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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

古代科野国を探る。出速雄命と皆神山(妻女山里山通信)

2012-02-05 | 歴史・地理・雑学
 前回會津比賣命の父、出速雄命に触れたので、出速雄命と皆神山について書いてみようと思います。

 皆神山山頂にある皆神神社は、大国主命の子で諏訪大社の祭神・健御名方命(たけみなかたのみこと)の子・出速雄命(いずはやおのみこと)が祭神で、熊野出速雄神社ともいいます。(本殿は室町時代のもので長野県指定県宝)本来は出速雄神社で、熊野は後でついたものです。
 出速雄神は、貞観二年(860)二月に信濃国従五位下の位を授かっており、斎場山(旧妻女山)の麓にある會津比賣神社の祭神・會津比賣命(あいづひめのみこと)が御子といわれています。會津比賣神は、貞観八年六月に妹の草奈井比売命と共に従四位下を授かっています。
 その後、出速雄神は、貞観十四年(872年)四月に従五位上に、元慶二年(878年)二月に正五位下を授くとなっています。『日本三代實錄』

 出速雄命の父、健御名方命は、大国主命の子ですから出雲系。出速雄の出は、出雲の出。出雲=伊豆毛(日本書紀)=伊都・伊豆志=伊豆。イヅ=厳で、斎み清めること。『古事記』のみに記されている伊邪那岐命の禊(みそぎ)によって生まれた神々のひとり、伊豆能売(いづのめ)神が元でしょうか。伊豆能売を祀る神社は現存しないため「埋没神」ともいわれています。
 会津とは、崇神天皇10年9月9日、崇神天皇の伯父大彦命(おおひこのみこと)を北陸道へ、その子武淳川別命(たけぬなかわ わけのみこと)を東海道へ遣わせた。日本海側を進んだ大彦命は越後から東に折れ、太平洋側を進んだ武淳川別命は南奥から西に折れた。二人の出会った所を相津(會津、会津)という。『日本書紀』
 相津と想定される会津坂下町青津。能登南部からの移住者を想定される弥生時代終末期の男壇遺跡・宮東遺跡があり、亀ヶ森古墳等がある。(会津学研究会サイトより引用)
 この会津と、会津比売命の関係やいかに・・。なぜ父出速雄命は娘に会津比売とつけたのでしょうか。

 皆神山の小丸山古墳が出速雄命の、斎場山古墳が會津比賣命の墳墓ではないかという説があるのです。しかし、古墳様式から推察される年代、及び発掘調査から、古墳は5世紀のものといわれているので、両命の墓ではないかもしれない。あるとすれば、もっと古い年代の前方後円墳などではないでしょうか。古墳の推定年代は、かなり曖昧だと思いますが・・。

 小丸山古墳は、ずっと下って飛鳥時代の第三十四代舒明天皇(在位:629-641)の皇子・古人大兄命(ふるひとおおえのみこと)の墳墓ともいわれており、大化の改新に至る皇位継承争いの末に吉野を逃れてこの地に落ち延び、皆神山を開いたという里俗伝もあります。

 そうなると、積石塚古墳群と同様に古墳時代後期のものということになります。実際は吉野で殺害されたといわれていますが。小丸山古墳の側には、古人大兄命の子の墓といわれる大輪王墳墓があります。古人大兄命は、大化の改新の首謀者?である中大兄皇子(後の天智天皇)の異母兄です。古墳の築造年代とも合致するのでありえない話ではないということになります。ま、火の無い所に煙りはたたない程度の話ですが・・。

 ちなみに皆神神社の祭神は、伊邪那岐尊(いざなきのみこと)、伊邪那美尊(いざなみのみこと)、出速雄命、熊野速玉男命(くまのはやたまおのみこと)、予母都事解之男命(よもつことさかのおみこと)、(配祀神)舒明天皇(じょめいてんのう)、古人大兄命で、まさに皆神様です。熊野信仰は、中世以降に流行り付加されたものです。修験地は主に近くの尼巌山と奇妙山(帰命山・仏師岳)の岩山や岩窟だったと思われます。

 皆神山については、以前も記しましたが、標高659メートルの30~35万年前にできた安山岩質の溶岩ドームです。そして、1965年(昭和40 年)8月3日から約5年半もの間続いた、世界的にも稀な長期間にわたる松代群発地震の震源地のほぼ中心でした。有感地震は6万2826回、あまりに長期に渡ったためノイローゼになる住民も出たほどです。幸い死者は出ませんでしたが、怪我人や家屋の倒壊はありました。近所の古民家の屋根瓦が全て落ちたり、土塀が倒れたりしました。震度5の時に太い梁が抜けて白い部分が見え、あと5センチずれたら家が壊れるという状況がありました。

 私も目撃しましたが、地震時の宏観現象として皆神山や妻女山などの発光現象があり、大きな話題になりました。このような目撃例は安政の大地震など古くから目撃例があり、岩盤の崩壊による放電が原因のようで特に珍しいことではないようです。また、この群発地震で山は1m高くなったということです。

 皆神山付近には低重力域があり、地下には、縦800m、横1500m、高さ200mのマグマ溜りが起源と考えられる空洞があって、地下に巨大な貯水池があると推定されています。皆神山溶岩は150m程度の厚さがあることが確認されていて、その下に湖水堆積物が見つかっています。また、山頂には川の跡の河床礫が見られます。

 つまり溶岩がまだ地上に出る前は、ここは池や川があったということです。地蔵峠から流れ出る蛭川と藤沢川が、現在山のある一帯で合流していたのでしょう。山頂に泉があるのも豊富な地下水脈があるからと理解できます。皆神山を形成した溶岩は極めて粘性が強く噴火したり流れ出したりせずに、そのままプリン状に固まったと考えられています。ピラミッドではありません。

 ノイローゼ患者が出るほど長期に渡った松代群発地震は、最終的に大量の深層地下水湧出という事態になり、火山性群発地震という当初の想定が、水噴火群発地震であったとの考えに変わりました。しかし、最新の学説では地殻の継続的な変形による応力速度の上昇によって説明できることが分かったということです。その群発地震を多感な時期に経験しているため、私は地震に対する備えに人一倍気を使います。

★フォトレポート【清滝から奇妙山へ、まるで修験者のような厳しい山登りの顛末】をご覧ください。

★Youtubeスライドショー
【信州の里山】真夏の尼巌山 Mt.Amakazari at Higashijo in Nagano岩頭からのバーズアイビューが素晴しい。


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コメント (6)
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