志情(しなさき)の海へ

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辺見庸さんのTwitterは時代への槍のようなことばにインパクトがあり、たまにアクセス!「世間という魔物」「あるべき思惟への暴力」とは?

2022-08-18 12:05:02 | 真実の在り処
(坂の上を見つめる黒子とユー君!黒子はメーメーとなくので最近はメーメーちゃんと呼んだりしている。)

ツイターはあくまでつぶやきである。されどそのつぶやきにリンクした膨大な情報がこれでもか、と思うほどあふれている。海外の論文や、記事や動画も含め、どこよりも新しい情報が獲得できるSNS媒体である。

詩人で作家の辺見庸さんがツイートしている短いことばは含蓄があり、紹介される図書も興味深い。氏の思惟がどの辺りにあるのかと、憶測もしながら、たまにアクセスしている。

ブレヒト『亡命者の対話』
藤田省三『天皇制国家の支配原理」
映画「灰とダイアモンド」まだ観ていない。

気になったのが「世間と天皇制の親和性」「世間という魔物」「公共とは共同幻想」「市民社会の内側からファシズムが分泌する」「国家は暴力装置」などである。

TVの大河ドラマやニュースなど、何かが恙なくファシズムの方向へと集団として流れていく怖さがあり、それに対してはあくまで「個」を生きざるをえないという方向へ行かざるをえないのだろうか。

アメリカのリバタリアンの精神は、国家暴力に抵抗する思念、砦になっているのだろうか、とふと思った。

「責任の所在が曖昧な日本」に関しては日本語の構造そのものが、主語の欠落が多いので、それはSNSでもよく論じられていた。対して必ず主語が明快な英語の違いは興味深い。

国家という暴力装置については既知になっているが、その暴力装置の中での秩序を生き、生かされているのも事実。

「暴力装置(ぼうりょくそうち)とは、国家権力によって組織化され、制度化された暴力の様態を意味する社会学用語。主に軍隊や警察などを指し、広義には政府、国家など強制力を持つ公権力全般を含む」と暴力装置 - Wikipediaは定義する。大方、他の辞書も似たような定義に見える。制度や法律を含め、あらゆる平和で穏やかに見えるシステムを含めて全てが暴力装置だということは実感できる。

強制力を持つということが大きな決め手なのかもしれない。それが法律の条項で国民を縛り、制度として運営している。昨今のコロナやワクチン騒動の2年半の拘束(現在も続く)は、あからさまなる政府の強制力を見せつけている。

その中でも暴利を貪る組織や人々も実在する現実のマトリックスに、唖然としたままだ。WEFのブレインのお一人、Yuval.Noah. HarrariさんのYouTube講演や対談に注目し、著書も購入した。しかし、実は彼が世界の支配層の寵児であり、過去・現在・未来の定点で、大胆な未来の地獄図と希望を指し示していたのだと、今は理解しているのだが、学生たちにも氏の動画を見せた。

大勢の公共に生きる市民を誘導する側の人間であった。類としての人類の未来を警告しつつ、トランスヒュ-マンを増長する側の歴史哲学者の存在である。

任意のはずのワクチンが制度の中で半ば強制的にあらゆる機関で狂想曲が吹いて、半ば強制的に押し流されてきた社会現象~。憲法の基本的人権や表現の自由、拘束されない自由そのものが、穏やかな教育機関においても強制力を持っているという事実に、胸が痛くなった。日本はソフトな独裁国家だと、ドイツの哲学者マルクス・ガブリエルは断言しているが~。精神の可視化国家=日本は興味深い。倫理資本主義?


吉本隆明も辺見庸も世間と天皇制の親和性、世間という魔物について十分新しい道筋を、解釈を指し示していないのだろうか。個を生きること、私達ではなく個として生きること~?「あるべき思惟への暴力」とは?集団の怖さがある。集団幻想がどのように醸成されるか、テレビと共同体の相関性の闇が薄れることがありえるだろうか。インターネットは十分、世論構築に寄与しているのだろうか。Getting, but not so powerful yet?

そう言えば辺見さんのツイタ-で、紫綬褒章についての言及があった。国のお墨付きの勲章を否定する辺見さんのスタンスは理解できた。吉増剛造さんなど、紫綬褒章から文化功労賞、日本藝術院会員である。辺見さんは彼を軽蔑しているのだろうか。

つまり権威になってしまった詩人たちの存在がある。あらゆる権威は、破壊し、乗り越える対象になるのだろうか。

モーツアルトやバッハが好きだ。彼らが生み出した美に魂が癒やされていく。詩が魂を癒やし、美に陶酔することができるだろうか?言葉と音楽の違い。

金閣寿夫は『アメリカ・インディアンの口承詩』で、詩人とは多かれ少なかれ呪術師であり、そして詩とは究極的に「治癒」ヒーリングのために存在すると書いている。

日本では吉本隆明の詩の定義が有名だが、このヒーリングに感銘を受けた。

「mountainside
殿堂入りベスト100レビュアー
世界を凍らせる言葉としての「詩」
2019年11月27日に日本でレビュー済み 
吉本隆明の詩論を安藤礼二の吉本隆明論に刺激を受けて読んでみる。序論の「詩とはなにか」を読んで驚かされた。吉本は「世界を凍らせる言葉」としての詩論を提起している。言葉が世界を凍らせるとはどういうことを意味するのであろうか?私にとって、世界は様々まに機能し、私を取り込む環境であり、私はその世界の中に現存在(ダー・ザイン)として実存している。これはハイデガーが『存在と時間』において定義づけた「世界内存在」としての現存在(人間)の在り様(存在様式)である。ハイデガーの存在論から吉本が言う「世界を凍らせる言葉」を考えてみると、現存在としての私の実存を世界から切り離して、私が関心(ゾルゲ)をもってそのつど眺め渡す世界を私(現存在)から切断する。その際私は世界内存在としての在り様を止め、私が世界から孤立して存在する。関心もなく、存在のみがある。世界は機能を停止する。そこにあるのは、私によって凍らせられた世界である。存在者から切り離された存在そのものを語るのが詩的言語であり、吉本が『ヘルダーリンの詩作の解明』で取り上げた「存在の故郷」を語る言語である。以上が、吉本隆明の詩的言語論である。難解であるが、吉本にとって詩的言語が世界を写し取るものではないこと、異次元の言語的構築物として詩が語られていることを把握すれば十分であろう。後は彼の若き日の詩作を読めばよい。
お勧めの一冊だ。」

吉本隆明の言霊はまだまだ深い影響力を持っているようだ。

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