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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

佐久間象山大砲試射地から諏訪立川流山門の興正寺。象山の定宿だった伴月楼へ。象山神社と松代城(妻女山里山通信)

2017-01-04 | 歴史・地理・雑学
 夜に食べるタラバガニ入り「小田巻き蒸し」の用意をささっと済ませてお出かけ。うどんは千曲市のユメセイキの手打ちです。「苧環蒸し」は、「小田巻き蒸し」とも書きますが、うどん入りの茶碗蒸しのことで、大阪の船場あたりでよく食べられていたちょっと豪華な料理です。昔、卵は高級食材だったのですから、その卵をたくさん使う苧環蒸しが高級料理だったのもうなずけます。丼の底で渦を巻くうどんの様子が、紡いだ麻糸を玉のように巻いた苧環(おだまき)に似ていることから「おだまき蒸し」の名がついたといわれています。

(左)最初に向かったのは、千曲市生萱の沢山川辺りにある佐久間象山の大砲試射地。石碑がありますが拓本は禁止されています。(中)拓本。近所の家で買えます。そういうことかい(笑)。(右)これが石碑の文章です。砲弾は屋代の一重山を越えて幕府領の満照寺に着弾とよくいわれていますが、これはでっち上げ。佐久間象山を快く思わない人達が地元の子供に駄賃をあげて実際は一重山手前に着弾したものを運び上げて満照寺に落としたものだそうです。こちらの記事を御覧ください
 全国的には、「さくましょうざん」で通っていると思いますが、地元では「さくまぞうざん」というのが普通です。

(左)中央ちょっと右にある小山が今は一重山(山頂は屋代氏の屋代城跡)なんですが、本来は小島山で本当の一重山はその右にの低いところ。妻女山と同じく国土地理院が勝手に名前を移動したのです。いずれにしても当時の松代藩が試射した大砲の射程距離は2キロぐらいで、一重山を越えることは不可能です。(中)試射地脇の本誓寺橋。本誓寺という寺院は、現在の生萱や倉科にはないのですが、往古にはあったようです。詳しくはリンクの信濃・本誓寺をお読みください。リンクでは、「童子が述べた「西の寺」との言葉と親鸞らが川を渡った位置との関係が問題になるが」と書かれていますが、当時の千曲川の流路は現在と全く異なるものだったので整合性はあると思われます。ちなみに現在の一重山の南側(写真左)はえぐれていますが、これは砕石業者が山を取り崩したのです。空堀など城跡の遺構が失われたといいます。森将軍塚古墳もそうですが、昭和の乱開発の犠牲になったのです。斎場山も旧更埴市時代に地権者に無断で林道を造っています。
(中)本誓寺橋。(右)ジャコウアゲハを守る会の看板。アゲハモドキ(擬鳳蝶蛾)というジャコウアゲハにそっくりな蛾がいます。

(左)次はあんずの里森の母方の祖母が眠る大城山興正寺へ。(中)本堂の内部。(右)ここの山門には、天才と呼ばれた諏訪立川流の和四郎富昌の子持ち龍の木彫があります。当時彼は八幡の武水別神社の再建中でした。そこで、森出身の弟子・宮尾八百重を案内役に住職、世話人、名主らが建築現場に赴き建築を依頼。引き受けた富昌は三月頃から、父富棟が寛政二年(1789)に建築した善光寺大勧進の表御門形式を参考に絵図面を制作。四月には八百重の家に投宿し近くの薬師山に登って酒宴を催し、満開の杏花を愛でたといわれています。夜は篝火の下で鼓を鳴らし謡曲の「鞍馬天狗」を吟じ、見事な龍を描き上げ、村人や近郷近在の話題をさらい、村では日本一の宮大工が来たと喜んだそうです。興正寺は、浄土宗西京大谷知恩院の末派で、創立年は不詳。
 実は友人に宮彫りの研究家がいるのですが、彼をこの世界に引きずり込んだのが私で、その原点がこの木彫なのです。彼の『北信濃寺社彫刻と宮彫師』のブログの2016年12月23日の記事に、この山門が詳しく紹介されています。ぜひ御覧ください。

 子持ち龍。和四郎富昌の作品は、京都御所の建春門の「蟇股(かえるまた)の龍」、遠州の「秋葉神社」、諏訪の「諏訪大社下社拝殿」、善光寺大勧進御用門「江梁の龍」、松代町西条の白鳥神社の「神馬」などがあります。また、同市屋代の須々岐水神社、土口の古大穴神社にも富昌の作があります。左右にある波の彫刻は、葛飾北斎の影響を受けたものともいわれていますが見事です。

 非常に迫力があります。また透かし彫りも見事です。この近くの岡地地区の天満宮には、幻の善光寺五重塔建立のための試作品とされる名工・立川和四郎富棟作の「惣金厨子」がありますが、結局、善光寺五重塔は、江戸幕府の許可が降りずに建てられることはありませんでした。その前の唐獅子は富昌の作です。(出典:生前伯父が執筆した『岡地探訪乙路の県天満大自在天神とその周辺』岡地天満宮刊より)

(左・中)精緻な木彫は必見です。(右)「旧阿吽(あうん)獅子」嘉永四年 尾張なんとかと書いてある瓦。これも見事なものです。

 冬景色だけではなんなので、昨年の4月に杏が満開だった時の興正寺裏から見たあんずの里の風景です。桃源郷ならぬ杏源郷です。春が待ち遠しい信州ですが、本格的な冬はこれからです。

 最後は、佐野川温泉竹林の湯へ向かいましたが、その隣りにある佐久間象山が定宿としたという伴月楼記念館へ。実は一般住宅なので現在は閉館中。外観だけを撮影させていただきました。「(伴月楼)記念館百話」 ~関家が伝える逸話~
 撮影後温泉に入り温まって帰宅しました。

(左)佐久間象山といえばやはり象山神社。仕事始めの方も多く、社員総出でお参りの会社も。下乗とは馬や車を降りてということです。学問の神様として受験生に人気があります。象山の正室は門弟勝海舟の妹順子ですが子がなく、嫡子は側室お菊の生んだ恪二郎です。象山の敵を討つべく新撰組に入りましたが、生来のわがままで役立たず、後に司法省に入りましたが、食中毒で29歳で亡くなっています。象山はケツがでかい女がいいと言っていたそうですが、勝海舟の娘はたぶんそうだったのでしょうね。でも子ができませんでした。多産とお尻の大きさは無関係です。(中)佐久間象山が安政元年(1854年)から約10年間の蟄居中に住んでいた松代藩家老望月主水の下屋敷聚遠楼の敷地内にあった建物。来客があるとこの2階に招き、応対したそうです。中岡慎太郎や高杉晋作も訪れています。(右)心の池。この向こう側の小径を行くと象山の生家跡。

(左)生家跡の片隅にある煙雨亭は、象山が元治元年、凶刃に倒れるまでの2ヶ月間を過ごした煙雨楼の遺構で、 煙雨楼の茶室を移築したもの。煙雨楼は2階家で京都木屋町の鴨川畔にあったそうです。(中)神社右手の泉水路。各家々の庭をつないでいるものもあります。黒澤明監督の『椿三十郎』を思い出します。
城下町松代(殿 町地区)に おいて江戸時代に造られた 泉水路の形成過程とその用途
庭園都市松代の推進 - NPO法人夢空間松代のまちと心を育てる会
(右)近くの象山記念館にある写真。小学校の家庭科室に大きな肖像画がありましたが、どこか日本人離れした風貌ですね。電気治療器は妻で試したとか。最初の携帯電話も展示されています。ペリー来襲の時に松代藩は横浜の警護を命じられ、象山は横浜に赴きます。彼の活躍には時の松代城主・真田幸貫の力もあります。
 象山は儒学者・科学者・医者・砲術家で、日本最初の電信実験をし、地震計、医療器、写真機など数多くの科学実験をしました。その多彩な才能には驚かされますが、それ以上に、世界的な視野から日本の行く末を見つめる視点を持っていたことに驚かされます。後に勝海舟にまでほら吹きなどといわれましたが、結局鎖国が続いた後の日本では、彼の才能と見識を真に理解できる人は誰もいなかったのでしょう。ただ、そんな象山も、明治維新が英仏金融勢力による日本隷属を企て、明治維新は結局彼らが薩長の田舎侍を利用したクーデターになるとは、想像もできなかったのではないでしょうか。
 今回初詣に訪れた神社には、憲法改正のビラやアンケートは一切なかった。しかしお賽銭の一部が悪名高き神社本庁に上納されることはあるのだろうか。賽銭は松代藩の六文銭にちなんで五円玉6個で30円と決めているのですが…。

(左)続いて『真田丸』で訪問者が激増した真田信之の松代城。太鼓門。(中)櫓台。(右)櫓台から東北東を見るとモーニング娘。17の羽賀朱音ちゃんが通った松代中学。私の母校でもあります。サッカー小僧で、編集委員長でした。校章は真田の結び雁金です。
真田十万国「松代城(海津城)」の歴史 その1(妻女山里山通信)
真田十万国「松代城(海津城)」の歴史 その2(妻女山里山通信)

 櫓台の北西にある絵図。二の丸北西の土塁上にあった「知身貴亭」という茶室から松代の北部を望んだ風景です。19世紀中頃に描かれたものだそうです。左から北アルプス、虫倉山、陣場平山、富士ノ塔山と続き、右へ戸隠連峰、戸隠富士と呼ばれる高妻山。一番右に長野市民の山、飯縄権現が祀られる飯縄山。そして手前には千曲川が描かれています。

 復元された太鼓橋と太鼓門越しに見る斎場山(旧妻女山)。上杉謙信が本陣としたと伝わる山頂で、円墳です。展望台のある現在の妻女山は、本来は赤坂山で、柳の木の向こう辺りです。お堀の水は少なめで、鴨が悠々と泳いでいました。

(左)最後は2012年に廃線になった長野電鉄屋代線の松代駅。中学生の時はこれで通いました。サッカー部の練習が終わって帰る際に空腹に絶えきれず、駅前の母の同級生がやっていたラーメン屋に先生の目を盗んで飛び込んだものです。(中)駅の内部。昔は壁の上部に松代映画館で上映のポスターが貼られていました。石原裕次郎とか清水の次郎長とか。ちょっとエッチなポスターの時には、出会った先生に見るなとか言われました。(右)切符は硬券でした。廃線になる直前は、全国から鉄道マニアが訪れました。線路跡はサイクリングロードとして復活します。このサイクリングロードを起点として里山トレッキングや山城、古墳巡りもできそうです。そんな本を作りたいですね。正月には、このコースを走っている女性もいました。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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