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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

「自然へのまなざし 〜江戸時代の自然観〜」川中島古戦場の長野市立博物館へ。戌の満水と善光寺地震(妻女山里山通信)

2023-10-28 | 歴史・地理・雑学
「江戸時代は、西洋科学の影響を受けて、自然の見方や世界観が変わっていく時期です。西洋からの技術や知識の影響により、自然の描写は写実的になり、宇宙観や自然観も大きく変化しました。」とパンフレットにあります。入館料は常設展と合わせて300円。11月3日は無料です。常設展の川中島の戦いの展示や動画が人気で県外者も多く訪れます。

 こじんまりとした展示ですが、なかなか充実した内容でした。撮影禁止以外は撮影が可能です。

「旧松代藩領明細地図」信濃教育会蔵。上が南です。割りと正確な絵図なので、地名を入れてみました。妻女山と記してあるのは展望台のある現在の妻女山(旧赤坂山)ではなく旧妻女山で本名は斎場山です。上杉謙信公御床几場と書いてあります。川中島の戦いの本陣ということです。旧松代藩領ということから明治時代に作られたものでしょう。松代城内は更地になっています。

 現在の川中島は、集落や街が連続していて境界が分かりづらいのですが、当時ははっきりと分かります。赤い線は道路ですが、山の周囲や川沿いに引かれた黒い直線はなんでしょう。測量のポイントでしょうか。左上に丸く描かれた皆神山。その下に尼厳山(あまかざりやま)。灰色に描かれた旧千曲川の河道が松代城のすぐ脇を流れていたことが分かります。戌の満水の時に殿様が船で逃げたという話も納得できます。

 寛保2年(1742)の戌の満水の被害を記した絵図。上が北です。濃いグレーに白い点々があるところが、洪水や山崩れの被害が出た場所です。被害の大きさが痛いほど分かります。善光寺と松代の文字は読めると思います。上が犀川、下が千曲川。新潟に入ると信濃川になります。

 妻女山付近の被害の様子。岩野村では村人の約3分の1にあたる160人(男58人、女102人、馬2頭)が亡くなり、家屋144戸が流出という未曾有の被害を出しました。松代藩最大の犠牲者を出したのです。我が一族も二人が犠牲になり、助かった娘が岸に上がると着物のたもとの中に蛇がたくさん入っていたという話が残っています。この絵図は左が北、右が南、上が東、下が西です。
信州『松代里めぐり 清野』発刊と戌の満水など千曲川洪水の歴史(妻女山里山通信)

「於桜村土肥坂望*鑪村震災山崩跡之図」(長野市芋井)。松代藩の御抱絵師、青木雪卿(せっけい)重明(1803享和3〜1903明治36/1804〜1901の説も)の絵。雪卿は、松代藩が壊滅的な被害を受けた弘化4年(1847)に起きた善光寺地震から3年後の嘉永3年(1850)、藩主真田幸貫公(感応公)の藩内巡視に同行し、120日間をかけて「伊折(よーり)村太田組震災山崩れ跡の図」(真田宝物館蔵)などを描き上げました。雪卿は我が家の近所にあり名主をやった先祖とは幼馴染で親友だったそうです。虫倉山は、上部が硬い凝灰角礫岩(荒倉山火砕岩層)で、下部が柔らかい砂岩など。その境界部辺りの岩石が大崩落し、大田の集落を全滅させました。
*鑪村はたたらむらと読むのですが、この村はたたら製鉄と関係があったのでしょう。鑪(たたら・ろ)。

「鑪村震災大岩崩跡之図」(長野市芋井)あちこちで山体崩壊が起きた様です。善光寺地震では死者総数8,600人強、全壊家屋21,000軒、焼失家屋は約3,400軒を数えました。折しも善光寺御開帳の真っ最中で死者が増えました。参拝者の生存率は1割ぐらいとか。松代藩の立てた慰霊碑が、妻女山展望台の裏にあります。
青木雪卿が描いた善光寺地震絵図 現在との対比:現在の場所の写真との対比が凄い。雪卿の正確な描写が光ります。

「須弥山儀」嘉永3年(1850)田中久重作。世界は須弥山を中心に広がっているという古代インドの宇宙観が仏教とともに伝来。太陽と月が時計仕掛けで動くようになっています。北信五岳の妙高山はそれが元の命名です。

 伊能忠敬と交流があったという三重県津市稲垣家の定穀作の「地球儀」。オランダ製の地図を参考に製作したと考えられていますが、当時はもっと正確な世界地図があったので、かなりいい加減な地図しかなかったのでしょう。

「天球図」司馬江漢作。天の赤道の北側と南側の星図が描かれています。中国星座の上に西洋星座が描かれている珍しい天球図です。それぞれが何座か分かるでしょうか。

「北斎漫画」。観察力と描写力が凄い。小布施の北斎館は何度も訪れてブログ記事にもしていますがおすすめです。

「異国写鳥図」。孔雀。技法的に稚拙だなと思ったら、これは写本で、元になった絵がある様です。

 明治40年(1907)に牧野富太郎氏が贈呈した「草木図説」。

「人面魚の図」。文化2年(1805)に越中国(富山県)に出現したという人面魚。各地に瓦版や古文書が残っているそうです。ここには人面魚を殺したために金沢城下に火事が出たと伝えています。実際はなんだったのでしょう。左に書いてあるサイズを見るとかなり大きい。

「百鬼夜行絵巻」。夜更けに京の大路を異形のものが練り歩く様。後の水木しげるの「妖怪事典」に通じるものがあります。

「羽毛図巻」。松代藩の御抱絵師である山田島寅(とういん)作。狩野派の系譜なのでしょうか。見事な作品です。

 特別展の後で以前紹介した常設展を観て出ました。川中島古戦場公園(八幡原)は紅葉が美しい。古戦場祭りが開催中で週末には花火大会も。この先に駐車場や土産物屋、蕎麦屋などがあります。なんだか八幡原というより、美大生時代に訪れたパリのブローニュの森みたいだなと思いながら歩きました。

 八幡社の前にある武田信玄と上杉謙信一騎打ちの像。限りなく江戸時代に作られた物語なのでしょうけど、庶民の旅が盛んになり始めた江戸時代中期以降では、善光寺参りの土産物として川中島合戦絵図がたくさん作られ人気だった様です。ちなみに祖先は真田昌幸に仕えた足軽大将で、その長男は真田信繁(幸村)の影武者の一人で大阪夏の陣で討ち死に。もう一人、武田四天王のひとりの山縣三郎の家来で桔梗ヶ原の戦いで手柄を立てて感状と褒美をもらったものが。さらにずっと前に敵方の上杉方の小笠原長時に仕えて武田軍に敗退し村上義清の系統の清野氏を頼って妻女山の麓に定着したものがいます。詳細は不明ですが、戦国時代を生き延びるというのは非常に大変だったことが分かります。

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『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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