「剃刀(かみそり)の刃」(1984年)は、サマーセット・モームの最晩年の長編小説の二度目の映画化作品である。
第一次大戦後のアメリカ。復員兵ラリーはイザベルという幼なじみの美少女を愛していたが、復員後の懐疑と無為な精神状態が結婚の約束をためらわせるのだった。
友人のグレイが、父親の経営する証券会社へ就職を世話してくれたのにラリーは断わる。イザベルの伯父エリオット・テンプルトンもラリーを世に出そうとするが、社交界に出没する大俗物にラリーはなじもうとはしなかった。
意を決したラリーは精神の年期奉公にパリへと向かう。
イザベルと結婚したグレイは青年実業家に成長、いずれは大資産家になるはずだったが、大恐慌は彼に現世の無常を与えた。
パリの上流社会に暮らすエリオットは、無一文になった姪夫妻に自分のアパートメントを提供する。
悪夢の体験はグレイを頭痛持ちの廃人にした。
久々にパリで再会したラリーはグレイの頭痛を奇妙な暗示力で静めてしまった。
そして「全能の神はなぜ悪を作り人間を苦しめるのか」と、この答えを求めてインドに渡り、ヒマラヤの奥地で修行したと語る。
ある日ラリーとグレイ夫妻は場末の酒場で、夫と子供を交通事故でなくしたショックから倫落した幼なじみのソフィーに出会う。ラリーは彼女を立ち直らせ、結婚を宣言するが、嫉妬したイザベルの工作でソフィーは失踪、のちに他殺死体で発見される。
財産をすべて処分したラリーは十数年振りに祖国アメリカへ帰って行く-。
粗筋を書くつもりが長くなった。1944年に出版され、とりわけ太平洋とヨーロッパの二方面の戦争に参戦・遂行中だったアメリカの青年たちの間に驚異的な反響を呼んだという。確かにこの物語はタイムリーというか、戦争という圧倒的に大きな運命のうねりの中で揺れる若者の心の琴線に触れる部分がある。
けれども欠点もまた沢山ある。まず第一にインド神秘思想に対して欧米人が受けたであろう感銘は東洋人である僕らにはない。欧米人がガウンがわりにキモノを得意げに着たりといった、本当によく見かけるオリエンタル・ムード礼賛と基本的に変わりないように思える。
また狂言回しとしてモーム本人が登場し、彼の目を通してのみ登場人物が描写されるスタイルはテーマがテーマだけにアンフェアというかごまかしとさえとれなくないし、作品の構成自体も散漫で間延びしている。いや、主人公ラリーの性格からして意外と散漫である。
ひょっとするとテーマが大き過ぎたのかもしれない、文豪モームですら手に余るほど。
テレサ・ラッセルがソフィーを演じたリメイク版はラリーに喜劇俳優ビル・マーレイ、グレイにジェームズ・キーチ、エリオットにデンホルム・エリオットと、異色(かつ地味)だが妙にはまったキャスティングである。
映画化に際してソフィーを冒頭から登場させ、幼なじみカップル2組の長い愛憎といった趣向を盛り込んでいる。
そのためラリーの魂の遍歴はかなりはしょられていて、いきなり雪の山上でドラマティックに悟りをひらいてしまったのには驚かされた。陳腐である。それと、イザベルがヒステリックで冴えないのが残念。
最初の映画化は46年。ラリーにタイロン・パワー、イザベルに佳人ジーン・ティアニー、ソフィーはアン・バクスター。バクスターはこれでアカデミー助演女優賞を獲得している。
DVD化もされているのでぜひ観比べていただきたい。
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