「長征」。
苦しく、長く続く敵軍征伐のための行軍。敵ってのは東北部に跋扈する盗賊集団や馬賊なんだろう‥‥と思っていた。
けど、なんかおかしい。
Wikiには
【長征(ちょうせい)は、国民党軍に敗れた紅軍(中国共産党)が、中華ソビエト共和国の中心地であった江西省瑞金を放棄し、1934年から1936年にかけて国民党軍と交戦しながら、1万2500kmを徒歩で続けた移動をいう。】
と書いてある。
江西省と言えば大陸の南部。到着したのは大陸の北部。
それを直線で移動するのではなく、まず西に向かい、それから北上する全行程1万2500km。
盗賊集団や民間の自警団である馬賊は、現在東北部とされる満州や内蒙古辺りにいる。
ということは、これらは共産党軍に敵対する勢力ではない。
つまり、「長征」に対して漠然と思っていた「長期にわたる討伐戦」という思い込みは全く違っていて、本当はただひたすら逃げ続けていた、ということではないのか。
「1924年に、コミンテルンは国民党に声をかけ、中国共産党と協力関係をむすばせた。これが第一次国共合作~」。
それが「国民党の蒋介石による反共クーデターが起こって共産党員が排除され、第一次国共合作は崩壊」。
「国民党の孫文は、金を出してくれるなら、相手が日本でもコミンテルンでもよかった」けれど、蒋介石はそれを嫌った。
で、内戦となるが、多勢に無勢。国民党軍によって共産党軍は打ち破られ、逃避行をする羽目になって、勝った国民党軍はそれをどこまでも追撃して~」・・・・。
「長征」どころか、共産党軍は全くの逃避行、国民党軍は追撃戦。
これだけでも「あれ?あれぇ~?」なのに、共産党軍はそのさなかに派閥闘争を展開する。それも意見の対立というよりも単なる主導権争い。
トップになるために実力者を次々に見殺しにしていく、という陰険なやり方を採る。
そして最後に残ったのは・・・・・。
以下に、
「中国・韓国の正体」~異民族がつくった歴史の正体~
宮脇淳子
を部分転載します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1931年に、共産党は江西省の瑞金(ずいきん)に中華ソビエト政府を設立して、対日戦争宣言をする。
しかし、それは遠い山間の僻地から宣言しただけで、言うだけなら何でも言える。すぐに蒋介石の国民党政府軍から攻撃されて、共産党軍は瑞金から逃げ出し、あてもない旅に出る。
これがあの「長征」の実態である。ここから共産党のウソだらけの伝説がつくられていくことになる。
現在の中国共産党の象徴として、毛沢東の英雄譚のように語られる長征だが、じつは毛沢東にとって、長征はライバルをすべて蹴落とす旅だった。ユン・チアンの『マオ』には、ライバル部隊が全滅するようにわざわざ遠まわりをしたと書かれている。
長征の間も戦いは続き、同志が次々に死んでいく。
最後に延安に行き着いたときには、出発当初は十万人いた共産党員が数千人しか残っていなかったともいわれるが、実際は三万人が残ったのを大げさに言って美談に仕立てただけである。
毛沢東が実際に手を下して殺したわけではないが、彼は自分だけ生き残ろうとして、同志をどんどん見捨てていった。言いかえれば、長征を利用して、自分がのし上がろうとしたのである。
毛沢東のつくった歴史によると、「ソ連帰りやコミンテルンの息のかかったエリート部隊長は、あまりにも教条的でゲリラ作戦に向いていなかった」そうである。
彼らは勝手に自滅し、作戦上手な自分だけが生き残ったように書いているのだが、じつは見殺しにしただけである。
この時、外国留学経験もない毛沢東は、コミンテルンやモスクワ帰りの幹部たちから見ればただの田舎者にすぎなかった。そういう有力なエリートたちを、毛沢東は長征の間にすべて蹴落としてのし上がっていく。
これも毛沢東の好きな『三国志演義』や『水滸伝』の世界である。
毛沢東は中国の古典にも通じた軍事的天才だが、ということは人命を何とも思わない人物であることにほかならない。慈愛のかけらもなく、少しでも農民に同情する党員はみな粛清されてしまった。
「民衆のものは針一本盗るな」など共産党軍の軍規を厳しく定めた「三大紀律」と「六項注意」も彼がつくったと言われているが、実際は、良くできているから自分がつくったことにしたのだろう。オリジナルをつくったのが誰だかはわからない。
自分に不利な人間はすべて口封じするのが毛沢東のやり方だ。中国共産党の党員を再教育する整風運動なども同じである。
長征は毛沢東によってつくられた美談だったのである。
「中国・韓国の正体」~異民族がつくった歴史の正体~
宮脇淳子
・
苦しく、長く続く敵軍征伐のための行軍。敵ってのは東北部に跋扈する盗賊集団や馬賊なんだろう‥‥と思っていた。
けど、なんかおかしい。
Wikiには
【長征(ちょうせい)は、国民党軍に敗れた紅軍(中国共産党)が、中華ソビエト共和国の中心地であった江西省瑞金を放棄し、1934年から1936年にかけて国民党軍と交戦しながら、1万2500kmを徒歩で続けた移動をいう。】
と書いてある。
江西省と言えば大陸の南部。到着したのは大陸の北部。
それを直線で移動するのではなく、まず西に向かい、それから北上する全行程1万2500km。
盗賊集団や民間の自警団である馬賊は、現在東北部とされる満州や内蒙古辺りにいる。
ということは、これらは共産党軍に敵対する勢力ではない。
つまり、「長征」に対して漠然と思っていた「長期にわたる討伐戦」という思い込みは全く違っていて、本当はただひたすら逃げ続けていた、ということではないのか。
「1924年に、コミンテルンは国民党に声をかけ、中国共産党と協力関係をむすばせた。これが第一次国共合作~」。
それが「国民党の蒋介石による反共クーデターが起こって共産党員が排除され、第一次国共合作は崩壊」。
「国民党の孫文は、金を出してくれるなら、相手が日本でもコミンテルンでもよかった」けれど、蒋介石はそれを嫌った。
で、内戦となるが、多勢に無勢。国民党軍によって共産党軍は打ち破られ、逃避行をする羽目になって、勝った国民党軍はそれをどこまでも追撃して~」・・・・。
「長征」どころか、共産党軍は全くの逃避行、国民党軍は追撃戦。
これだけでも「あれ?あれぇ~?」なのに、共産党軍はそのさなかに派閥闘争を展開する。それも意見の対立というよりも単なる主導権争い。
トップになるために実力者を次々に見殺しにしていく、という陰険なやり方を採る。
そして最後に残ったのは・・・・・。
以下に、
「中国・韓国の正体」~異民族がつくった歴史の正体~
宮脇淳子
を部分転載します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1931年に、共産党は江西省の瑞金(ずいきん)に中華ソビエト政府を設立して、対日戦争宣言をする。
しかし、それは遠い山間の僻地から宣言しただけで、言うだけなら何でも言える。すぐに蒋介石の国民党政府軍から攻撃されて、共産党軍は瑞金から逃げ出し、あてもない旅に出る。
これがあの「長征」の実態である。ここから共産党のウソだらけの伝説がつくられていくことになる。
現在の中国共産党の象徴として、毛沢東の英雄譚のように語られる長征だが、じつは毛沢東にとって、長征はライバルをすべて蹴落とす旅だった。ユン・チアンの『マオ』には、ライバル部隊が全滅するようにわざわざ遠まわりをしたと書かれている。
長征の間も戦いは続き、同志が次々に死んでいく。
最後に延安に行き着いたときには、出発当初は十万人いた共産党員が数千人しか残っていなかったともいわれるが、実際は三万人が残ったのを大げさに言って美談に仕立てただけである。
毛沢東が実際に手を下して殺したわけではないが、彼は自分だけ生き残ろうとして、同志をどんどん見捨てていった。言いかえれば、長征を利用して、自分がのし上がろうとしたのである。
毛沢東のつくった歴史によると、「ソ連帰りやコミンテルンの息のかかったエリート部隊長は、あまりにも教条的でゲリラ作戦に向いていなかった」そうである。
彼らは勝手に自滅し、作戦上手な自分だけが生き残ったように書いているのだが、じつは見殺しにしただけである。
この時、外国留学経験もない毛沢東は、コミンテルンやモスクワ帰りの幹部たちから見ればただの田舎者にすぎなかった。そういう有力なエリートたちを、毛沢東は長征の間にすべて蹴落としてのし上がっていく。
これも毛沢東の好きな『三国志演義』や『水滸伝』の世界である。
毛沢東は中国の古典にも通じた軍事的天才だが、ということは人命を何とも思わない人物であることにほかならない。慈愛のかけらもなく、少しでも農民に同情する党員はみな粛清されてしまった。
「民衆のものは針一本盗るな」など共産党軍の軍規を厳しく定めた「三大紀律」と「六項注意」も彼がつくったと言われているが、実際は、良くできているから自分がつくったことにしたのだろう。オリジナルをつくったのが誰だかはわからない。
自分に不利な人間はすべて口封じするのが毛沢東のやり方だ。中国共産党の党員を再教育する整風運動なども同じである。
長征は毛沢東によってつくられた美談だったのである。
「中国・韓国の正体」~異民族がつくった歴史の正体~
宮脇淳子
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