梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

親父の話、

2019-02-04 08:58:30 | 雑記
親父が死んだのは私が17の時、
15才から東京に出て働いていたので親父と暮らした年数は15年と3ヵ月だが幼少期の記憶は3歳以降だと思うから12年位か
したがって親父を大人の感覚で接した時間はほゞ無いに等しい
記憶に残っているのはやはりあまりない、
お袋とは再婚で腹違いに兄が3人いる、お袋も一人居たそうだが里子に出して嫁いできたそうだ、
この辺りの話はお袋からも聞いた記憶があるがお袋は自分が12歳の春に死んだので詳しい話は後で姉から聞いた、
再婚した後の姉弟は姉が二人に私が末っ子、
軍需工場の頃は結構いい羽振りだった様だが敗戦で零落し生まれ故郷に戻り樵や炭焼きで生計を立てていた時代に生まれた私はまあ結構な赤貧状態で暮らしていた、
性格的にも最初からそんな生活のせいもあって苦にはならなかったが姉達は結構大変だったらしい、
したがって親父の評判は兄貴姉貴達には頗るよろしくない、
金が無いけどプライドだけは高いと言うのは恐らく最悪な評判だったろうな
親父はその村で何人かの末っ子にうまれたそうだ、私の父親に関する知識はその程度である、
村落の大字は「社地」と書いてやしろぢと言う、大字は全て同じ苗字で何代か前に分家した村落だ、
全て屋号がある、私の時代は戸主の個人名で呼ぶことが多かったが屋号で呼ぶことも多い、
戸長・下の元・大家・新家・奥または柳下と5軒あり我が家はその一番奥、西側の山裾にある”奥”だが一般的には親父の名前で「精ちゃあの家」と言われていた、
親父の時代に兄弟が嫁いだり村を出て行ったので屋号が失われ親父が敗戦で零落して戻って小屋を建てたのでこうなったのだろう。
戸長と大家があるのは妙な話だが戸長は大字としては隣に属していたので恐らくその戸長をやっていたのだろう。
親父の姉弟と言うのは良く解らない、女姉弟が一人、男兄弟が二人ではないかと思うのだが親父の性格が災いしたのか親戚付合いが殆ど無かった、
小学校に上がるころ金谷の五箇村と言う所に一度言った記憶があるがいったいどういう関係か覚えていない、
お袋の葬式の時叔父さんと言う人が二人ご夫婦出来た記憶がある、しかしこの時以外は有った記憶がない、
その内の長男とは関係があまりよろしくは無かった様だがお袋は人好きのする性格で親父は兎も角お袋の葬儀には来てくれていた、
親父本人の葬式には来ていた記憶が無いがもしかしたら既に他界していたのかもしれない
兄貴たちは従弟付き合いは結構あったらしく一番下の兄の娘の結婚式に来ていたし長兄の娘の結婚式にも来ていたが姉達は招待されていなかった、
改めて父親の年をひと廻りも過ぎて思いおこしてみると殆ど知らない事に呆れている、
しかし上の三人も末に鬼籍に入り姉も80歳になり痴呆も混ざっていて会話もたどたどしい
私自身の血縁関係に関する淡泊と言うか若干欠陥のあるのもこんなところもかんけいしているかもしれない、
女房も「家族のしがらみが無いのは有り難いがお父さんの何処か冷たいのもちょっと異常よね」と言われるがまあ仕方ない、
有るが儘に生きて来たつもりだしこれからもあるが儘に行くしかない