梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

アメリカが破壊したのは

2012-08-04 14:57:52 | 雑記
キムタクが人気が出始めた頃学校で悪に虐められたという話が載っていた、
彼のコメントが出たのがやはり虐めの相談で「僕は学校ではいじられキャラですが本当はいじられるのがとても嫌なんです」と言うものに書かれたもので「文字通りいじめといじるはよく似てる」と言うものだったが私もこの事はずっと前から気になっていた、
前にも書いたかもしれないのだがテレビの功罪と言えば今バラエティと言っている様な昔の番組は重罪だと言えると考えている、
ずっと前に「theガマン」と言う番組が有った、タレントを熱湯ぶろに落としていつまで我慢できるかとか二等兵物語で有名になった「蝉」や「自転車」をやらせると言う番組で更にいろんな我慢ネタを作ってゴールデンタイムに流していた、タレントが苦しむ姿を見て周りで笑ってはやし立てる、それが結構人気を出して家庭で笑ってみていたのではないだろうか、
この番組自体好きではなかったが子供達は虐められるタレントの反応を正しくバカ笑いをして喜んで見ていたのだが私は(学校で遊びにしなければいいが)と考えていた、
こう言う番組が流行ると大抵子供達は昨日の番組の話題になり真似をし始める、最初に言い出す子供はおそらく自分が虐められる役は引き受けない、ここでガマン役は当然いじめられっ子と言うタイプに行く、そして「遊びだろ、」と言う名の元で苦しむ友達を見てバカ笑いをするのだろう、
これを教師が「遊び」として見過ごす事は容易に考えられる、しかし我慢する役割の子供にはこの遊びが廃れるまで学校や放課後は地獄になる、そしてそれが廃れる頃には次の遊びがはやってくる、
キムタクは「私たちの頃には先生の平手や拳骨は当たり前だったが今では無くなったと聞くがそれで得れれた事もあるだろうがなくした事も随分あるような気がする」と言っていたが私の年齢なら十分わかるが彼の年齢でもそうだったとしたら随分最近なんだなと思う、
当時は親が教師に文句をつける事は殆どなかったしまた文句をつけられるような教師もいなかった、
自分の時代で言えば学校で怒られた事は親には内緒にしていた、知られたらなぜ怒られたと聞く前に怒られた、知られたら先ず「なんで先生に怒られるようなしたんだ!」とまた怒られるのが関の山、先生から親に連絡されるのは相当酷いことをしないとしないから黙っていれば先生の鉄拳で住むことをわざわざ親に言って「今日は夕飯は抜きだ!」と言われるような愚は犯さない、
教師も訳もなく感情で怒ることは殆ど無かったと思う、まあ中にはちょっと問題な先生もいるにはいたが目に余るところに来る前に他のクラスの先生が助け舟を出して調整をしていた。
最近のモンスターペアレントと言われる記事を見ていると(どうしてこんな考え方をするのだろうか?)という記事がある、年齢もどうやら祖父祖母にも散見するらしい、
何時からこんな情けない国になったんだろうか?官僚を筆頭に政治屋、拝金主義者の資本家が日本の資質を下げていると思っていたらどうやら末端の庶民と言われる者の中にも蔓延って来たのか、
日本の敗戦は経済ではなく国民文化を破壊してしまったのかも知れない、まだわずか65年間だ、文化の歴史は二千年ある、
懐古趣味ではなく明治天皇の「良きは取り悪しきは去りて外国に劣らぬ国に成すも良しかな」と言う言葉を噛み締めて明日の日本に期待しよう

トオル:小さな碇の刺青

2012-08-03 15:41:13 | 雑記
思い出してみると自分の年齢がどうも変だ、それは姉が中学の卒業間際の事だったはずで自分は9歳か10歳の頃だ。姉の産まれはは昭和18年の1月1日になっているが17年の12月23日産まれである、疎開の時期はまだ2~3歳だから恐らく当人同士の記憶は無いだろう、
トオルが疎開の時は未だ小学生低学年位だったのではないか?おそらく誰かこの村の関係者だったのだろう、
いずれにしても敗戦から10年以上過ぎてから「トオル」は1人でこの村に戻って来た、
東京と横浜を根城にした不良と言う肩書きは村の子供達には光輝くヒーローである、恐らく同時に対象年齢の女の子にも憧れの対象だったのではないか、
和尚は父の飲み友達で碁敵と言う仲でしょっちゅうどちらかの所で飲みながら碁を打っていた、その関係でトオルも良く顔を出していたが目的は其れだけではなかったと言うわけだったがトオルと姉がどんな仲だったか分らないし自分は全く気にもしていなかった、
この頃は中学を出ると多くは働きに出る、姉も3月卒業したら鷲津の紡績に就職が事が決まった、4月から姉が居なくなると言う事をトオルが誰から聞いたのか分らないがある夜トオルが仕事から帰って晩酌をやっている父の所に来た、
半畳の土間に座ると父に向って「Kちゃんを嫁にくれ」と言い出した、その時母と父がどんな顔をしていたかは覚えていないし姉が其処に居たのかも覚えていない、土間に土下座のように座って頭を何度も下げていたトオルの姿だけを覚えている、
父は「馬鹿を言うな、Kは中学生だぞ、お前だって半人前にもなっていないだろう」と言った趣旨の答えをしたが「今は未だだが直ぐに一人前になって嫁にする、其れまで待つと約束をしてくれ」と言う様な事を言ったと思う、父は煙管のラオを掃除する為に火箸を焼ていた、「第一お前は東京の不良だった事を自慢しているが刺青も有るそうだな、そんな半端者に大事な娘を嫁に出来るわけは無いだろう!」とトオルの二の腕を指して怒鳴りつけたのだがトオルは自分の腕を見「こんな物は!」と突然腕を捲り上げると父が囲炉裏に焼いていたやけ火箸を刺青に押し付けた、
母が悲鳴をあげ父が「馬鹿野郎!なんて事をしやがる」と火箸を叩き落し、母が「は必ず消しますから、お願いします!」と言うトオルの腕に柄杓で水を掛け手拭で包帯にする、姉はどうしていたのか、自分はどうしていたのかは記憶には無い、焼いた刺青は本当に小さな青い碇だった。
その後、姉はトオルとあまり合わないまま4月の卒業を迎え、そのまま鷲津に就職した、そして彼岸の薮入りに帰って来たがその間にトオルは事故で死んでしまったのである。
トオルはそのまま伐採の仕事に就いた、本当に真面目に働き樵連中からも評判が良く相変わらず近所の子供達にも人気が有った。
戦後の復興期で木材の需要は非常に高くこの村でも伐採した杉を頻々と運び出していた、
その頃山奥から木材をトラックの入る場所まで下ろすのに「鉄索」と言う方法を使う、伐採地から山の尾根伝いにワイヤーを渡し、其処に滑車を置いて滑車同士を更に別のワイヤーでループ上に繋ぐ、要するにスキーのゴンドラの様な装置だが基本的には中間柱は無く動力も無い、
乗せた材木の重量が動力なのでワイヤーを通したプーリーを人力で速度を調整しているがケーブルが中間で撓む部分で速度を落とし損ねると滑車がワイヤーから外れてしまう事が有る、
修正する為には兎に角外れて止まっている滑車まで他の滑車にぶら下がって降りて行き、材木を止めているワイヤーを切り離して空滑車にするしか方法は無い、通常は専門のとび職がやるのだがその時は捉まらなかったらしい、皆が止める中トオルは材木に向かい、荷を切り離す時に一緒に谷に落ちた、即死だった。
姉はこの事を母からの手紙で知ったらしい、薮入りに戻ってもその話は一度も出なかった、
大人になって聞いたら「お寺に行って線香を上げて来た」そうだがそのまま姉も村も何事も無かった様に時は過ぎて行った、姉が体を壊して村に戻ってきたのはそれから2年後だった。


トオル:小さな碇の刺青

2012-08-03 15:41:13 | 雑記
思い出してみると自分の年齢がどうも変だ、それは姉が中学の卒業間際の事だったはずで自分は9歳か10歳の頃だ。姉の産まれはは昭和18年の1月1日になっているが17年の12月23日産まれである、疎開の時期はまだ2~3歳だから恐らく当人同士の記憶は無いだろう、
トオルが疎開の時は未だ小学生低学年位だったのではないか?おそらく誰かこの村の関係者だったのだろう、
いずれにしても敗戦から10年以上過ぎてから「トオル」は1人でこの村に戻って来た、
東京と横浜を根城にした不良と言う肩書きは村の子供達には光輝くヒーローである、恐らく同時に対象年齢の女の子にも憧れの対象だったのではないか、
和尚は父の飲み友達で碁敵と言う仲でしょっちゅうどちらかの所で飲みながら碁を打っていた、その関係でトオルも良く顔を出していたが目的は其れだけではなかったと言うわけだったがトオルと姉がどんな仲だったか分らないし自分は全く気にもしていなかった、
この頃は中学を出ると多くは働きに出る、姉も3月卒業したら鷲津の紡績に就職が事が決まった、4月から姉が居なくなると言う事をトオルが誰から聞いたのか分らないがある夜トオルが仕事から帰って晩酌をやっている父の所に来た、
半畳の土間に座ると父に向って「Kちゃんを嫁にくれ」と言い出した、その時母と父がどんな顔をしていたかは覚えていないし姉が其処に居たのかも覚えていない、土間に土下座のように座って頭を何度も下げていたトオルの姿だけを覚えている、
父は「馬鹿を言うな、Kは中学生だぞ、お前だって半人前にもなっていないだろう」と言った趣旨の答えをしたが「今は未だだが直ぐに一人前になって嫁にする、其れまで待つと約束をしてくれ」と言う様な事を言ったと思う、父は煙管のラオを掃除する為に火箸を焼ていた、「第一お前は東京の不良だった事を自慢しているが刺青も有るそうだな、そんな半端者に大事な娘を嫁に出来るわけは無いだろう!」とトオルの二の腕を指して怒鳴りつけたのだがトオルは自分の腕を見「こんな物は!」と突然腕を捲り上げると父が囲炉裏に焼いていたやけ火箸を刺青に押し付けた、
母が悲鳴をあげ父が「馬鹿野郎!なんて事をしやがる」と火箸を叩き落し、母が「は必ず消しますから、お願いします!」と言うトオルの腕に柄杓で水を掛け手拭で包帯にする、姉はどうしていたのか、自分はどうしていたのかは記憶には無い、焼いた刺青は本当に小さな青い碇だった。
その後、姉はトオルとあまり合わないまま4月の卒業を迎え、そのまま鷲津に就職した、そして彼岸の薮入りに帰って来たがその間にトオルは事故で死んでしまったのである。
トオルはそのまま伐採の仕事に就いた、本当に真面目に働き樵連中からも評判が良く相変わらず近所の子供達にも人気が有った。
戦後の復興期で木材の需要は非常に高くこの村でも伐採した杉を頻々と運び出していた、
その頃山奥から木材をトラックの入る場所まで下ろすのに「鉄索」と言う方法を使う、伐採地から山の尾根伝いにワイヤーを渡し、其処に滑車を置いて滑車同士を更に別のワイヤーでループ上に繋ぐ、要するにスキーのゴンドラの様な装置だが基本的には中間柱は無く動力も無い、
乗せた材木の重量が動力なのでワイヤーを通したプーリーを人力で速度を調整しているがケーブルが中間で撓む部分で速度を落とし損ねると滑車がワイヤーから外れてしまう事が有る、
修正する為には兎に角外れて止まっている滑車まで他の滑車にぶら下がって降りて行き、材木を止めているワイヤーを切り離して空滑車にするしか方法は無い、通常は専門のとび職がやるのだがその時は捉まらなかったらしい、皆が止める中トオルは材木に向かい、荷を切り離す時に一緒に谷に落ちた、即死だった。
姉はこの事を母からの手紙で知ったらしい、薮入りに戻ってもその話は一度も出なかった、
大人になって聞いたら「お寺に行って線香を上げて来た」そうだがそのまま姉も村も何事も無かった様に時は過ぎて行った、姉が体を壊して村に戻ってきたのはそれから2年後だった。


トオルの事

2012-08-02 18:34:49 | 雑記
集団就職で紡績工場に行った姉が結核を患って戻って来た、当時の紡績はあまり環境は調っていなかったのだろう、細かな繊維を吸い込んで肺に溜まったらしいが病名は「結核」だった、
天竜川の東側に結核療養所が有って其処に半年くらい入っていたのではないか、
自分は未だ小学校低学年だったと思う、療養所から自宅療養になって秋口に家に戻って来た、
しかし、我が家は極貧である、結局市内のパチンコ店に働きに出かける事になった、今のパチンコとは随分違う、椅子などは無く立って打つ、左手で玉を流し込んで右手でハンドルをはじくスタイルだ、玉は台の上をレールで流れて来るが詰まった玉や入賞しても出ないことなどの対応に「台裏」と言う従業員が居る、トラブルが少ないので大抵娘さんが入っていた、まあ「娘さん」とは言い難い人もかなり居たが、
姉に会いに日曜に出かけて初めてラーメンと言う物を食べさせて貰った、残念ながら味は良く覚えていない、数ヶ月で客に誘われて喫茶店に勤めを代えた、実を言うと私はここで初めてお菓子ではない「ガム」を食べた、
未だその頃姉は田舎の家からバスで市内に通っていたのだが何年頃だったのか覚えていないが村に1人若い男が住み着くことになった、
「トオル」といった筈タだが歳は多分17歳か18歳位だと思う、二十歳には届いていなかったのではないか、
終戦間際に村の寺に東京から疎開して来ていた家族が有ってその中の1人だった、
終戦で東京に戻ったが家は焼けてしまい両親も亡くなっていたらしい、親戚か知り合いのところで過ごし生活が荒れて子供なりに不良グループと粋がっていたと言うのは本人から聞いた話である。
丁度流行っていたジャックナイフを持っていて子供を集めて見せびらかしていたがその度に和尚に怒られていた、しかしこの村の生活がそれ程嫌でなかったのかそれとも都会に嫌な思い出でもあったのか「村を出る」と言う雰囲気は全く無かった、
ナイフの他に良く見せたのは太股に残るナイフの跡と二の腕に入れた刺青だった、模様はもう覚えていないがこの刺青が私の記憶の中に大きく残る事になる

悪代官と越後屋

2012-08-01 18:10:17 | 雑記
イギリスの経済紙にGEのCEOが「原発は経済的に正当化するのが非常に困難だ」と発言したという記事が出ていた、GEと言えば原子炉のトップ3の一角を担って来た会社である。
「天然ガスが非常に安くなり、いずれかの時点で経済原則が効いて来て原発が経済的に見合わなくなる可能性がある」「世界の多くが天然ガスと風力か太陽光の組合せに向っている」と述べた、
日本政府と経済界は「原発は電力コストが格段に安い、安全は確保出来る」と言い続け「安産の確保」の証明は全くしていなかった、聴き様によっては「コストを下げる為に何万分の一かの確率の危険性は犠牲にしても仕方ない」と取れるような発言が続いている、
この「原発は安い」と言う事も原料のウラン自体全面的な輸入であり、その価格は全く発表されていない、原子炉の維持経費も正確には分らない、電力三法で支払っている助成金の合計も計上しない、原子力村の人員や組織に出る経費も計上しないでどうして「コストが低いのか」全く分らなかったが世界は既にその数字のおかしい事にとっくに気付いていて原子炉のメーカーですらこう言う発言をしている、
この状況に経団連、電力各社、野田政府はどう言うコメントを出すのだろうか、恐らく全く無視を決め込むのだと思うが国民を余りにも舐めているとしか言いようは無い
経済的な負担を甘受しても危険な原発は止めろと毎週の様に永田町に数万人規模の民衆が集まっているのだ、これ以上の横暴は北アフリカ諸国で起きている様な、シリア情勢の様な暴動に行かないと政治が変らないのか
日本は力で時の政治に対抗すると言う事をしないで来たがそれは時の政府が民衆の声を聞いて柔軟に舵を取って来たからだ、幕末維新は「幕府が庶民を苦しめたから起きた」訳ではないのは周知の事だ、海外の情勢や地方自治の不満、近代化に追いつけなかった幕府が自壊しただけで民衆の大半は徳川300年の施政に大きな不満があった訳ではない、民衆の不満が幕府に向いた事は精々大塩平八郎の乱くらいだろう、私腹を肥やす輩に自治政府(各藩)も幕府も厳しく対応し今の様な官僚組織で腐敗臭がする様な事態は永くは続かなかった、
今は日本の永い歴史の中で最悪な状況かも知れない、
あくどい商人と政治をしないで私腹を肥やす悪代官と言う形はまさしく時代物で良くあるパターンその物だな、水戸黄門か桃太郎侍でも出てきてバッタバッタと成敗して欲しい物だが幕府そのものが商人と結託していては忽ちつかまってしまうか、