新城郁夫さんの解説や山城さんの生の声でのやり取りなど、興味深かった。キャサリンは名護の宿のことが気になっていて、早く車に戻りたがっていた。購入した冊子の英文に目を通し、素早く中身を洞察したようだった。名護までの帰りに彼女の分析を聞くと、その鮮やかさにビックリしたというのは、肉屋の女のシンボリズムや記号は意外と単純ということが見えてきたのも確かだ。例えば何百万人もの同国民を殺したカンボジアややはり内乱があったインドネシアや、300万人殺されたヴェトナムやミャンマーなど東南アジアに何度も足を踏み入れて専門のPerforming artsの本を書いている彼女はベルリンの自由大学滞在中、似たようなレバノンの舞台の話をした。そしてジェンダーやフェミに関する論に興味はなく、自分のコンセプトを持っていると語った。それが一冊の本にあるとのことで頂いた彼女のCommunities of Imaginationを見るとThe Growing Impact of Womenがあった。それを読めば、私の考えを書いているとのことだった。それを読まなければです。
せーふぁからの光景
個人的に山城さんの芸術作品は内臓を抉っていくような爽快さ、スリルが伴っていると思う。ご自分を被写体にした作品は個の思念の揺らぎも含め、彼女の発想に斬新さを覚えた。誰もそんな切り込み方をしなかった、のだと、書かれてはきても表象の素材として、イメージ化されなかった作品は、まだまだ異彩を放っている。
写真の紹介の時、音楽を流すなどのサービスがあってもいい。そこは退屈だった。観客サービスが必要で、芸術作品を創造する者たち、批評家のスノッブ性はいつでも気になる。言葉で表現できない映像や写真の表現(越境性)という。しかしその解釈することばが難解なレトリックに包まれたとき、謎解きの、パズルを解く面白さはあるが、実は、女(性)の解放を歌っていたのである。境界に立ち止り、溶解していく。無意識の意識化された規範的フレームがある。
キャサリンの「ジェンダーやふぇみの視点は、記号としてみたら単純という構図が見える」の解説には、説得力がある。そして自由に海を泳いだ女たちはそれから?との問いは、なるほどでもあった。これまでの分析されたジェンダー関係はそこに溢れている、すべてが記号に満ちて、肉が鍵概念でーー、ECOは見えたとのことだった。女たちは女であることに耐えてきたのよ。なぜ耐え続けないといけないの?アメリカの個人主義の淵は深くて、Top Girlsを読まなければ、見なければー。権力をもった特殊な女性たちは他の女性たちに手を差し伸べないとの話は、なるほどで、特殊な人々=男の権威の横にあり、サッチャーは別だったー。彼らにとってはオバマやヒラリーやオバマの奥さんの位置は近い話題の主人公たちでもあるのだ。ちょっと分断的断片言語で、詳しく書く時間がない、後でまとめてー。