1月28日(土)
何と!今日も凍った道のまま。
それどころか昨晩からの雪ですっかり元通り(?)の氷の世界。
数えてみると、水曜日から四日間外に出られずにいたことになる。
一番の問題は、それを良いことに家でじっとしていたら身体に不都合が色々と出てきたこと。これが齢を取るということか、と今更ながら愕然とする。
テレビなどで九十近い爺さんがテレビ取材のプロデューサーやカメラマンを放っておいてさっさと山道を行く場面が流れ、いつも「若い!本当に〇〇歳?」というコメントが流れるが、あれは年寄りがいつも動き続けているからだということを、改めて思わされた。
つまり彼らも、じっとしていたらたちまち錆びる。
また、それが本来、人のあるべき姿なのだ、とも思う。
そして元気であろうが不健康であろうが、最終的にはみんなあの世に行く。
「生きている間は元気でいたい」「生きている間、ずっと輝いていたい」等々言うけれど、「元気でいること」「輝いていること」が「生きている(生きる)理由」ではあるまい。それらが生きている理由だったら、「病気の人」や「苦悩する人」は存在を否定されてしまう。早い話、「全ての人(の心)を救いたい」と苦悩した釈迦も、キリストも否定されてしまう。
「やりたいこと、やらねばならぬことを見定めようとし、それに取り組み続けること」辺りが穏当な目的となるのであって、突き詰めればただ「諸行無常」。生きていることに意味なんかないのだ。
けれど「ただ単に(自分の意志ではなく)この世に生を受けた」(生かされた)からと言って、全く考えようともしないで「生きていることに意味なんてないよ」、と決めつけてしまうのはあまりに寂しいじゃないか。達観でも諦観でもない、ただの怠観だ。勿体ない。
それよりも例えばほめられないけど「享楽に走る」。「使命感を以て生きる」等、それなりの意味(生まれてきた意味)を見出して生きる方が、きっと良い。
「享楽に生きる」なんて世間から眉を顰められそうだけど、社会に在って「世間から眉を顰められる」ということは、世間から相当に意識されているということであって、その裏には少なからず「自分も享楽に走ってみたい」という羨望の眼差しがある。
「享楽に走っている奴を見ると羨ましいけど、俺には家族がある。妻や子や一族が笑いものになってはいけないから俺は辛抱する」と考える人の方が圧倒的に多いだろう。
間違いなく眉を顰められることによって、社会に「必要とされている」のだとも言える。
ごり押しに聞こえるかもしれないけど、これがあの「必要悪」というやつの分かり易い例。
(続く)