志情(しなさき)の海へ

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批評者(研究者)を閉めだす国立劇場おきなわのスタンス!、劇場は国のもの?沖縄民衆のもの?

2011-09-16 10:13:30 | 沖縄演劇
                   (志多伯の『手水の縁』殺されようとした玉津を助ける山戸!愛の賛歌、いいですね!)

国立劇場おきなわの管理が厳しくなってきた!ますます国の意向(威光)を受けた体制強化がジワリと推し進められている。国家予算でその多くが運営されているゆえにそれは無理もないが、今一度一般沖縄民衆の視点からシンポジウムでも開いてその在り様、いったい劇場がこの社会でどんな役割を果たしているのか、科研の残った資金で開催したいと思う。

表で県や国立劇場が代表とするオピニオンリーダーとは別の人選でパネラーを選びたい。来年まで待てるかなー?少し急いだ方がいいのかもしれない。県や国立劇場や教育委員会の人選とは異なる生なウチナーン人の声が反映できればと思う。

【国立劇場おきなわは、沖縄社会でどんな位置づけがなされるのだろうか?国のための劇場か、真に沖縄の一般民衆の為のものなのか?】

疑問点、システムと管理、国に吸収されるシステムなのか?
芸能・演劇資料がなぜもっと広く県民に開放されないのか?国の財産としての資料?県民にどう還元されているのか?
なぜ低ギャラで有能な舞台芸術を担う方々を酷使しているのか?
養成制度の中身はどうなっているの?なぜ組踊詞章=首里方言なの?
なぜ四間四方なの?現代人の身体が大きくなったからですか?おかしいですね。
御冠船の方向性はどこ?
多目的ホールななぜ?
演出の曖昧さはなぜ?
地謡の位置はどうして幕の後なの?
リハ・ゲネから批評者(研究者)の見学を締め出すのはなぜ?
(見学さえも御法度の理由は?)
多様な意見を締め出し、プロパガンダだけ求める姿勢か?
もっと多様な疑問がありえると思います。
思いついたものだけ並べてみたのですが、実演者の声からは、貸しホールで借りても自主公演だけ宣伝して
ホールを借りる側への配慮がないとか、その他いろいろありますね。ギャラが安くてたいへんの声も!

現在の国立劇場おきなわに違和感や疑問を持ち、思いをことばにしたい方々の声を表に出したいと思う!

このブログを読まれて、自由に国立劇場おきなわについて、思う事をコメント欄に書いてほしいと思う!UPしてほしくない方はその旨一言書いてください!

(志多伯の「手水の縁」)

国立劇場おきなわは何だろうか?何をもたらしたのか?どんな問題を秘めているのだろうか?率直に様々な声を出し合う場を持ちたい!
【劇場と社会】が大きなテーマです。

これは実施できるよう企画する予定!


(志多伯の「手水の縁」神谷武史さん)

【「組踊の系譜」-朝薫の五番から沖縄芝居、そして「人類館」へ】のシンポジウムもやらなけらばならない。
このテーマで今論稿を書いている最中だが、疑問の点が膨らんでもいて、どうにかそのテーマでのシンポジウムもと考えている。劇場の問題が浮上してきたのも系譜の中からである。

(15日のPI:267 PV:967、なぜかPIが増えている!ああ、普天間は見に行けないが、来年沖縄上演が企画されているとのことだから待とう!))

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2 コメント

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Unknown (琉球人)
2011-09-21 11:15:53
国立劇場の在り方について、疑問はごもっともな意見だと思います。管理側の意見ばかりに耳を向けている現状。ご意見箱は設置するだけの形のものでしかなく、沖縄の人々がなかなか記入してまではご意見を述べない環境をいいように利用しているように感じます。改めて国が沖縄の文化を人間の生きる上で必要と感じて建立された劇場の今後の歩みを考える時期かもしれませんね。国立で舞台をみると肩がこるという芝居小屋で沖縄の芸能を慣れ親しんだお年寄りの声こそ、今の国立の客層を増やす要因かと思われます。実演する方々も稽古に励む中でどうすればお客様が気持ちよく舞台を鑑賞できるのか、考えて意見をするべきです。誰のための舞台なのか、お互いが生活をする上で舞台を通して得る喜びを共感するために。アナログからデジタルに変わったご時世、手習いの文化、生の舞台の良さを伝えなくてはならないのは「いま」です。私は思います。
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コメントありがとうございます! (なさき)
2011-09-26 12:04:40
沖縄の位相が政治と絡んであるということ、それが文学にしても芸能・演劇にしても宿命的な何かを常に意識させられます。

国立劇場おきなわの沖縄社会での位相のようなものが気になっています。そして県立郷土劇場がない現実の空白も気になります。国のための劇場なのだろうか?ナショナルが地域ナショナル【独自】なものとして位置付けられないのだろうか?

肩がこり、どこか矯正されたように舞台を見ざるをえない現実にある舞台(国立劇場おきなわ)は今後も異物のように、しかし建前としては環太平洋文化の結び目として位置づけられていくのだろうか?強制された身体と心をどう解きほぐすことができるのだろうか?

崎山多美さんが言った。「異常に国宝が多いわよね」の意味するところは何だろう?

芸能と国や権力(権威)との結びつきの在り様が意味するものは何だろう?

劇場と社会、もっと掘り下げていきたいですね。
この琉球弧の時空;政治・経済・文化の可能性はどこにあるのだろうか?
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