梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

家電の話

2019-02-14 10:04:08 | 昭和の頃
事務所で流しているラジオで投稿テーマに「家電の思い出」と言うものが出た、
生活家電と言う事になるみたいだが私の年齢では「家電」と言うものが現れたのはかなり後になる
無論我家が結構赤貧だったこともあるが世の中にはそんなものは無かった気がする
貧しかった我が家は電気は「定額」と言う奴で使える電力は決められていた、
思い出してみると恐らく「1A]だったのではないか?
一応ヒューズボックスは有るが入っていたヒューズはコンマ以下だった気がするので60W位だったかもしれない、
白い瀬戸物のヒューズボックスで鉤ヒューズが2本入っていたが危険防止と言うより低額制限の為の様で電線が熱を持つ前にヒューズが飛ぶ、
名目はあくまでソケットは一つだが松下電器を押し上げた二股ソケットをつけて更にねじ込み式のソケットを装着しそこにラジオをつけていた、
大きさは子供の感覚だから意外と小さかったかもしれないが木製のニス塗でスピーカー部分は溝が半円形にくりぬかれ布が貼ってある、
ダイアルは電源と兼ねたボリュームと選局用のバリコンダイアル、もう一つあったが多分チューニングの微調整だったのではないか、
何時の頃からあったか覚えていないが記憶にある年齢にはあったので多分昭和27年か28年頃か、
夕方家事手伝いの姉が聴いていたのは今月の歌と言う番組で此処で中曽根美紀の「川は流れる」とか
「山から街に来た娘」なんかを覚えていた、
両親が聴いていたのはニュースと寄席、NHKの「土曜の夜の贈り物」と言う番組がお気に入りだった、
石黒敬一の「とんち教室」(石黒さんは違うかな?)「二十の扉」「私は誰でしょう?」とラジオ寄席が繋がって放送されていた、
個人的には「模型とラジオ」で知った「ゲルマニウムラジオ」と言うい奴を組み立てて聞いていたが電源の無い検波だけのラジオなので音は微弱だが
深夜に布団の中で聞いていた、
村にTVが来たのはやはり皇太子御成婚がきっかけだが1軒だけで子供達は毎晩そこに集まって見せて貰った、
「てなもんや三度笠」「隠密剣士」「月光仮面」「ジャガーの眼」「怪傑ハリマオ」と実写ものでアニメは無かった気がする
プロレス放送は親父たちも集まって力道山や遠藤がアメリカから来たレスラーをやっつけるのが敗戦の留飲を下げるのか本当に興奮していた、
今考えるとあのうち(家は覚えているが確か山内さんだったと思う)は大変だっただろうな、
結局村を出るまで我が家にはTVは来なかったしお袋が入院してから親父が洗濯をしていたが盥と洗濯板だった、
自分も時々やるのだが水を汲むのが面倒なので数百メートル離れた川の河原に盥を持って行ってやっていた、
「白物三種の神器」は結局揃ったことは無かった、
中学を卒業し東京に就職した時はアパートの借り上げ寮で共同の洗濯機があった、
一槽の渦巻き洗濯機でゴムの搾りローラーが付いていてこれである程度水を絞ってから乾すのだが気を付けないとボタンを引き千切る事が有ったので気を遣う、
勤め先が日立なので暫くすると二槽式になったがその後所帯を持つまではコインランドリーになったのでこれも持ったことは無い、当時のアパートには風呂と洗濯機置き場はあまりついていなかった、
朝飯はパンだったり喫茶店のモーニングサービスだったり、昼は当然食堂、夕飯は酒で済ませるので
炊飯器は持っていなかったが唯一掃除機だけあった、しいて言えばトースターが有ったか、
その代わりオーディオ類は結構そろえた、コンポと言う言い方でアンプ、チュナー、イコライザー、ターンテーブル、スピーカーとバラバラに揃えるのが当時はマニアでなくとも当たり前だった、
殆どはSONYだったがSPはビクターのクラシック用の30kg近くあるものとSONYのG-5を使っていたが安アパートでは本格的に音を出す事は出来なかったので宝の持ち腐れだったな、
ターンテーブルもSONYのダイレクトドライブだったが所帯を持った時に場所を塞ぐのと女房の好きな音楽が違うので処分してしまった、
お皿も全て処分したがあのまま持っていたら結構価値が出ていたよな
と言う訳で私には「家電」と言うのは孫も成人した今時分になって一人事務所に大抵の家電が揃って来た、今はお一人様用と言うものが安く手に入る、下手をすると自宅より揃っている位になっている、

安倍総理の発言は徴兵制を視野に

2019-02-13 09:24:03 | 雑記
安倍総理が「都道府県の自衛隊募集名簿の協力が低く6割程度だ」と発言した
これは間違いで都道府県ではなく市町村自治体が対象で実際は9割以上の名簿が出ているらしい、
安倍総理の認識不足だと言う訳だが9割の候補年齢者にDMを送っても応募が無いと言う事だ、
「応募が無い」事に協力が少ないから応募が少ないのではないか、もっと応募者を増やせと言う事だろう、
なんでこんなに前のめりなのだろうか、
自衛隊を憲法に明記すると言う事を掲げているがその先は「日本国軍」として明記したいのだろう、
軍であれば「応募者」=「志願兵」と言う事だ
国家で適正年齢を名簿提出義務化し国がその情報を管理するとなれば志願兵が少ないからと次は「徴兵」と言う流れが見え隠れする、
「その戦力は永久に放棄する」と言う憲法はその成り立ちにいろんな意見があるとしても世界的には最高の憲法だと思う、
これは一国家の法と言うより国連憲章で「国家間の紛争の解決に戦力は保持しない」となれば世界は一新する、
サイボーグ009で描いていた「地球軍」はまああり得ないがあれが理想形態だろうな、
全人種、国家が国家経済力とは関係なく同数にする、と言うのも金がある大国のエゴを排除するのは無理だろうが敗戦国条項の結果ではあれ理想的な憲法を持ったと思う、
安倍総理が見ているのはいったいどう言う未来なんだろう、
自衛隊を憲法に明記するとしたときに9条との整合性をどうするのか、
自衛隊は専守防衛である、国境を越えて行動する事は無い、
だから「国家間の紛争を解決する為の戦力を永久に放棄する」と言う事と矛盾しない、
と言う論理から自衛隊は警察予備隊から「自衛のための防衛力」に昇格した、
アメリカがそれを飲んだのは「アメリカ軍の予備隊」としてであっても取りあえず憲法との整合性を
確保した、
しかし集団的自衛権と言う言い訳で自衛隊を国境の先に派遣した、更に空母を作ると言う、
恐らく更に自衛隊に応募する者は減るだろう、
憲法9条があるからではなく今の日本は確かに平和ボケ状況にある事は確かだが自ら好んで平和を捨てるなどと言う事は誰も考えて居まい、
志願兵が居なければ「愛国心を育てるために」徴兵制は彼らには重要な選択肢だろう、
しかし「愛国心」と言うのは文字通り国を愛すると言う事で他国を憎むと言う事ではない
間違えた愛国心は現在の韓国を見ていれば実に分りやすいだろう、
それは国家間に溝を作り、深くし、引き裂く方向にしか働かない

どうなりたかったのか、どうなったのか、どうなるのか

2019-02-12 11:06:57 | 雑記

齢71、まるで他人事のような歳になった、
世は「100歳時代」と言うからには未だ暫くは大丈夫そうだが死なないだけで100近くまで生きてもそれはちょっと遠慮したい、
今の所体調は悪くないがやはり足腰は弱ってきた感じはする
70になってからしばらくやめていたストレッチとスクワットをやり始めた
多少は歩くのが楽になった気がするのは気のせいか?
中卒で臨時工になって21で転職し36で結婚し、40歳で起業しバブルのおかげで年商が一億を超える所まで頑張ったがやはりバブル崩壊とともに会社は傾いて買った家も手放して借金を返す生活だ
子供達も既に40代の半ばと50歳目前で孫も成人を頭に無事育った、
年金では逼塞生活、未だ付き合ってくれる仕事仲間がいて何とか会社を維持している
有り難い事だが何時まで出来るか、
自分はどうなりたかったのかと思い返すがどうなりたかったと言う事が浮かばない
なりたかった者になったのかと言えば前記の如く「なりたかった、なりたい」と言う感覚は無かった気がする、
代わりに「成りたくない」と言うのが自分の原動力だったのじゃあないかと思う、
私は結構赤貧だったらしい、只自覚としてそれ程酷い貧乏だとは思っていなかった、
しかし日立製作所の亀戸工場に就職して昼夜と出される食事が同期の連中から「豚の餌か!」と
言われている時に自分には十分な食事だった時に(ああ、自分は随分貧しかったのか)と考えた位だが自分の田舎ではさして我家がそれほど酷いとは思えなかったのだが、
そのままあの工場に勤め続ければ恐らくそこそこの生活は保障されたのだろうとは思う
しかし工場の職工と言う組織では中学新卒は技術養成という人と私の様な臨時工から正式雇用された者で組織されていて30~40人単位で組になり組長と言う管理責任者は私の時にほゞ定年まじかの方が座っていた、
それらを束ねて課が有って課長の下には100~120人程度の職工が働いていた
或る日本社の幹部候補と言う大学卒が研修と言う事でやって来た事がある
当然新卒採用なので現場研修の時は24歳程度、しかし彼が配属され時現場を見て廻る後ろに課長以下組長連中がぞろぞろと大名よろしく練り歩いていた、
30にもならない若造は尊大にふんぞり返って2年後に定年になる課長以下組長連中は神妙に付き従って丁寧に仕事の説明をしていた、
この時(ああはなりたくない)と強く思ってしまった、
組織の中で中卒臨時工上がり、恐らくどう頑張っても組長にすらなれまい、
(ああはなりたくない)どうなりたいのではなく”ああはなりたくない”と思ったのだった
それから今まで恐らく「貧乏は嫌だ」とか「偉そうに命令されて働くのは嫌だ」とかどうなりたいのではなく「なりたくない」と頑張って来たのだったろう
随分消極的な生き方に見えるが結局今のままでは嫌だと言う部分が前に押し出したのだろうな
強くなりたいのでもなく、金持ちになりたいのでもなく只人並みに幸せになりたいと言うのが生きるモチベーション、
人並みとは何だと言われれば良く解らない、
出来れば残りはゆったりと行きたいね

また幼い命が

2019-02-07 10:12:29 | 雑記
また小さな子供が死んだ、今度の殺人者は実の親だという、
苦しみ、悲しみ怯えている力のない相手を見て何も感じないどころか更に危害を加える
なぜそんなことができるのか
いじめの加害者も「泣くのが面白い」と言う、ごく当たり前に「面白いじゃないですか」発言する奴すらいる、
相手が苦しみ悲しみ怯える相手が自分だったらと少しでも考える事がなぜできないのだろうか
加害者は同じような過去があるという、
自分が被害者だった事があるのならなおさらあの時の自分を思えばできないのではないのか、
自分が人より上位だと何故思うことが出来るのか、いやもしかしたら自分に自信がないから自分より弱い立場の人を見つけ怯えることをみて自分が強い、偉いと思いたいのか
あまりに情けない、情けないのは本人で仕方ないが対象にされた者はたまったものじゃないだろう、
弱者をいたわり慈しむ事こそが人として自身を持つことが出来る一番の方法だろう、
それが自分の内面から自身を持って生きて行ける基礎になる
虐めの加害者も改めて自らの行動や思いを考えたとき自信をもって生き続ける事が出来るのだろうか、
恐らくそれは「自己嫌悪」が湧いてくるだろう、
少なくとも己の生き方を嫌悪してもらいたい、
生物として力のない裸の猿が地球の覇者となったのは自己を見つめ互助の社会を維持してきたためだろう
それが只の強制だったら歴史は続くまい、独裁者が多くの人間を征して来た歴史はすでに崩壊し、新しい秩序が生まれている
それが自由経済主義であるということは認められないが親が子を守り育てるのは社会の基本であり法律以前の問題だ、
なんとかしよう、社会の問題は政治経済とは別の問題だ、
悪しき連鎖は断ち切り誰もが持っていた本能と言える社会性を復元することを切に願う

ピエロの様なボールペンを買いました

2019-02-06 11:19:28 | 雑記
昨夜ビールのグラスを割ってしまった、
薄手のグラスでカットが入った小ぶりのもので350mmlが3杯分くらいのものだったが手が触れて割れてしまったので駅ビルで探そうと女房と寄ってみた
しかし手前の文具屋でイベントコーナーで木工細工を売っている
こういうものがあるとつい引き寄せられれてしまうのは実に悪い癖だ
木製のボールペン、シャープペン、万年室を売っている、太めのものは外国産の高級材らしい
目の細かなブラウンで結構太めのものだが自分はあまり太いペンは好まない
スリムなものもある、面白い模様のものがあった、
箱根細工だそうでそれを幾つかの括れを入れた形で挽いてある
色と形の様子が私にはピエロの衣装に感じられてつい買ってしまった
まあどんな用具を使ってもとても見られた文字では無いのだがこれで多少は手書きをする事も多くなるかもしれない
親父は毛筆の段持ちだったらしいが全くその部分は遺伝しなかったらしい、
妙に理屈っぽい所だけは遺伝した様だが年とともに余計なことは口に出さないようになった
口は禍の元、物言えば唇寒し、と昔から言われているからまあ沈黙は金でもないが思ったことは一旦腹に入れて
なるたけ穏便に進めよう、
仕事でも結構(まっいいか)と一日待つと勝手に話が進む事が多い、
中には「やる気あるのか!」と言われることもあるが「ゆるゆる」と進めた方が良いことの方が多そうだ