電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

『京都インクライン物語』と『日本の川を甦らせた技師デ・レイケ』

2005年06月05日 16時15分22秒 | -ノンフィクション
京都の町は何度も訪れているが、南禅寺に近い水路閣やインクラインあたりは特にお気に入りの風景だ。田村喜子さんの労作『京都インクライン物語』は、琵琶湖疎水と水力発電などの功績をたたえられる田辺朔郎の半生を縦糸に、彼を取り巻く人々、当時の京都市民や北垣国道京都府知事らの動きを横糸にして編まれた物語である。この物語については、WEBサイトでも取り上げている(*)が、活力に満ちた明治の息吹をとらえたよい作品であると思う。
(*):物語案内『京都インクライン物語』のページ

さて、今からは想像もできないことだが、京都は水に乏しい都であったという。加茂川が干上がれば地下水に頼るほかはない。日照りの際には疫病が流行し、また大火に苦しんだ。都の人口は数十万人と、現在で言えば地方中小都市と同程度の規模で千年間推移し、慢性的水不足が都の限界となった。
現在の京都市の人口は約百六十万。明治維新の後、古都の限界を打ち破ったのは、若き田辺朔郎らによる疎水事業であったといえる。琵琶湖から京都に引かれた水が人々を潤し、世界でニ番目の水力発電やインクラインによる舟運などを通じて、古都は生まれ変わる。
明治政府は、積極的に古い価値を破壊し工業化政策を進めた。だから、この水力発電がなければ、京都東山一帯は煙と煤塵に満ちた工場地帯に変貌していたという。美しい古都は、古いがゆえに古いままに守られたのではない。当時世界最新の技術に基づく水利事業によって生まれ変わり、古い京都を包み込むように新しい近代京都が作られたと見ることができるだろう。

もう一冊、右側の本は、上林好之著『日本の川を甦らせた技師デ・レイケ』である。こちらは、日本における近代河川改修の基礎を築いたオランダ人技師、デ・レイケに関心を持った河川局のお役人が、わざわざオランダ語を学び、手紙や文献資料を読み解き、彼の生涯を跡付けたものだ。田村さんは、ファン・ドールンやデ・レイケなどのお雇い外国人技師を批判的に描いているが、水源地の植林をすすめ、低地河川改修を通じて国土の荒廃を防いだ功績は消えないどころか、非常に大きなものがある。この本は、忘れてはならない人を掘り起こし記録にとどめた点で労作であると同時に、定年退職後にライフワークとしてどんなことができるかを示した意味でも、画期的な本だといえる。

写真の左上隅に見えるのは、新庄市の東山焼のコーヒーカップ。色がきれいで、黒いコーヒーによくマッチする。
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安全運転の秘訣

2005年06月05日 10時24分05秒 | Weblog
どこで聞いたか忘れてしまったが、三十年以上無事故のタクシー・ドライバーに「安全運転の秘訣は何ですか」と聞いたところ、「ハンドルを握ったら、危険を探しながら運転しています」という答が返ってきたという。この話、慣れた通勤路を音楽を聞きながら毎日運転している身には、少々耳が痛い。

危険を探しながら運転するとは、見慣れた風景の中から、違和感を感じる要素を探し出し、即座に対応できる態勢をとることだろう。若いお母さんがいれば子供の飛び出しを予測し、駐車する車があれば突然に運転席のドアがあいたり、陰から歩行者が出てきたりすることを予想する、という具合だ。

幸いなことに、目の働きや判断をつかさどる脳と、聴力を通じて呼び覚まされる感情を司る脳は別だという。音楽の作用は、言葉や思考を受け持つ新しい脳ではなく、もっと古い、原始的な脳の部分に作用するらしい。その意味では、あまり興奮させない音楽を聞きながら、目と判断力はしっかりと働いている、ということは可能のようだ。

運動会などで、騎馬戦のBGMにワーグナーの「ローエングリーン」第三幕への前奏曲を用いたりすると乱闘騒ぎになりやすいなどというのも、音楽が持つ原始的な脳への作用を表す例だろう。同じくワーグナーの「ワルキューレの騎行」や、サン・サーンスの交響曲第三番の終楽章などを聞きながらの運転は、体験的にもスピード違反を誘発しやすいように思う。

また、携帯電話で話したり、カーナビを見たりすることも、視覚や思考・判断を司る新しい脳を同時に併用することになり、安全運転に対する注意力が低下するのは確かだろう。どうやら、私たちの新しい脳はコンピュータのようなマルチタスク、時分割処理は得意ではないようだ。ならば、携帯電話と運転とを新しい脳でマルチタスクするのではなく、古い脳と新しい脳とが音楽と運転という二つのタスクを分業するくらいでとどめておくべきなのだろう。
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続く理由、途絶える理由

2005年06月04日 10時01分52秒 | ブログ運営
WEBサイトやWEBLOGが、始めては見たものの、続かずに放置される例は少なくない。ある人によれば、平均でおよそ半年だと言う。日記には三日坊主と言う言葉があるくらいだから、半年も続けば立派なものだとも言える。しかし、一方でもう何年も続いているサイトもある。維持運営の努力に敬意を表すると同時に、何年も続くだけの理由もあるように感じる。たとえばこんなふうだ。

(1)テーマを狭く限定しすぎていないこと。特定のテーマに限定したサイトは、ネタ切れになりやすい。
(2)一定の固定読者があること。あまり多過ぎるのも考えものだが、やはり固定読者がいると続きやすいようだ。
(3)不毛な論争になりにくい表現になっていること。表現に普遍性があれば、不毛な論争は避けられることが多い。

こうした観点で見るとき、本WEBLOGもまた、テーマをクラシック音楽や読書、コンピュータに散歩までと、テーマを狭くしぼらなかったことがネタ切れにならずにすんだ原因のように思える。

写真は、ホースの動きが気になってしかたがない、わが家のネコ。お願いだから、長くてピクピク動くものをつかまえて来ないで。
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音楽以外のボロディンの業績

2005年06月03日 20時45分35秒 | -ノンフィクション
記事に対するコメントやトラックバックで、思いがけない視点を得たり、記憶が呼び起こされたりすることがある。つい先日も、「化学者としてのボロディン」という記事(*)にコメントをいただいた。その中に、ボロディンは化学者であると同時に医者でもあった、という指摘があった。
(*):化学者としてのボロディン

これについて、WikiPedia でも書いてない事実がある。それは、彼が勤務する医科大学に、女子課程を創設した、という事実だ。現代であれば、女医さんは普通のことだが、ボロディンが活躍した19世紀中ごろのロシアでは、画期的なことだろう。他の教授陣はどう反応したのか、施設や設備は対応できるのか、カリキュラムはどうするのか、など、難題が山積したことだろう。それらを一つ一つときほぐし、実現にこぎつける努力は、並大抵のことではなかったに違いない。

その多忙さの中で作曲された多くの作品には、美しく幸福な音楽がみちている。かの夜想曲を含む弦楽四重奏曲第二番が、愛妻にささげるために作曲されたと言う、音楽史上まれに見る愛妻家のボロディンのエピソードを思えば、たぶん彼は音楽が全てとは考えておらず、人間性豊かな良き配偶者に恵まれて、多忙な中にも充実した人生を送ったのではないかと想像される。
それと同時に、独創的な音楽を書いたムソルグスキーの孤独で人間的な不幸が際立つように思われる。

以上、ひの・まどか著『ボロディン、ムソルグスキー、リムスキー・コルサコフ』(りぶりお出版)の読書メモより。

ちなみに、津田梅子が創設したのは津田塾大学。日本の帝国大学で初めて女子の入学を許可したのは東北帝国大学(理学部化学科)。当時の文部省から3名の女子学生受験についての詰問状を受け取ったとき、当時の総長が文部省へ出頭、「合格したら入学させる」と大学の意志を貫いたらしい。では、日本で最初の女子医科大学の課程はどこの大学なのだろう。

【追記】
東北帝国大学に初めて女子学生が入学を許可されたのは、理学部化学科が2名、数学科が1名の3名のようです。この件、数学科の1名が抜けていましたので訂正しました。

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セル/フライシャーのグリーグ「ピアノ協奏曲」を聞く

2005年06月02日 20時19分18秒 | -協奏曲
日中はだいぶ気温が上がるようになったが、朝晩は過ごしやすい気候で、ありがたい。夕方、通勤の帰り道に、遠くの山々を見ているうちに、グリーグのピアノ協奏曲を聞きたくなった。

私のところにあるのは、レオン・フライシャー(Pf)、ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団による演奏(LP:13AC-808,CD:SRCR-1838)と、イェネ・ヤンドー(Pf)、アンドラーシュ・リゲティ指揮ブダペスト交響楽団による演奏(CD:NAXOS 8.550118)2種3点である。LPのほうは、1960年代末にはSONWという記号の2枚組2500円のシリーズにも入っていたことがあるはずだ。

ちょうど三年前のいまごろ、単身赴任地のレコード店でクラシック音楽CD売り場をのぞいてみたところ、以前からLPで聞いていたフライシャー/セル/クリーヴランド管のCDを見付け、宿舎のミニコンポで聞けると大喜びで購入したものだ。
この演奏、第1楽章の堂々たるスケールも立派だが、特に私が好きなのは、第2楽章の出だしが、そっとためらうように入ってくるところ。そして、ピアノがゆっくりと語りはじめる。テンポもゆるやかで、よくコントロールされた、詩情あふれる音楽になっている。

ただし、残念ながらこのCD、1960年の1月に録音されたと記録されているが、音量を上げるとテープヒスの音だろうか、シーという音が耳に付くのと、最近の新しい録音に比べるとやや鮮明さの面で見劣りするようになった。堂々たる響きを聞かせるヤンドーの1988年の録音をあわせ聞くと、そのことが痛感される。
もっとも、聞いているうちにそんなことは忘れ、結局は音楽の素晴らしさにひたってしまうのだが。

両者ともシューマンのピアノ協奏曲が併録されている。セル盤は、LPではグリーグがA面でシューマンがB面になっているが、CDではシューマンが先でグリーグが後になっている。
レオン・フライシャーは、この録音のあと腕の故障で指揮に転向したものの、ついには指揮もできなくなり、困難な治療の結果ようやく先頃ピアニストとして復帰できたという。難病が克服されたことについて、医学の進歩に驚くとともに、円熟したピアニストとして音楽に復帰できたことを祝いたい。

参考までに、演奏データを示す。セルの演奏が、つねに「速い」わけではないことの証拠でもある。
■フライシャー(Pf)、セル指揮クリーヴランド管弦楽団の演奏
I=12'53" II=6'55" III=9'48"
■ヤンドー(Pf)、リゲティ指揮ブダペスト交響楽団の演奏。
I=12'00" II=5'48" III=9'16"
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「ぬれ手にアワ」の意味

2005年06月01日 20時21分59秒 | Weblog
高校時代に、「角をためて牛を殺す」の意味を聞かれたとき、「象牙のように角を切らずにたくさんためておき、伸び過ぎて牛をころしてしまうこと、やりすぎの意味。」と答えてクラス中からさんざん笑われたことがある。「貯める」と「矯める」の誤解である。
この手の誤用は、ほかにもいくつかあった。たとえば「ぬれ手にアワ」。私はこれを「乾いた手ではシャボン玉も割れてしまうが、濡れた手ならシャボン玉もすくうことができ、用意のいいことを表す。」と考えていた。「粟」と「泡」の誤用である。
理系らしい、きわめて論理的な誤用だとも言えるが、粗忽者の本領発揮と見ることもできる。
読者もこのような失敗があるのではないですか。それとも、こんなまぬけな失敗は、私だけのことなのだろうか??
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