私のような年寄りが「昔は良かった」といえばまた反発が出そうですが、最近の家庭内殺傷事件や「誰でも良かった」通り魔事件、大量解雇など最近になって初めての経験です。
その時、知恩院から法然上人からのメッセージとして、「人は独りではないのです」と言う新聞に前面広告が出ました。
それで前々から考えていた劣化する社会と宗教の責任について書いて見様と思いました。
何しろテーマが大き過ぎるのことを、普通のおっさんが書くのですから、書き洩らしや、勘違いも多いと思いますが、あらがじめご了承下さい。
[戦前から戦後直後までの宗教、社会での考え方や家庭での教え]
・仏教がまだ盛んで多くの信者たちがそれを支えていた
・神道は八百万の神で知られるように、自然崇拝、その祟りを無くしその加護を仰ぐため伝統行事の継続が中心
現人神とされた天皇が日本の精神的支柱とされた
神道に基づく皇室を総本家とする家族と言う考え、企業の家族主義的経営
「八紘一宇」(皇室を中心とする世界は一家と称された)の名で軍隊の海外進出のキャッチコピーにされた
・儒教の影響:教育勅語、武士道に象徴される考え方
・宗教観、価値観から生れた社会や家庭での教え
「他人は知らなくて天は知っている」→「悪い事をすれば地獄へ行く」
「自分だけで生きているのではない社会で生かされている」→「他人様に迷惑を掛けてはいけない」、「企業は社会のためにある」
「人は万物に生かされている」→「物を粗末にすると罰が当たる」、「勿体ない」
・教育:教育勅語の浸透、修身、歴史による日本の国の素晴らしさ浸透
[占領軍のやったこと]
・神道(その後復活を認めた)、武士道、教育勅語の禁止、歴史、地理、修身の授業の禁止
・平和憲法の半強制的に施行
・東京裁判に象徴される日本は悪い国と言う洗脳の一方で、戦勝国の戦争犯罪を隠す
[占領後の日本の状況]
・天皇が現人神でなくて人間に戻る→天皇を精神的支柱としていた一部の人達にとってその支柱がなくなる
・仏教の急激な衰退
・日本の精神的なよりどころの消失→代って現れたのが日本国憲法
日本国憲法の教義?が宗教にとって代わる状態になる?
人権、国民主権尊重を中心とする権利の重視の一方でそれに伴う義務・責任に就いては僅か触れただけ、自由主義、平等、平和主義(戦争放棄)
・教育:権利重視、個性尊重、義務・責任軽視、自由、平等、平和教育の実施
その弊害はネット上で多く書かれていることです。
・世代交代に伴い宗教観から来る前述の様な社会や家庭での言い伝えてきた考え方や教えが消えてくる
[米国、日本の責任]
占領軍が日本のためと言うより米国のための施策を行い、憲法を作るのは当然です。
問題は日本が独立国になってからそれをどのように修正するかは日本自身の責任です。
その一つに宗教の問題があります。
米国の憲法の背景には、未だに残る強いキリスト教の文明があり、フロンティア・スピリットと言う自主独立の考え方があります。
米国が日本国憲法を作らせましたが、神道、武士道は禁止しました。
そして日本人の大多数が信仰していた仏教の急激の衰退を意識的または無意識きか判りませんが無視してしまいました。
今の日本は歴史と同じように、定番となる道徳上の規範もなく浮遊状態で、社会が荒れたり劣化するのは当然のような気がします。
[仏教の責任]
仏教の衰退は、今まで日本を支えてきた精神文明に代わり物質文明が入ってきたのに、それに対応する教え方を変えねばならなかったのにそのまま放置して終い、時流から取り残されてしまったことにあると思います。
・誰でも考えつく事はチンプンカンプンのお経の日本語訳が出来なかったことです。
・それと死後の世界の地獄・極楽の考えを理屈っぽくなった大衆に納得行くような教義に沿った教えからすべきだったのです。
・それともう一つは信者の減少に備えて、そして社会の劣化を防ぐためにお寺から街に乗り出してその教えを広めることです。
その様な動きはお寺のなかには或いはあったこも知れませんが、それが全くといって良い程外の世界の人達には判らないままです。
[今の寺のやっていること]
仏教は葬式仏教と揶揄され、葬式のときの御布施のぶったくり?や、お寺の修理のための寄付依頼など、残り少ない信者さえ減るばかりです。
私は御布施などは、私が子供時代に経験したお寺での説教、日曜学校や、そのずっと以前の辻説法、貧者たちへ支援など(現在で言えば大量離職者の支援など)普段の社会活動へのお礼を何かことあるときに、お布施として出すものだと思います。
そう考えるしか通夜と葬式で1~2人のお坊さんが出るだけで、ネットで調べたのですが、「戒名料も込みで全国平均の寺院への支払額は53万円ほどの金」をを払う理由などないと思うのです。
[これからの仏教など宗教団体にに願うこと]
そんなときに浄土宗から「法然上人800年大遠忌」を記念して前面広告が出されました。
文面では、
大きな大きな壁にぶちあたったとき、誰かに出会い解決したという経験はありませんか。私たちはみんなひとりで生きているのではありません。
「自分独りだけ」ということは絶対にありません。
お互いに助け合って、自分の縁のあるところで、人のために行うことが自分自身を高めていく助けになるのです。
人は「独り」ではないのです。
と仏教の考えを訴えています。
これこそ私が待ち望んでいるお寺の姿です。
他の宗派の人達も浄土宗の知恩院に負けず、積極的に外に出て大衆に訴えてはどうでしょう。
そしてそれに対する一般の人達の意見も訊いて見てそれが良ければ取り上げることです。
こののようなお寺の社会活動の動きに対して積極的に応えようとしている隠れボランティアの人も多くいると思います。
そうすればいきなりみみっちい話になりますが、御布施や寄付も喜んで出す様になると思います。
宗教団体が外に出て活動することは日本の為にも団体自身のためにもなると思うのですが。
実は、靖国合祀訴訟、遺族の取り消し請求を棄却…大阪地裁の問題で真宗のお坊さんが絡んでいることにも触れたかったのですが長くなりすぎますので省略します。
一言だけそのお坊さんに言いたいのは、その心情も判りますが、「今のような混乱した世でお坊さんとして、もっと他にやらねばならぬことがあるのではないか」ということです。
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