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ただの日記

先崎彰容(せんざきあきなか)氏の評論文から

2020年03月04日 | 重箱の隅
2015.01/10 (Sat)

 昨日(2015・1・8)の産経新聞に
 【「戦後日本」を診る 思想家の言葉】
 と題する東日本国際大教授・先崎彰容氏の評論文が載っていました。
 文全体は4ページということなので、例によって私が目を惹かれたところを転載します。
 氏は私が就職したばかりの時、まだ生まれたばかりみたいなものです。そんな人が今、還暦過ぎたおっさんに興味深いことを教えて下さっている。
 いい歳をして恥ずかしいと思う反面、この歳になって思いもよらず学べる、気づかせていただく、というのは何ともうれしいものです。つい、頬が緩んでしまう。「日本人の感性を私は持っている」と実感するからでしょう。

 無駄話はここまでにして、葦津珍彦(あしづうずひこ)氏のことについて書かれた、この評論文から。

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  昭和40年代のことである。一人の在野思想家が時代と格闘していた。
              (略)
 当時、国際社会はアメリカとソ連の二極対立の時代が終わり、第三世界のさまざまな国家が自己主張を始めていた。日本国内でも多くの論客が処方箋を示し、自分こそ正しいのだ、こう主張して群雄割拠していた。

 時は昭和43年の、いわゆる「全共闘革命」前夜だった。網野善彦が、三島由紀夫が、そして橋川文三が、つまりこれまで取りあげてきた思想家たちが、時代を正確に見定めようともがいていた。

 その同じ場所で、葦津珍彦(あしづ・うずひこ)はまなざしを明治にむけ、自分の生きている時代を冷静にとらえようとしていた。
              (略)
 戦後日本を診るためには、葦津にならって戦国時代から明治、さらには昭和までを広く学ぶ必要があるのだ。
              (略)
 たとえば中江兆民と聞いて、人は何をイメージするだろうか。「東洋のルソー」と呼ばれ革命と自由民権を擁護した兆民は、フランス社会思想を紹介した左翼だと思われている。だが一度でよいから、兆民の生涯と著作に接してほしい。すると兆民が頭山満と親交をもち、幸徳秋水を弟子とし、何より西郷隆盛と勝海舟を尊敬していた事実に出くわすではないか。彼が漢文を使いこなし、『孟子』を愛読してやまなかった事実があるではないか。
              (略)
 終戦から70年を迎える今年、本屋を歩いて気づいたことがある。
 それは周辺諸国を批判する本が売れているという事実であり、反原発や東電批判といった分かりやすい権力批判があふれていることだ。前者のアジア批判は「右」に、後者の権力批判はかつての「左」に分けることができる。だがしかし葦津や頭山を参照すれば、そう単純に人間の思想が一つの色に染まるわけがないことに気がつく。彼らに比べ、いまの私たちは、異常なまでに単純化していないか。

 世間が混沌(こんとん)の度合いを深め、世のなかが見えにくくなるほど、出来合いの価値観・世界観に飛びつきたくなる傾向を、私たちはもっている。本屋に渦巻くはげしい言葉のほとんどは、「不安」が原因としか思えない。

              (以下略)

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 昭和43年、「革命前夜の日本」を正確にとらえようとして多くの思想家が悪戦苦闘している中、葦津珍彦は「明治」を見詰めることによって「今」をとらえようとした。
 これ、物差しを明治に置いた、基準を明確にした、ということですよね?これこそが「是々非々の基準を明らかにする」ということなんじゃないでしょうか。

 変動する「今」、だけをいくら凝視したって、「基準」・「物差し」は見つからない。「基準」・「物差し」が見つからなければ、把握すること、括ることはいつまでたってもできない。その都度の己が理解能力の範囲内で浅薄な判断をするだけで、以降の大いなる判断、遠慮を生むことができるでしょうか。
 葦津は「今」を見る(捉える)ために、確定した過去である「明治を見詰める」、という方法を取った。
 意外にやってないことですよ。我々はつい目の前の出来事に心を奪われてしまい、気持ちが揺らいでしまう。
 「こういう時はこんな風にする。先人はこうやっていた」と知る。そして覚え、反芻する。
 これだけだって簡単にはできない。でも、たとえば、警察、消防士、自衛隊、武術等の習い事で、これは当然のこと、必須のことですよね。

 だったら、なぜ、「今」を捉まえようとする思想家、評論家、そして今を生きる我々は「こういう時はこんな風にする。先人はこうやっていた」と知り、覚え、反芻し、習練しようとしないんでしょうか。
 まあ、少なくとも私はそれをしていませんでした。
 だから中江兆民が「頭山満と親交をもち」、「幸徳秋水を弟子とし」、「西郷隆盛と勝海舟を尊敬していた」、などということを全く知らなかった。
 中江兆民の思想を、その背景を全く分かろうともしていなかった。学校の教科書で習った一片の知識だけで、これまで考えることもなく来てしまった。
 その結果、彼の考える「革命」、「自由民権」、の本旨は分からないままだったどころか、とんでもない誤解と浅薄な決めつけをしていたのではないか、いやきっとそうなのだろう、と思い始めています。

 《葦津や頭山を参照すれば、そう単純に人間の思想が一つの色に染まるわけがないことに気がつく。彼らに比べ、いまの私たちは、異常なまでに単純化していないか。》

 「異常なまでの単純化」。
 兆民の交友関係、弟子への影響、尊敬する人物等、思いを馳せるだけでも、浅薄な是々非々には陥らないのではないでしょうか。




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