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ただの日記

五・四運動

2019年07月11日 | 重箱の隅
 「馬列」社会主義史観。
 「馬列」とは「馬の列」ではなく、「馬克思・列寧(マルクス・レーニン)」の「馬(マ~)・列(レー)」。
 とにもかくにも「前政権を含む社会体制」自体を全否定しなければ、社会主義国家は成立し得ない。
 「前政権を否定する」だけなら、それは「革命」で、それならシナの王朝は経験豊富。国の興亡だって、まあ、革命みたいなもんだ。
 けど、社会主義革命となると、「社会主義」によって行う「社会体制の否定」と「新しい社会の建設」なわけだから、解体時に出る「廃材」は、人も物も大変な量になる。
 またえらく見当違いな方向に行きそうだけど。
 取り敢えずは共産党を作らねばならない。そこで社会主義革命を実行すべき理由を提示しなければならない。
 単に何となく「今の社会はダメだ!」と叫んだって誰もついてこない。具体的な理由を挙げて「なるほど」と思わさなければならない。
 理由を見つけたら
 「ほら!これを見ろ!こんなに酷いことをされて口惜しくないのか!民族の誇りはないのか!同志よ。手を取り合って立ち上がろう。革命だ!」
 という方向に持って行く。
 敵を見つけて「みんなで戦おう!」と煽る。「反対、反対!」と叫ぶだけのやり方と違って、「叩け!倒せ!やっつけろ!」とアジテートする。
 当然「話し合おう」なんて大嘘だ。話し合いで否定したって、相手が納得するわけがない。最後には実力行使で否定する。
 全世界の共産党はみんなこれをやる。とにかく現行の社会体制を否定しなきゃ何も始まらない。
 ‥‥というわけで、シナでは共産党をつくるきっかけに、4年も前の「対華二十一か条の要求」を学生に教え込んだ。
 「まずは眼前の敵日本に団結、結束して立ち向かおう!」と。
 何故、学生か、って?
 学生しか字を読めないんだから。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・
 1919年、第一次大戦後のパリ講和会議で、山東省の旧ドイツ権益を日本が継承することになったのに抗議する「五・四運動」が、ソ連のコミンテルンの煽動によって起こった。
 
 現在の中華人民共和国では、この五・四運動は日本の対華二十一カ条要求に対する抗議運動であり、これを中国の近代化とナショナリズムのスタートと位置づけ、五月四日を「国恥記念日」としている。
 しかし、対華二十一カ条要求は五・四運動の四年も前のことである。二十一カ条の要求が出された時点で民衆が決起し、この日を記念日にしたなどということはない。これはコミンテルンがそそのかして、四年前の出来事をうまく利用して運動をあおっただけだ。
 そもそも日本が二十一カ条を要求したのは、清朝と結んだ条約の継続・確認を袁世凱に対して求めなければ投資を続けられなかったからである。
 「二十一カ条の要求は、民衆レベルで日本と中国のあいだに決定的な溝をつくり出した」などというのは後からのつくり話にすぎない。
 戦後の日本の無知な学者、共産党シンパの人たちが、そのつくられた歴史を鵜呑みにしているだけの話である。
 五・四運動の時点では、まだ毛沢東や周恩来、鄧小平らは登場していない。もしそのような記述があるのなら、いかにも関係があるかのように粉飾しているだけである。五・四運動を述べた文章のすぐ下に続けて、毛沢東について書いたりして、都合よく結びつけてしまうのだ。
 五・四運動は北京大学の先生たちと学生たちによる運動で、主役は陳独秀と李大釗だった。
 ただ、毛沢東は北京で陳独秀に会ったことがあり、陳独秀の雑誌『新青年』に、「国語問題」と「女子問題」についての論文を載せている。
 毛沢東と陳独秀はそれだけの関係なのだが、それを五・四運動の話に並べて書くと、いかにもつながりがあるように見えるわけである。
 中国共産党は五・四運動の後の1919年にコミンテルンの指導のもとで発足している。
 結成したのは陳独秀と李大釗で、毛沢東も第一回党大会に参加したということになっているが、腑に落ちないことがいろいろある。
 実際には、毛沢東が参加したのは第二回大会からだったと私は思うのだが、今ではこれが第一回ということになっている。しかも、その時は毛沢東はまだ下っ端で、口も利かずに大人しくしていたようだ。

  「中国・韓国の正体」~異民族がつくった歴史の正体~
  宮脇淳子

コメント
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