこうじさねあつ”と「の」が入っていたが確かに文体から言うと自分が間違えていたのかと思ったが変換では「の」が入らないと変換しない、どちらでも良いのかも知れないがもし成否があるなら統一した方が良いと思う。

生活習慣病と痛風と食事

2011-05-21 14:37:19 | 雑記
朝から音楽と何やら放送が聞こえてくる、どうやら近くの小学校で運動会の様だ、風向きのせいか学校の有る方向と違う様に聞こえていたが昼を過ぎたらやはりその小学校の様だった。
昨日の4時ころ掛りつけの病院に行って血液検査の結果を聞いて来た、去年の11月に検査をして居たのだがその時に少しγーGTPやら血中コレステロールやら血中糖分やら全て基準範囲を少しづつ(中には少しでもない)オーバーしていると言われ1ヶ月毎日1時間の散歩を続け、食事もある程度制限してから12月に再検査をしてもらったのだが結局先々週に少し痛風が怪しくなってやっと取りに行った、
結果は1ヶ月でかなり改善し全て規定範囲を超えているが許容範囲だと言われていた、
その後4ヶ月も同じ様な生活だったので今度の検査は楽しみにしていたらどうした訳か血中糖分だけ少し増えたと言う、
11月が6.7で12月は6.3、5月はかなり下がると思ったら逆に7.0になった、その他はかなり良い数字だと言うので「これはやはりアルコールだろう」と言う事になった、
確かにこの所大分量が増えている気はしていた、2㍑の25度焼酎が1週間持たない事もある、
特別飲まなければ寝れないと言う事もないので昨夜から少し減らす事にした、ビールを夫婦で350ml飲むのは今まで通りm、そのグラスに8分目入れた焼酎をゆっくり飲む、意外とそれで不満では無かったが足の腫れが未だ酷いせいかもしれない、
しかし此れから何とかその線で済ますようにしようとグラスの量を調理用の計量カップで測ったら150ml程度だ、200mlでも約10日持つ計算だからやはりすこし飲みすぎだった様だな、
昨日から炎症止めのリキソニンを毎食後服用し、湿布を変えたら昼頃には殆ど腫れは引いて歩くのも左程苦労はなくなった、
これで来週は安心して仕事が待てる。本職も少し新しいセクションから依頼が入り始めたのでこちらもすこそホッとしている、去年末に特許を出していたシステムも何社からかオファーが来たしあと一息かな、
しかし60を幾つか越えてこの状況は本当に女房には申し訳ないと思っている、無事乗り越して又小さな旅行でもしよう