南部出身の女流作家カーソン・マッカラーズの中編小説「悲しき酒場の唄」が昨年映画化され、日本でも五月から東京六本木シネ・ヴィヴァンにて単館ながらロードショー公開されている。自分の愛読書がひょっこり映画になるなんて、まったく妙な気分だ。その映画化作品を観る前(まさに直前)に原作についてもう一度考察し、それからじっくりと映画の感想を書いてみたい。
僕の手元にある「悲しき酒場の唄」の邦訳は五種類。
①南雲堂双書20世紀の珠玉11「悲しい酒場の唄/緑のカーテン」荻野目博道訳。南部出身の女流作家ユードラ・ウエルティの短編集とのカップリング。
②英宝社英米名作ライブラリー「哀れなカフェの物語/サラサの靴」山下修訳。自然主義作家ジェイムズ・ファレルの短編集とのカップリング。
③主婦の友社キリスト文学の世界21「パール・バック/フラナリー・オコナー/マッカラーズ」渥美昭夫訳。マッカラーズの作品は「哀しい酒場の唄」と短編「流浪の人」が収録されている。
④筑摩書房世界文学大系87「名作集2/ナサニエル・ウエスト、マッカラーズ他」尾上政次訳。モンティ・クリフトで映画化された(日本未公開)ウエストの「孤独な娘」をも収録した貴重本だ。
⑤白水社「悲しき酒場の唄」西田実訳。はじめ「世界の文学」シリーズ中の一冊として出版されたがまもなく絶版、一昨年東京ブック・フェアを記念して復刊された。さらに映画の公開に合わせてUブックス化されている。
「悲しき酒場の唄」を読んでいつも思うのは、フォークナーの傑作短編「エミリーのバラ」との類似だ。
*生涯たった一度の愛
*捨てられてなお生き続ける誇り高い女
*グロテスクな愛の形
*ファーザー・コンプレックス
ここではくどくどと書かず箇条書きにとどめるが、もう一つ注目したいのは、この二作品の語り口調(あるいはトーン)が、「人々の間で語り伝えられてはいるが、本当にあったかどうか疑わしい古い物語」-まさに“バラード”のスタイルをとっていることだ。登場人物を突き放して、遠くからその行動だけを眺めているような印象。
ピアニスト志望だったマッカラーズは処女作「心は孤独な狩人」を、フーガ形式を取り入れて書き上げている。そしてそれを黒人作家リチャード・ライトは「白人が黒人のキャラクターを自然に楽々と的確に扱っている初めての作品」と絶賛した。そんな彼女が今度は幼少から身近なものだった黒人霊歌やカントリー・ブルース、バラードを作品の中に取り込んだとしても全く不思議はないだろう。
やぶにらみで6フィート2インチの大女ミス・アメリア、彼女の前夫で冷たい仕打ちへの復讐のため町に帰ってきた美男の前科者マーヴィン・メイシー、突然町へ現れミス・アメリアの愛を獲得していたがマーヴィンに心を奪われてしまう年齢不詳のせむしの従兄ライモン-この三人が織りなす奇妙な愛憎劇。「恋のトライアングル」、「三角関係」という言葉はよく使うが、この三人の関係は「愛のいたちごっこ」とでも言ったらいいのだろうか、小さな円の中をぐるぐる回っていて、誰の愛も決して報われないのだ。
「まず、愛とは二人の人間の共同の体験である。と、言っても、その二人にとって同じ体験だということにはならない。愛する者と愛される者、この二人は別の世界に住んでいて-」作品の中で披露される奇妙でやや神経症的な愛情観は、同じ男性と二度結婚・離婚した挙げ句相手に自殺されたマッカラーズの苦い実体験によって形成されたものなのか、それとも神童と呼ばれた文学少女時代から抱いていたものなのか。ここ一つとっても、(月並みな言い方だが、)読めば読むほど考えさせられる小説だ。
※
映画の感想は結論から書くと、良心的とも言えるほど丁寧な映画化で、出来も良いのだけれど、やはりダイジェスト版、という感は拭えなかった。原作を隅から隅まで熟読しているため、観方がどうしても厳しくなってしまう。上映時間や映像化の限界などの制約があるのは十分分かっているのに、ああ、ここはもっと強調して欲しかった(もったいない)、と再三思った。
それから、原作にある一種魔的なものが欠けていた。映画でそれが一瞬、チラリと見えたのはラストもラスト、マーヴィン・メイシーが従兄ライモンとともにミス・アメリアの酒造装置に火を放ち、紅蓮の炎をバックにはしゃいでいる逆光気味のシーンだった。
ミス・アメリアを演じているヴァネッサ・レッドグレーヴは「裸足のイザドラ」、「ジュリア」などの名女優だが、当年55歳で少し老け過ぎ。無理があった。それに彼女の好演によってミス・アメリアのキャラクターが人間味を持ってしまい、原作との微妙なニュアンスの違いが生じている。乱暴に言うと-人間味ある彼女にある程度感情移入した観客はもはや登場人物三人を平等に、突き放しては見れなくなるだろう。ライモンを演じた俳優も同様の意味でうま過ぎた。
一方キース・キャラダインはマーヴィン・メイシーを見事に体現していた。採算度外視の芸術家肌の監督やヨーロッパの監督の作品に出演している、通好みの俳優。シンガー・ソングライターとして二枚のアルバムをリリースしており、歌手を演じた「ナッシュビル」では劇中使われた自作曲がアカデミー賞に輝いている。このほかにも歌手役の映画は多いが、とりわけナスターシャ・キンスキー主演の「マリアの恋人」の彼は素晴らしかった。
(パンフレットにも転載されているが、)「マリ・クレール」六月号にキャラダインのインタビューが掲載されていた。この映画で彼は音楽を共同で担当しており、自作曲-ボトル・ネックのスライド・ギターがきいたセクシャルな歌詞のブルース「スウィート・ピーチズ」を披露するのだが、それについて面白いことを言っている。
「ほら、あの時代の刑務所はたぶん黒人と一緒だったろうし、彼らのブルース、デルタ・ブルースに(マーヴィンが)影響されたんじゃないか、と。で、音楽担当のディックと二人でロバート・ジョンソンに代表される古典的スライド・ギターの音楽を聴きまくって曲を作っていったんだ。」
たしかに、悪魔に魂を売ったブルースマン、ロバート・ジョンソンばりのカッコいい曲だった。良い映画は細部までゆるがせにしない作り手のこういう熱意に支えられているのだ。
赤いシャツを着た6フィート1インチの伊達男マーヴィン・メイシー。彼の歌に関する原作の記述はこんな風だ。
「マーヴィンはたいてい椅子の横に置いてあるギターを取り上げて歌う。彼の声は、ねっとりとした感じで、唾がたまっているときのようだった。歌はウナギのように、喉からヌラリヌラリと流れ出ていた。たくましい指で巧みに弦を掻き鳴らしながら、歌は心を誘うようでもあり、心を掻きむしるようでもあった。」
映画のオープニング・シーンは、白い花が咲き乱れる広大な綿花畑。それから炎天下のほこりっぽい街道をゆっくりカメラが移動して行くと、十二人の鎖につながれた囚人[チェイン・ギャング]がうなるように合唱しながらつるはしを振るっている。カメラは彼らの横を通り抜け、舞台となる、名もない小さな町へとたどり着く。ラストはこの逆。原作を忠実に映像化したこのシーンは同時に「昔々あるところに-」という昔語り、バラードのスタイルをも実にうまく表していた。
パンフレットが質量ともに充実しており、これまで日本語で書かれたマッカラーズに関する文章の総計に匹敵すると言っても過言でない。こういうのって、まさに映画の“恩恵”だ。
(1992年5月)