山城といっても上杉謙信の春日山城のような居城ではなく、いわゆる詰めの城です。当然天守などはなく、小屋と防御のための柵や堀切などがあっただけでしょう。西側の尾根に幅4m、長さ70mぐらいのU字型の一段下がった帯状の狭長な郭があり、馬場跡ともいわれていますがどうなんでしょう。馬といっても木曽馬や道産子のような日本古来の小型の馬ですが。
鞍骨城は、旧埴科郡の山城の中で最大のものです。本郭は、西辺20m、南辺17m、北辺9.7mの不整方形。西方に16×9mの脇郭、22×12mの副郭、さらにその西に幅9.4×長さ18mの大郭、その西に幅8m×長さ70mの狭長な郭があり、堀切を隔てて平坦部が続きます。本郭の南方に井戸の段郭があり、その下にまた井戸のある8.9m四方の郭があります。その南方に箕状の段郭が階段式に4つ連立しています。本郭の北東には土塁があり、外側は石積みになっています。南面に比べて北面は険しく傾斜が急です。このため南面が大手とされたようです。
この城は、清野氏の要害であったことは間違いありませんが、永正年中(1504-1520)清野山城守勝照の築城説については明証がないようです。信濃の小領主であった清野氏は、村上義清の配下でしたが、天文22年(1553)8月、村上義清が上杉謙信を頼り逃れると、清野氏は、道寿軒と長子清秀が上杉方に、次子信清(清寿軒)は武田方にと、親子兄弟敵味方に分かれて戦いました。
どちらが勝っても一族が生き延びるという苦肉の策でしょうか。たいてい長男と次男は仲が悪く骨肉の争いを繰り広げることが多かったなどという説もありますが・・。その後、清野氏は武田が滅びると豊臣秀吉による国替えで、上杉景勝の会津移封に伴い清野を去ったのです。信濃の小領主たちは、甲越どちらかにつくか、親子兄弟別れるかして、いずれにしても信州先方衆として真っ先に戦わなければならなかったということです。
ところで、戦国時代の戦というのは、足軽や地家人などの領民を食べさせる公共事業のような側面もあったようです。上杉謙信が、冬は関東に攻め入って掠奪し、春に帰郷するというのが一番分かり易い例かもしれません。
戦場の食事は。ひとり一日玄米5合で朝と夜、昼食はなし。出陣の時は白米になり味噌も普段の糠味噌から大豆味噌になったそうです。『訓蒙士業抄』には、「人数10人につき1日米1升、味噌2合、塩1合を用う。1人朝2合5勺、夕2合5勺、中食2合5勺、残り2合5勺は不時の食となすべし」と記されています。まさに腹が減っては戦はできぬというわけです。
実際に戦が始まると自炊どころではないので、携行食が用いられました。米を蒸して日干しにした糒(ほしいい)。米粉、そば粉、豆粉、蜂蜜、酒などを練ってまるめた兵糧丸。生姜、山椒、酒を練り込んだ焼き味噌。梅干の肉だけを干して丸薬にした梅干丸。これらを携行して、沢の水などを飲みながら兵糧丸をかじったりして腹を満たしたわけです。また、山菜や野草、野生動物や蛙や川魚も需要な食料でした。山菜のモミジガサは、別名トウキチロウといいますが、秀吉の好物だったそうです。このように戦は、まさに食うための戦争という側面があったのです。ちょうど戦国時代が地球の寒冷期にあたり、飢饉が続いたということも関係していたのかもしれません。
★Youtubeスライドショー
■【信州の里山】象山-鞍骨山-斎場山 Mt.Kurabone at Kiyono in Nagano
★フォト・レポート
■「冬の鞍骨城跡」
■「花と新緑の鞍骨城跡」
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『日本三代実録』貞観地震の記述:廿六日癸未,陸奧國地大震動,流光如晝隱映.頃之,人民呌呼,伏不能起.或屋仆壓死,或地裂埋殪.馬牛駭奔,或相昇踏.城埻倉庫,門櫓墻壁,頹落顛覆,不知其數.海口哮吼,聲似雷霆,驚濤涌潮,泝漲長.忽至城下,去海數十百里,浩浩不辨其涯涘.原野道路,惣為滄溟,乘船不遑,登山難及,溺死者千許.資產苗稼,殆無孑遺焉.
「貞観11年5月26日、陸奥国(東北地方)で大地震。流光、昼のごとく隠映。人々は泣き叫び、倒れて起き上がれず。ある者は家屋が倒壊して圧死、ある者は裂けた地面に埋もれた。牛馬は驚いて走り出し、足を踏み外した。城郭倉庫など建物の倒壊は数知れず。海は吠え、雷のようだった。長大な驚くべき波が湧き起こり、怒濤のごとく城下に至った。海から数十百里離れた所まで、その果てしなく広大な範囲が波に襲われた。原野も道路もまったく分からなくなった。船に乗って逃げる暇もなく、山に逃げるのも難しかった。溺死者は千人ばかり。資産も苗もほとんど何一つ残らなかった。」
鞍骨城は、旧埴科郡の山城の中で最大のものです。本郭は、西辺20m、南辺17m、北辺9.7mの不整方形。西方に16×9mの脇郭、22×12mの副郭、さらにその西に幅9.4×長さ18mの大郭、その西に幅8m×長さ70mの狭長な郭があり、堀切を隔てて平坦部が続きます。本郭の南方に井戸の段郭があり、その下にまた井戸のある8.9m四方の郭があります。その南方に箕状の段郭が階段式に4つ連立しています。本郭の北東には土塁があり、外側は石積みになっています。南面に比べて北面は険しく傾斜が急です。このため南面が大手とされたようです。
この城は、清野氏の要害であったことは間違いありませんが、永正年中(1504-1520)清野山城守勝照の築城説については明証がないようです。信濃の小領主であった清野氏は、村上義清の配下でしたが、天文22年(1553)8月、村上義清が上杉謙信を頼り逃れると、清野氏は、道寿軒と長子清秀が上杉方に、次子信清(清寿軒)は武田方にと、親子兄弟敵味方に分かれて戦いました。
どちらが勝っても一族が生き延びるという苦肉の策でしょうか。たいてい長男と次男は仲が悪く骨肉の争いを繰り広げることが多かったなどという説もありますが・・。その後、清野氏は武田が滅びると豊臣秀吉による国替えで、上杉景勝の会津移封に伴い清野を去ったのです。信濃の小領主たちは、甲越どちらかにつくか、親子兄弟別れるかして、いずれにしても信州先方衆として真っ先に戦わなければならなかったということです。
ところで、戦国時代の戦というのは、足軽や地家人などの領民を食べさせる公共事業のような側面もあったようです。上杉謙信が、冬は関東に攻め入って掠奪し、春に帰郷するというのが一番分かり易い例かもしれません。
戦場の食事は。ひとり一日玄米5合で朝と夜、昼食はなし。出陣の時は白米になり味噌も普段の糠味噌から大豆味噌になったそうです。『訓蒙士業抄』には、「人数10人につき1日米1升、味噌2合、塩1合を用う。1人朝2合5勺、夕2合5勺、中食2合5勺、残り2合5勺は不時の食となすべし」と記されています。まさに腹が減っては戦はできぬというわけです。
実際に戦が始まると自炊どころではないので、携行食が用いられました。米を蒸して日干しにした糒(ほしいい)。米粉、そば粉、豆粉、蜂蜜、酒などを練ってまるめた兵糧丸。生姜、山椒、酒を練り込んだ焼き味噌。梅干の肉だけを干して丸薬にした梅干丸。これらを携行して、沢の水などを飲みながら兵糧丸をかじったりして腹を満たしたわけです。また、山菜や野草、野生動物や蛙や川魚も需要な食料でした。山菜のモミジガサは、別名トウキチロウといいますが、秀吉の好物だったそうです。このように戦は、まさに食うための戦争という側面があったのです。ちょうど戦国時代が地球の寒冷期にあたり、飢饉が続いたということも関係していたのかもしれません。
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■「冬の鞍骨城跡」
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『日本三代実録』貞観地震の記述:廿六日癸未,陸奧國地大震動,流光如晝隱映.頃之,人民呌呼,伏不能起.或屋仆壓死,或地裂埋殪.馬牛駭奔,或相昇踏.城埻倉庫,門櫓墻壁,頹落顛覆,不知其數.海口哮吼,聲似雷霆,驚濤涌潮,泝漲長.忽至城下,去海數十百里,浩浩不辨其涯涘.原野道路,惣為滄溟,乘船不遑,登山難及,溺死者千許.資產苗稼,殆無孑遺焉.
「貞観11年5月26日、陸奥国(東北地方)で大地震。流光、昼のごとく隠映。人々は泣き叫び、倒れて起き上がれず。ある者は家屋が倒壊して圧死、ある者は裂けた地面に埋もれた。牛馬は驚いて走り出し、足を踏み外した。城郭倉庫など建物の倒壊は数知れず。海は吠え、雷のようだった。長大な驚くべき波が湧き起こり、怒濤のごとく城下に至った。海から数十百里離れた所まで、その果てしなく広大な範囲が波に襲われた。原野も道路もまったく分からなくなった。船に乗って逃げる暇もなく、山に逃げるのも難しかった。溺死者は千人ばかり。資産も苗もほとんど何一つ残らなかった。」