電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

宮城谷昌光『沙中の回廊(下)』を読む

2010年01月08日 06時19分57秒 | -宮城谷昌光
ぎっくり腰療養読書記録の続きです(^o^;)>poripori
文春文庫で、宮城谷昌光著『沙中の回廊』下巻を読みました。

「余炎」
晋の襄王が若くして亡くなると、例によって後継争いが起こります。襄公の子はまだ幼く、文公の子を擁立しようというのですが、有力大夫の中で仲の悪い趙盾と孤射姑とがそれぞれ公子雍と公子楽を推す、という具合です。士会は趙盾の命により、先蔑とともに秦に公子雍を迎えにいくことになります。しかし、秦に滞在する間に、晋国内では権力闘争が起こり、趙盾が権力を確保します。
ところが後継問題は別の展開を見せ、襄公の幼君を立てようと、生母が大夫たちに泣き落としに回っているのです。趙盾は結局方針を一転させ、公子雍ではなく幼君(霊公)を立てることにします。
でも、それでは士会の立場がありません。士会は晋を去り、秦に亡命します。不遇の公子雍は、わずかに慰められます。士会は、郤缺の助けで家族を秦に呼び寄せることができました。また、秦の康公に戦略眼を高く評価され、秦の軍事顧問になります。

「惜暮」
士会の助言をもとに、秦の康公は晋の邑を取りますが、それは秦が当方に足掛かりを築くには要になる地点でした。さらに晋との直接対決を制した康公は士会を信頼し、戦においてさえ民を大切にするという士会の考え方を学びます。一方、晋の側から見れば、今まで晋に勝てなかった秦が急に強くなったわけですから、士会の存在は困ったものです。
そこで、郤缺は策略をめぐらし、士会を強制的に帰還させてしまいます。康公の温情によって、家族の帰国も許されますが、晋での士会の立場が不遇なことは変わりがありません。しかし、郤缺の信頼と支持を得て、士会の立場は次第に重くなります。楚では英傑な荘王が立ちますが、晋の霊公は趙盾に八つ当たりするばかりです。

「新生」
郤缺の子・郤克は、往時父を助けた士会が秦に亡命することで義を貫いたことで興味を深め、その戦略と人格を尊敬します。士会は、この親子を頂点とする郤家との交流を深め、先氏とはしだいに距離を置くようになります。正卿の趙盾は、楚と戦って敗れますが、君主である霊公の命に従わず、勝手に諸国会同に出席する始末。霊公は趙盾に殺意を抱き、酒宴の席で暗殺を図ります。
かろうじて脱出した趙盾は国外へ逃亡しますが、趙氏の一族の暴れ馬である趙穿は霊公を斬殺させます。郤缺と士会は、趙氏と王との間の暗闘を、暗澹たる思いで見守るのでした。

「旗鼓」
趙盾が正卿の座に戻り、文公の子で襄王の弟を周から迎えることになります。しかし、その迎えの使者が暗殺者趙穿とは、あまりといえばあんまりな話です。こうして即位したのが成公。趙盾は辞意を表明し、正卿の座には荀林父が就任します。士会はようやく第四位の地位、上軍の佐に任ぜられます。上軍の将は先軫の曾孫の先穀ですが、彼はまだ若く傲慢な若者です。士会は、翌春の鄭の攻略を念頭に情報収集にあたらせます。士会の戦略決定には、この情報網の存在が大きいようです。
士会は、成公の初の親征を意義深くするために、鄭を越えて楚の国境を越えて攻め入り、諸国のどぎもをぬきます。もちろん、鄭はびっくりして晋と訂盟を行い、成公の名を高からしめます。
楚の荘王は士会の役割を見抜き、鄭を攻めずに周都を目前にするところまで侵攻し、観兵式を行って圧力を加えますが、王孫満に「天命は改まらず、鼎の軽重を問うべからず」と言われ、しりぞきます。
そして晋では、荀林父から、士会の最大の理解者・郤缺へ正卿が委ねられます。

「敖山」
諸候会同の地で、成公が没します。せっかく良君を得たのに、と郤缺は残念がりますが、先穀と共に太子を立て、これが景公となります。鄭を攻めた楚王に対し、救援の軍を発した晋は、郤缺を中心に楚軍を撃破します。敵将は士会と知った楚の荘王は、徹底して退却し、彼方に去ります。郤缺の努力もあって、狄は晋に服属することとなりますが、郤缺は逝去し、再び荀林父が正卿となります。
しかし、荀林父の優柔不断は先穀の暴走を許し、再び鄭を攻めた楚との戦において、最悪の敗戦を招いてしまいます。敗走する晋軍のしんがりを士会がつとめ、要所に伏兵を配して楚軍を撹乱し、見事に退きます。

「大法」
敗戦の責任を取らせるため、元帥の荀林父を処罰すべし、という声に、士会の甥で法を司る士渥濁は、諮問に対し「不可なり」と答えます。荀林父は、背後に士会の恩を知ります。大敗の原因を作った先穀は、懲りずに諸候会同に出かけますが、帰国すると周囲は冷たい。不安を感じた先穀は赤狄と共謀して晋を乗っ取ろうと企てます。しかし結局は逮捕を拒んで族人と共に滅亡します。覇権を失った晋の景公は、活眼を得た荀林父と士会をたのみますが、楚の荘王に対抗する力はありません。しかし、荀林父は赤狄との戦いに勝ち、景公は少しずつ自信を回復します。
安心したように荀林父が逝去すると、士会が正卿の座に座り、景公の計らいで、士会は周王により正式に晋の正卿として認定されます。士会は、周王室の内紛を調停し鎮めますが、その宴席で典礼にまごつき、帰国後に晋国内の法を再整備し、范武士の法として晋の国法の骨格の一つとなります。



長寿の士会の姿は、武将というよりはむしろ文治の政治家に見えます。「徳の力は武に優る」と帯にありましたが、士会という武将の特異な点は、貧しい庶民の心情を知るとともに、各国の情報を集めそれをもとにして戦略を構築していたことでしょう。「情報とその分析により、徳の力は武に優る」と言うべきでしょう。現実には、とんちんかんでは人徳は馬鹿にされるだけかもしれません(^o^)/
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