2010.11/17 (Wed)
津本陽氏の剣豪小説、本格的な一冊目、となったのが、当時「オール読物」誌に連載されたものがまとめられた、「薩南示現流」です。
いきなり脱線しますが、本格的に示現流が、実際に(資料のみならず)宗家道場まで調査に訪れた上で、小説にされたのは、これが初めてです。
鹿児島出身で、示現流をよく知っている、と、当の本人でさえ思っていた海音寺潮五郎も、実際の示現流を見たのは、大家になってからだそうです。
それくらい名前ばかりがよく知られて、実像は明らかでなかったのが示現流、と言えるでしょう。
もう一つ、ついでに。
以降、よく「薩南示現流」という言葉が遣われるようになりましたが、あれは飽く迄も小説の題名であって、そんな流儀名は存在しません。
「示現流」は、ただ「示現流」或いは「御流儀示現流兵法」と言います。
初め、「天真正自顕流」と言っていたのを、時の藩主、家久公が、文之和尚と語らい、観音経にある「普門示現神通力者」という語句から、同音の「示現」を流名に、と東郷重位にすすめた、とされています。
さて、長い脱線になってしまいましたが、初めに戻ります。
「薩南示現流」の中に「祇園石段下の血闘」という話があります。
密偵として、新撰組の隊員になっていたことのある、島津藩士指宿藤次郎が、京都見廻り組と切り合いになり、斬殺される話です。
五人を相手に一人で戦い、三人までを倒し、四人目で下駄の鼻緒が切れ、転倒、マント代わりに羽織っていた毛布が邪魔をして、切り付けられ絶命した、という凄惨な内容でした。
次の篇に後日談が書かれてあります。
当時、独り歩きは危険だから、と外出は必ず二名以上で連れ立ってというのが島津藩邸では決まりになっていたそうです。
その日、指宿は前田某と共に外出したのですが、運悪く、新撰組に潜入していた時の、顔見知りの見廻り組に見つけられ、切り合いになったのは先に書いた通りです。
当然、五対二の戦いになるところ、この前田某、臆病風に吹かれたか、それとも何らかの理由でか、今となっては知る由もありませんが、とにかく、そこから離れて、藩邸に戻ってしまった。
急を知って駆けつけた藩士の目に入ったのは、血だらけになって倒れている藤次郎の遺骸だけです。
何故、前田某は無傷なのか。答えは唯一つ。どんな理由があるにせよ、敵に背を向けて、「逃げた」。「士道不覚悟」。
葬式の準備ができ、棺の蓋をするばかりのところに、前田某がやって来る。
その場を仕切っていた若侍の筆頭が、前田某に
「おはんが一番焼香じゃっど」
と告げる。
覚悟を決めた様子の前田某が進み出て、棺を覗き込もうとした瞬間、件の若侍が、抜き打ちに前田の首を刎ねる。
血しぶきと共に前田の首は棺の中に落ち、若侍は平然として
「こいで良か。蓋をせい。葬式じゃ」
とみんなに声をかける。
小説では、この若侍が後の樺山資紀(すけのり)であると書かれています。白洲次郎の妻で、女傑とも言われる白洲正子の祖父です。
何とも烈しいというか、何というか。
こんな人が、いくらでもいたのが薩摩という土地柄であり、また、武士というのは、これくらいは当たり前、ととっていたのだろう、と思わされたものです。
そんな人々が、明治時代、軍人となり、後々までも、帝國軍人、というのはそんな「風」を持っていくことになったのだろう。
そう思っていました。
それから見たら、現代の我々は、恐怖に負けてさっさと逃げてしまった、前田某くらいのものか。
そうも思っていました。
けど、ちょっと待てよ、と思うのです。
葬式の時のことです。
藩邸に逃げ帰った前田某の連絡を聞いたからこそ、藩士連中は駆けつけた。それから、前田は「何故、逃げ帰った」と詮議を受けた筈です。しかし、結論は詮議をせずとも、出ている。
「おはんが一番焼香じゃっど」
と告げられた時、前田某は覚悟をしていた。だから、すぐに進み出た。
つまり、首を刎ねられるのは承知の上だった、ということです。
あの時は逃げた。違うかもしれないけれど、事実は逃げた。
それに対して、今、首を刎ねられることを承知の上で、出て来た。
これが、けじめをつける、ということじゃないでしょうか。
臆病風に吹かれて逃げた、としても、今、理性で、自分の首を持って来た。
それを、樺山資紀も充分に分かっている。だから、首を「刎ねてやる」。
前田某も、これで救われる。
こうやってみると、現代の我々は、前田某にも、遠く及ばないのではないか。みっともない言い訳をして、ひたすら逃げおおせようとするばかり。その場しのぎの小刀細工で何とか誤魔化そうとしている。
いや、「我々」は言い過ぎでしたか。
「現内閣」と、「私」、くらいですかね。
津本陽氏の剣豪小説、本格的な一冊目、となったのが、当時「オール読物」誌に連載されたものがまとめられた、「薩南示現流」です。
いきなり脱線しますが、本格的に示現流が、実際に(資料のみならず)宗家道場まで調査に訪れた上で、小説にされたのは、これが初めてです。
鹿児島出身で、示現流をよく知っている、と、当の本人でさえ思っていた海音寺潮五郎も、実際の示現流を見たのは、大家になってからだそうです。
それくらい名前ばかりがよく知られて、実像は明らかでなかったのが示現流、と言えるでしょう。
もう一つ、ついでに。
以降、よく「薩南示現流」という言葉が遣われるようになりましたが、あれは飽く迄も小説の題名であって、そんな流儀名は存在しません。
「示現流」は、ただ「示現流」或いは「御流儀示現流兵法」と言います。
初め、「天真正自顕流」と言っていたのを、時の藩主、家久公が、文之和尚と語らい、観音経にある「普門示現神通力者」という語句から、同音の「示現」を流名に、と東郷重位にすすめた、とされています。
さて、長い脱線になってしまいましたが、初めに戻ります。
「薩南示現流」の中に「祇園石段下の血闘」という話があります。
密偵として、新撰組の隊員になっていたことのある、島津藩士指宿藤次郎が、京都見廻り組と切り合いになり、斬殺される話です。
五人を相手に一人で戦い、三人までを倒し、四人目で下駄の鼻緒が切れ、転倒、マント代わりに羽織っていた毛布が邪魔をして、切り付けられ絶命した、という凄惨な内容でした。
次の篇に後日談が書かれてあります。
当時、独り歩きは危険だから、と外出は必ず二名以上で連れ立ってというのが島津藩邸では決まりになっていたそうです。
その日、指宿は前田某と共に外出したのですが、運悪く、新撰組に潜入していた時の、顔見知りの見廻り組に見つけられ、切り合いになったのは先に書いた通りです。
当然、五対二の戦いになるところ、この前田某、臆病風に吹かれたか、それとも何らかの理由でか、今となっては知る由もありませんが、とにかく、そこから離れて、藩邸に戻ってしまった。
急を知って駆けつけた藩士の目に入ったのは、血だらけになって倒れている藤次郎の遺骸だけです。
何故、前田某は無傷なのか。答えは唯一つ。どんな理由があるにせよ、敵に背を向けて、「逃げた」。「士道不覚悟」。
葬式の準備ができ、棺の蓋をするばかりのところに、前田某がやって来る。
その場を仕切っていた若侍の筆頭が、前田某に
「おはんが一番焼香じゃっど」
と告げる。
覚悟を決めた様子の前田某が進み出て、棺を覗き込もうとした瞬間、件の若侍が、抜き打ちに前田の首を刎ねる。
血しぶきと共に前田の首は棺の中に落ち、若侍は平然として
「こいで良か。蓋をせい。葬式じゃ」
とみんなに声をかける。
小説では、この若侍が後の樺山資紀(すけのり)であると書かれています。白洲次郎の妻で、女傑とも言われる白洲正子の祖父です。
何とも烈しいというか、何というか。
こんな人が、いくらでもいたのが薩摩という土地柄であり、また、武士というのは、これくらいは当たり前、ととっていたのだろう、と思わされたものです。
そんな人々が、明治時代、軍人となり、後々までも、帝國軍人、というのはそんな「風」を持っていくことになったのだろう。
そう思っていました。
それから見たら、現代の我々は、恐怖に負けてさっさと逃げてしまった、前田某くらいのものか。
そうも思っていました。
けど、ちょっと待てよ、と思うのです。
葬式の時のことです。
藩邸に逃げ帰った前田某の連絡を聞いたからこそ、藩士連中は駆けつけた。それから、前田は「何故、逃げ帰った」と詮議を受けた筈です。しかし、結論は詮議をせずとも、出ている。
「おはんが一番焼香じゃっど」
と告げられた時、前田某は覚悟をしていた。だから、すぐに進み出た。
つまり、首を刎ねられるのは承知の上だった、ということです。
あの時は逃げた。違うかもしれないけれど、事実は逃げた。
それに対して、今、首を刎ねられることを承知の上で、出て来た。
これが、けじめをつける、ということじゃないでしょうか。
臆病風に吹かれて逃げた、としても、今、理性で、自分の首を持って来た。
それを、樺山資紀も充分に分かっている。だから、首を「刎ねてやる」。
前田某も、これで救われる。
こうやってみると、現代の我々は、前田某にも、遠く及ばないのではないか。みっともない言い訳をして、ひたすら逃げおおせようとするばかり。その場しのぎの小刀細工で何とか誤魔化そうとしている。
いや、「我々」は言い過ぎでしたか。
「現内閣」と、「私」、くらいですかね。
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