2013.09/01 (Sun)
ここに至って、「朝鮮出兵の時の云々」という文は、日本の学者、或いは作家が、自身の主観で書いたものだ、と、やっと気が付きました。
主観的な思い遣り、って、単に「悪女の深情け」、ですからね。相手のために良かれと思ってやっていても、ほぼ百パーセント相手を駄目にし、自分も深手を負ってしまう。けど、相手の方も、「これではいけない。これではお互いが駄目になってしまう!」、などと反省する気なんか欠片もなく、為にならない思い遣りに乗じて金をせびり取ろうとするなんてのは、それ以上に最低の国です。
ん?何言ってんだろう。
ま、まあ、少なくともあのままだったら、私は間違いなく日本嫌いになっていたことでしょう、日本人でありながら。
戻ります。
家久は、だからとんでもない猛将だったと言えるでしょう。そのせいか、家来で離反する者も多かったようで、朝鮮出兵時、軍の差配を巡って離反した家来が、朝鮮軍に投降、あろうことかそちらで侍大将みたいな立場になって戦い、日本軍を苦しめた、というような記録もあるそうです。
では強いばかりの、荒くれ者みたいな、どうしようもない人物だったのでしょうか。
全く逆の評価の証拠となるのが、示現流の免許皆伝である、という事実です。
「たかが剣術の免許」、などと学者は思うんでしょうが、家久が真剣に取り組んだ結果、タイ捨流が主流だった島津藩の剣術が、示現流一色に塗り替えられるのです。
・・・なんてことを書くと「うそつけ。示現流以外にもいっぱいあるじゃないか」と言う人があるかもしれません。でも、ホントなんです。県史を見れば分かります。数流しかないんです。鞍馬楊心流とか、影流とか、くらいで、あとはみんな示現流の分かれです。
当然でしょう。殿様が熱心に剣術の稽古をする、なんてのは普通あり得ないことです。それを、一流だけを心底気に入って、城から数百メートル離れたところにある稽古場の声を聞き分け、時に稽古場にやってくる、なんて力の入れようをされれば、示現流一色にならない方がおかしい。
それに加えて、この流は免許皆伝までに長い年月がかかります。藩主と雖も十数年の稽古を真剣にやって来なければ免許とはなりません。実際、免許皆伝となったのは、藩主ではこの家久と、斉興くらいでしょう。
朝鮮での戦いに関しても、いくさのない時は家来をねぎらい、酒宴に遊びに、と随分と気を配っていたそうで、それ故の島津軍の大活躍があったのでしょうが、帰国時も、高野山に参って、戦死者を弔ったりしています。
名君揃いの島津家にあっても、特筆すべき一人ではないかと思います。
さて、そうやって、帰国の途についたのですが、高野山に参った後、後学のために、と、今度は日本海に出て船に乗る。
そして、石見の国、島津屋(しまつや。島津氏とは関係ないようです)の海岸から上陸、徒歩で十里足らずの道を石見銀山に向かいます。
既に秀吉の監視下に置かれていた銀山の採掘状況を見物し、銀山街道を下って、銀の積出港として知られていた沖泊(おきどまり)へ。
沖泊は小さいながらリアス式の良港で、見た目以上の水深があり、外洋船も楽に碇泊できたようです。第三次の元寇に備えて入口に城が築かれたほどの、まるで隠し港のような場所でした。
海にまで伸びた山の尾根が衝立のようになって沖泊を囲う、その尾根の反対側には、これまた狭いウナギの寝床のような細長い土地があり、一番奥まったところに温泉が湧いています。
沖泊から上陸し、衝立のようになった小山を越えて、その温泉場に行き、疲れをとるのが普通に行われていました。
鉄砲傷や矢傷に効くと言われるこの温泉と、沖泊港を併せて江戸時代頃にはこの土地を「温泉津(ゆのつ)」と呼ぶようになっています。
石見銀山を見物に、と言った時点で、これは並みの武将ではないなと思います。
今のように「世界遺産だから見に行こう」、というようなものではありません。
やはり、見聞を広めようという気持ちが見えます。
逆立ちしたって、銀山を領地にできることはないし、銀山に行ったって、何の利益もない。しかし、その採掘精製等に係わる、人の流れを見て置けば、島津氏の領地で何らかの鉱石を採掘する機会があれば、必ず役に立つ。
例によって長々と書いて来ましたが、家久と温泉津の話、なんて、ほんの一言なんですよ、実は。
家久が沖泊 について、温泉津の宿に泊まったその日、宿の主人が「来客がある」と知らせてきた。
「はて、こんなところで自分を尋ねてくる者など居らぬ筈だが」
と訝しく思いながらも、宿の主人に
「通せ」
と言うと、しばらくして満面に笑みを浮かべた立派な身なりの男が数人やって来た。
「実は鹿児島から商用でやって来ていたのですが、殿様がお泊り、とのことで、御挨拶に伺いました」
と言う。
聞くと、みんな鹿児島では名の知られた商人共だった、と。
その情報の早さと確かさに驚いた、という話が記録に残っています。
室町期の、盛んな貿易の様子が垣間見える話でしょう?
海商らしい情報網を持っていて、商人とは言え、気に入らぬ人間なら知らぬ顔を決め込んで、挨拶なんかには絶対に行かない、となってもおかしくないのが当時の大商人。それが打ち揃って、急ぎ、挨拶にやってくる。
ここに至って、「朝鮮出兵の時の云々」という文は、日本の学者、或いは作家が、自身の主観で書いたものだ、と、やっと気が付きました。
主観的な思い遣り、って、単に「悪女の深情け」、ですからね。相手のために良かれと思ってやっていても、ほぼ百パーセント相手を駄目にし、自分も深手を負ってしまう。けど、相手の方も、「これではいけない。これではお互いが駄目になってしまう!」、などと反省する気なんか欠片もなく、為にならない思い遣りに乗じて金をせびり取ろうとするなんてのは、それ以上に最低の国です。
ん?何言ってんだろう。
ま、まあ、少なくともあのままだったら、私は間違いなく日本嫌いになっていたことでしょう、日本人でありながら。
戻ります。
家久は、だからとんでもない猛将だったと言えるでしょう。そのせいか、家来で離反する者も多かったようで、朝鮮出兵時、軍の差配を巡って離反した家来が、朝鮮軍に投降、あろうことかそちらで侍大将みたいな立場になって戦い、日本軍を苦しめた、というような記録もあるそうです。
では強いばかりの、荒くれ者みたいな、どうしようもない人物だったのでしょうか。
全く逆の評価の証拠となるのが、示現流の免許皆伝である、という事実です。
「たかが剣術の免許」、などと学者は思うんでしょうが、家久が真剣に取り組んだ結果、タイ捨流が主流だった島津藩の剣術が、示現流一色に塗り替えられるのです。
・・・なんてことを書くと「うそつけ。示現流以外にもいっぱいあるじゃないか」と言う人があるかもしれません。でも、ホントなんです。県史を見れば分かります。数流しかないんです。鞍馬楊心流とか、影流とか、くらいで、あとはみんな示現流の分かれです。
当然でしょう。殿様が熱心に剣術の稽古をする、なんてのは普通あり得ないことです。それを、一流だけを心底気に入って、城から数百メートル離れたところにある稽古場の声を聞き分け、時に稽古場にやってくる、なんて力の入れようをされれば、示現流一色にならない方がおかしい。
それに加えて、この流は免許皆伝までに長い年月がかかります。藩主と雖も十数年の稽古を真剣にやって来なければ免許とはなりません。実際、免許皆伝となったのは、藩主ではこの家久と、斉興くらいでしょう。
朝鮮での戦いに関しても、いくさのない時は家来をねぎらい、酒宴に遊びに、と随分と気を配っていたそうで、それ故の島津軍の大活躍があったのでしょうが、帰国時も、高野山に参って、戦死者を弔ったりしています。
名君揃いの島津家にあっても、特筆すべき一人ではないかと思います。
さて、そうやって、帰国の途についたのですが、高野山に参った後、後学のために、と、今度は日本海に出て船に乗る。
そして、石見の国、島津屋(しまつや。島津氏とは関係ないようです)の海岸から上陸、徒歩で十里足らずの道を石見銀山に向かいます。
既に秀吉の監視下に置かれていた銀山の採掘状況を見物し、銀山街道を下って、銀の積出港として知られていた沖泊(おきどまり)へ。
沖泊は小さいながらリアス式の良港で、見た目以上の水深があり、外洋船も楽に碇泊できたようです。第三次の元寇に備えて入口に城が築かれたほどの、まるで隠し港のような場所でした。
海にまで伸びた山の尾根が衝立のようになって沖泊を囲う、その尾根の反対側には、これまた狭いウナギの寝床のような細長い土地があり、一番奥まったところに温泉が湧いています。
沖泊から上陸し、衝立のようになった小山を越えて、その温泉場に行き、疲れをとるのが普通に行われていました。
鉄砲傷や矢傷に効くと言われるこの温泉と、沖泊港を併せて江戸時代頃にはこの土地を「温泉津(ゆのつ)」と呼ぶようになっています。
石見銀山を見物に、と言った時点で、これは並みの武将ではないなと思います。
今のように「世界遺産だから見に行こう」、というようなものではありません。
やはり、見聞を広めようという気持ちが見えます。
逆立ちしたって、銀山を領地にできることはないし、銀山に行ったって、何の利益もない。しかし、その採掘精製等に係わる、人の流れを見て置けば、島津氏の領地で何らかの鉱石を採掘する機会があれば、必ず役に立つ。
例によって長々と書いて来ましたが、家久と温泉津の話、なんて、ほんの一言なんですよ、実は。
家久が沖泊 について、温泉津の宿に泊まったその日、宿の主人が「来客がある」と知らせてきた。
「はて、こんなところで自分を尋ねてくる者など居らぬ筈だが」
と訝しく思いながらも、宿の主人に
「通せ」
と言うと、しばらくして満面に笑みを浮かべた立派な身なりの男が数人やって来た。
「実は鹿児島から商用でやって来ていたのですが、殿様がお泊り、とのことで、御挨拶に伺いました」
と言う。
聞くと、みんな鹿児島では名の知られた商人共だった、と。
その情報の早さと確かさに驚いた、という話が記録に残っています。
室町期の、盛んな貿易の様子が垣間見える話でしょう?
海商らしい情報網を持っていて、商人とは言え、気に入らぬ人間なら知らぬ顔を決め込んで、挨拶なんかには絶対に行かない、となってもおかしくないのが当時の大商人。それが打ち揃って、急ぎ、挨拶にやってくる。
・・・なんてのを見ると、「なかなか、・・・だねえ。どちらも」と思いませんか?
附)
温泉津温泉は、傷ついた狸が入っているのを見て、猟師が温泉であることを発見した、と言われています。
日記文中に書いたように、矢傷、鉄砲傷に能く効くということで、霊泉と言われ、一般には「元湯」と称しています。長命館という旅館が湯元になっています。
これと違って、毛利氏が温泉津を支配した時のこと。
まとめを命じられた者(内藤内蔵助?)が毛利氏より与えられた土地に、少量の湯が湧いていました。一族で使うほどしかなかったんですが、明治期、地震の後に湧出量が急激に増え、以降「地震の後の湯」と言う意味で「震湯」と呼ばれるようになりました。「温泉津温泉」と言えば全国で5本の指に入る泉質の良さなんだそうですが、それはこの「震湯」の方だそうです。
附)
温泉津温泉は、傷ついた狸が入っているのを見て、猟師が温泉であることを発見した、と言われています。
日記文中に書いたように、矢傷、鉄砲傷に能く効くということで、霊泉と言われ、一般には「元湯」と称しています。長命館という旅館が湯元になっています。
これと違って、毛利氏が温泉津を支配した時のこと。
まとめを命じられた者(内藤内蔵助?)が毛利氏より与えられた土地に、少量の湯が湧いていました。一族で使うほどしかなかったんですが、明治期、地震の後に湧出量が急激に増え、以降「地震の後の湯」と言う意味で「震湯」と呼ばれるようになりました。「温泉津温泉」と言えば全国で5本の指に入る泉質の良さなんだそうですが、それはこの「震湯」の方だそうです。
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