小説は好きで、能く読んでいたが、それはただ「読み物」が好き、というだけの話で、研究心なんてこれっぽっちもなかった。
小説以外の本なんかは読まない。その上、ほとんどの本は一回読んだら終わり。エッセイなんて面白くもなんともないので端(はな)から読まない。
そんな奴だから、学術書を何度も読む、読んで深く理解しようとする、なんてことは全くなかった。
小説だって難しそうなところは飛ばして読んでいたくらいだから、本当のところ、作者が何を言いたかったかなんて考えもしない。全然違った解釈をしていたなんて日常茶飯事。
勿論、だから読書感想文と言う奴が何よりも苦手。
これだから、小中高と、或る意味、学術書の入門書でもある教科書なんて、一回も読まない。
大体、そんな風に「読む」姿勢そのものがなってない。
当然、教科書を面白いなんて思ったことは無いし、小難しいことが書かれていて、それが分からないのは単純にバカだから、と思っていた。
何でバカか、というと歴史なんか特に或る事件についての経緯なんかが書いてあるわけだけれど、「その結果はこうだ」と書かれているところまで行くと、「え?何でそうなるの?」としか思えない結論が書かれていることが多かったからだ。
丁寧に書いてあるんだけれど、結論になると妙にぼんやりする。
「こうだから、こうなった」ではなく「こういうことがあって、それで、こうなって、こうなった」と書かれている。「~だから」という説明の形態をとらず、ひたすら事実を並べて、「結論はこれです」、と結論までも「並べる」。
「説明」ってのは必ず「だから」とか「それ故に」となるんじゃないのか?
「こういうことがあって、それで、こうなって、こうなった」ってのは徹頭徹尾説明のみ。つまり、結論までもが説明のみ。論理展開が、ない。
それを分からないのは、ただただ、バカだから、と思っていた。
先日来、何度も部分掲載している宮脇淳子氏の本を読んでいて
「あれ?習ったことと違う。習った時は結論が違っていたし、モヤモヤしてよくわからなかったけど、この人の書いているところを見るとちゃんと納得できる。何が違っていたんだろう」
と思い始めた。
で、気が付いたのは「やっぱり、史観が違うんだ」ということ。
そして、
「歴史学者は人心を知らない」と書いたこともあったけど、今は
「多くの歴史学者は本当は歴史の研究が好きではないんじゃないか」
、と。
一言で言えば
「そこに愛はあるんか?」
「史観」が違うんだから、愛は、ない。
更に、この際の史観は「馬列」社会主義なわけだから。
今回は「対華二十一箇条の要求」のところを転載しようと思っていたのだけど、長くなり過ぎたので、次回。
あ、「対華二十一箇条の要求」への抗議行動ということで学生が「五・四運動」を始めた、と習ったでしょう?
ところが、「二十一箇条の要求」が出されて、「五・四運動」が起こるまでに四年も経ってる、って知ってました?
こんなに間が空いているのに、「学生が中心になって~」 って何かおかしいと思いません?
では転載は次回に。
・
小説以外の本なんかは読まない。その上、ほとんどの本は一回読んだら終わり。エッセイなんて面白くもなんともないので端(はな)から読まない。
そんな奴だから、学術書を何度も読む、読んで深く理解しようとする、なんてことは全くなかった。
小説だって難しそうなところは飛ばして読んでいたくらいだから、本当のところ、作者が何を言いたかったかなんて考えもしない。全然違った解釈をしていたなんて日常茶飯事。
勿論、だから読書感想文と言う奴が何よりも苦手。
これだから、小中高と、或る意味、学術書の入門書でもある教科書なんて、一回も読まない。
大体、そんな風に「読む」姿勢そのものがなってない。
当然、教科書を面白いなんて思ったことは無いし、小難しいことが書かれていて、それが分からないのは単純にバカだから、と思っていた。
何でバカか、というと歴史なんか特に或る事件についての経緯なんかが書いてあるわけだけれど、「その結果はこうだ」と書かれているところまで行くと、「え?何でそうなるの?」としか思えない結論が書かれていることが多かったからだ。
丁寧に書いてあるんだけれど、結論になると妙にぼんやりする。
「こうだから、こうなった」ではなく「こういうことがあって、それで、こうなって、こうなった」と書かれている。「~だから」という説明の形態をとらず、ひたすら事実を並べて、「結論はこれです」、と結論までも「並べる」。
「説明」ってのは必ず「だから」とか「それ故に」となるんじゃないのか?
「こういうことがあって、それで、こうなって、こうなった」ってのは徹頭徹尾説明のみ。つまり、結論までもが説明のみ。論理展開が、ない。
それを分からないのは、ただただ、バカだから、と思っていた。
先日来、何度も部分掲載している宮脇淳子氏の本を読んでいて
「あれ?習ったことと違う。習った時は結論が違っていたし、モヤモヤしてよくわからなかったけど、この人の書いているところを見るとちゃんと納得できる。何が違っていたんだろう」
と思い始めた。
で、気が付いたのは「やっぱり、史観が違うんだ」ということ。
そして、
「歴史学者は人心を知らない」と書いたこともあったけど、今は
「多くの歴史学者は本当は歴史の研究が好きではないんじゃないか」
、と。
一言で言えば
「そこに愛はあるんか?」
「史観」が違うんだから、愛は、ない。
更に、この際の史観は「馬列」社会主義なわけだから。
今回は「対華二十一箇条の要求」のところを転載しようと思っていたのだけど、長くなり過ぎたので、次回。
あ、「対華二十一箇条の要求」への抗議行動ということで学生が「五・四運動」を始めた、と習ったでしょう?
ところが、「二十一箇条の要求」が出されて、「五・四運動」が起こるまでに四年も経ってる、って知ってました?
こんなに間が空いているのに、「学生が中心になって~」 って何かおかしいと思いません?
では転載は次回に。
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