電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

『大学で学ぶ東北の歴史』を読む〜その6〜東北の近世と飢饉

2022年12月18日 06時00分02秒 | -ノンフィクション
昨年暮れに読み始めた東北学院大学編『大学で学ぶ東北の歴史』もいよいよ終盤、近世に入りました。のんびりと読み始めたのに、暮れも押し詰まる頃になかなか興味深い内容で、読み終えるのが惜しい気分です。

高橋克彦『天を衝く』で面白く読んだ九戸政実による豊臣秀吉への反抗の後は、徳川政権下で大名の配置が確定され、それぞれの藩政が展開されていきます。その中で人・モノ・文化の交流が行われますが、その基盤となったのが、街道と水運でした。奥州街道はおおむね現在の東北新幹線や東北自動車道などのルートに相当しますし、羽州街道も一部の峠越えルートは異なりますが、ほぼ東北中央自動車道のルートに相当します。また、物資の輸送に大きな役割を果たしたのは、当地・山形県との関連で言えば最上川舟運や酒田港を起点とする西回り海運などの舟運と海運の整備・発達だったようです。紅花、米、大豆などを中心とする交易とともに商業ネットワークが拡大していき、人的交流に伴って文化的なつながりも拡充されていきます。現在も残る京文化の影響、雛人形や医学修行の記録などは、こうした背景があったためでしょう。



ここからは、私の考えと感想です。半世紀以上前の私の中学生時代、学校の歴史の授業では、河村瑞賢の西回り海運の開始により、出羽のコメの大量輸送が実現したという賛辞が中心だったように思いますが、今は必ずしもそうは思わない。現代ならば地元農協等が中心となって築いていた輸送システムをふっとばすような官製輸送システムが構築されることに相当し、おそらくそのしわ寄せは地元の生産者(農民)が負担させられたのではないかとニラんでいます。



さらに興味深いのは「災害と備え」の章です。東北と言えば寛永・元禄・享保・宝暦・天明・天保と何度も飢饉に見舞われていますが、飢饉の原因は必ずしも自然災害だけではない。むしろ、米中心の経済と藩政の都合で他領に多くの米を送り出し、自藩内では米が不足がちであったという状況に自然災害が大きな打撃を与えたという面が強いのでしょう。上杉鷹山の米沢藩が飢饉において餓死者を出さなかったというのは、救荒作物備蓄や御救米制度などの貢献もありましょうが、実際は質素倹約=領内から他藩へ米を出さない政策をとっていたという理由が大きいのではないかと思います。



1998年にノーベル経済学賞を受けたアマルティア・セン教授の言葉を借りれば、世界各地の「大飢饉」の原因は食料供給量の不足ではなく、人々が食料を入手する能力と資格の剥奪にある、ということなのでしょう。すなわち、飢饉は必ずしも「天災」ではなく「人災」なのだ、ということ。

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