先ほどまで哲学チャンネルでハンナ・ア―レントについて視聴していました。
「命令に従っただけだった」という自己弁護を突き止めたアーレントの思想に共感を覚えます。
組織や社会的構造の中で、機械的に個人の思想や倫理観を無化し、権威や組織の論理に従う。思考停止や従順さゆえに誰でも巨大な悪を犯す可能性があること。
全体主義の怖さは、個人が大きな歯車の一部になってしまい、個人の自由や倫理観も奪ってしまう。
現代社会において、AIやアルゴリズムの決定を絶対化する危険性も指摘しています。絶えず、考えること、現象やシステムについて見据えることが大切だということですね。
AIやアルゴリズム、権威や有識者の声が常に絶対ではありえない。やはりSkepticalに何が真実か、常に思考し、自ら判断する必要があります。
思考しない悪、思考停止がもたらす被害とその拡大を防ぐためにどうするか常に問われているのですね。
ホロコーストとアイヒマンの歴史的背景が、現在に迫ってきます。
多様な組織やシステム、集団の中で内部の不正について告発する者たちが疎外される傾向にあることは、問題です。昨今はインターネットやSNS上で声を発信することが可能になっています。ネットは玉石混交で、嘘偽りも事実や真実も混在しています。組織的なプロパガンダも盛んです。より事実に基づいた情報を得るリテラシーも問われています。誹謗中傷で傷つけられたり、政治的なトリックや扇動もはびこっています。表現の自由のありうべき形態なのか、そうなのかもしれません。事実や真実をどう入手するか、各自の感性や知性が試されています。
集団心理、多数派に従うこと、同調圧力の怖さは、昨今のコロナパンデミックで経験しています。組織や権威は政府であり、メディアであり行政であり、医師会という権威のある組織でした。
表向きでも1000人近くの人々がワクチン接種により死亡したり後遺症で苦しんでいることが厚労省により認定されています。しかし、接種推進が止められることはありません。悪の助長を認めるのも一人一人の国民ということになるのでしょうか。しかし国民の代表の国会議員も不合理な、不気味な状況に積極的な関与をしません。立民の議員原口一博 - Wikipediaさんは別格ですが~。
その件に関しては、世界的に問題を追及しているSNS上のGlobal Researchをお勧めします。なぜかGlobal ResearchのURLの貼り付けがうまくできません。Googleで検索するとTOPで最近は出てきます。
強力な国家権力の悪はどうなのだろう。また国家権力に追随するメディアや多くの関連組織、アカデミアはどうなのだろう。
アーレントは暴力装置としての国家については論じていませんね。しかし全体主義の危険性を論じているゆえに、それは概念的に包摂されているとみていいのでしょうか。国家権力の最たる悪が全体主義で、多くの個々の「陳腐な悪」の総体と言えるだろうか。そう言う事になりえます。
日常の中にアウシュビッツがあるとも言われます。マクロにもミクロにも実在する悪があることに対して、どのように向き合うかが試されています。
状況によっては誰もが、アヒマンになりえる陳腐な悪が存在することになります。その悪の集合体が全体主義の形になり、カタストロフィをもたらすことを歴史は実証しているということになります。
何でもない日常を、ステレス戦闘機はいつも上空を飛び回っていますが、生きているような日々なれど、常に悪の構造的な陥穽が身近にあり続けることになります。
善や美も隣にあります。一人一人の心の中に実在すると言えます。しかしそれも悪の仕掛けの中では淘汰されるのかもしれないのですね。
生きるとは、考えることに尽きる、ということでもない、日常のルーティーンが続く日々なれど、仮想空間のような現実はネットを通していかようにも飛び込んできます。かなたとこなた、こなたとかなたは繋がっているのです。
世界的なベストセラーになった『美について』の本が手元にあります。苦しい時も、悲しい時も美は生きる勇気、糧になると書かれていました。小さな善意もそうです。
哲学を哲学するチャンネルは偶然、目の前にありました。アーレントの思想の一端に触れたことはいろいろ考えさせられました。