志情(しなさき)の海へ

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『脳と心的世界』と比嘉豊光が撮った『骨の戦世』

2010-11-07 02:01:07 | グローカルな文化現象
『脳と心的世界』はその前に注文した『骨の戦世』より早く届き、なんと注文した翌日には読めた。結構面白い。主観的経験のニューロサイエンスへの招待、と副題がついている。精神分析と脳科学の合流!つまり精神や意識やこころや情感の世界が脳科学によって解明されつつあるということのようである。唯物論が観念論にまさっていく。そう単純な論理ではないよだが、最も気になる精神はどこにあるのかは、脳の中ということになる。「精神の本質は意識的な気づき(conscious awareness)である」「脳は生物的な生き者として私たちが生き延びるのを助成する器官です。私たちの身体の内的要求と、(そのような内的要を満足させるようなあらゆる対象の場である)外界の危険や喜びとの間を媒介することによって私たちの生存を促進しています」など、とても意識を喚起させることばが引きつけるが、さて意識とは何だろう?意識の中心は関係性だとの定義ににんまりする。「あれとの関係においてわたしはこう感じている」ということらしい。つまり内的要求が私たち自身を越えて存在しているものによってのみ満足されうるという事実。私たちの感じ(意識の内的な源)は、常に、要求の対象(意識の外的な源)との関係において決定される、ということになると、著者。

意識が感じを必要とするということなど、感性とからんでいること、その定義そのものも[関係性の絶対性」などのことばがせり出してくる。関係はあらゆる関係のありようをまた意味するのだろう。家族や社会や自然、文化・文明などなど、時勢も含めーー。2章まで読んで後は気になるところをめくっていたが、サイトの紹介もあり、「セクシュアリティとジェンダー」について国際学会で取り上げられてもいる。その辺は直にサイトを逍遥したいと思う。

ここで書きたかったことは、写真の『脳と心の世界』と並べた『骨の戦世』の小冊子の中で紹介されている比嘉豊光の写真である。戦後65年ぶりに那覇の新都心の一角から掘り出されたミイラ化した元日本兵の脳髄である。この冊子の比嘉さんの写真のインパクトが強くて、付随する方々の論稿を最初読みたくなくて、パラパラめくっていたが、やはり読む必要があると感じて読んだ感想でも、脳に引きつけて書いてみたいと思ったーー。というか、論者の方々の意識のありようがどうことばに表示されているのか、気になってきた。彼らがどう脳に言及しているのかまた拾い読みしてみたのだった。


≪なかゆくい≫
(休憩、女子バレーを見てーー!中国に惨敗?!)(続けます!ついでにAmerican Japaneseのドラマを見ていました。沖縄戦の場面は竹富島ですか?吉田妙子さんが悪いあんまーの役で出ていましたね。あまり史実にあってないような気がしました。姉妹の一人が沖縄にきたのもそのいきさつを見ていないので、無理やりのシナリオにも見えます。その辺はマイナスですね。あえて島根、広島、沖縄をからめるのもまぁ、スケールとねらいどころはいいのかもしれないがーー。キャンプから自由に家に帰れなかったのですよねーー。シナリオライターはもう少し資料を読みこんでほしかったーー)

さて、『骨の戦世(イクサユ)』に戻る!
比嘉豊光ーー「骨に呼ばれて」は短いが簡潔ないい文面である。比嘉は「xxxその骨たちの表情は、豊かで美しくさえ見えた。「脳」が出てきたとき、「言葉」と「写真」の意味づけが越えられたのだと私は感じた」と書く。あきらかに脳の実在のもつ何かを彼は感じている。ミイラ化された元日本兵の脳がもたらした衝撃の大きさ、それは何だろう?

仲里効ーー「珊瑚のカケラをして糺しめよ」は知的に饒舌なことばが流れる。詩人牧港篤三の「幻想の街・那覇」が紹介される。イクサを忘れさせない二つの物とはーー不発弾と骨である。「沖縄は骨埋まる島、骨眠る島である」そして「爆薬を孕んだ物体」に対して「沈黙の意味を孕んだ物体」が骨である。那覇市新都心ーー沖縄の現在と過去が凝縮する場、仲里は写真家平敷兼七の写真に目を向けさせる。そして「xxx頭蓋の中の泥の塊を引き出そうとする、と、暗紫色の塊がこぼれ落ちる。かすかなざわめきとともに誰の口からともなく「脳みそーー」の声がもれる、その瞬間をカメラは捉えていた。土の塊と見紛う、奇跡的にミイラ化した暗紫色の襞の塊」

仲里はこれ以上ミイラ化した脳に言及せず、骨に焦点を当てる。沖縄で日本兵の骨と向き合う事とは何かとーー。彼は厳しい。「死や骨といえども免責されるものではない」。イクサ世に死や骨は平等ではなかったーーのだと。平和の礎への強い疑念が浮かび上がる。のっぺらぼうの表象への視線!そして不在の骨と沈黙の言語の中で目取真俊の「風音」に登場する頭骸骨・泣き御頭に言及する。さらに小説「群蝶の木」と「魂込め」にもーー。仲里の視点はもっとも虐げられた者たちの目線から手繰り寄せているのらしいことが分かる。大城弘明の『地図にない村』も紹介される。

「粉砕された沖縄住民の不在は珊瑚の欠片と等価ではない」「奇跡的にミイラ化した脳が記憶を保存しているのならば、その保存された記憶をして語らしめなければならない」「一家絶滅の屋敷跡の非在と目の見えない子供たちが作った異形のカタチ(よう)、メメント・モリ(死の表徴・警告)」

強固な意志なり思想性を秘めたことばがちりばめられる。決して妥協を許すまいとする姿勢が岩肌を歩くような文面から感じられる。ミイラ化した脳に語れと呼びかけるのである。感傷はない!

一方、新城和博の「熱狂の夏の足元に」は散文的な軽く読めるスタイルでそこには芝憲子の詩「骨のカチャーシー」が引用される。そして彼は「写真で見たその脳はまるで石化した珊瑚礁のようだった」と書いた。沖縄戦は覚めない悪夢のように続いているのだなーとため息もついてみせる。

宮城晴美は「ある”一兵卒”女性の戦中・戦後」で、比嘉豊光の写真に言及することはない。渡嘉敷島で心労して亡くなった母親のことを記録する。彼女が骨を拾って遺族の元へ届けたことなど、なぜか堅い文面の中で、母親を語ることによって成り立っている宮城晴美さんの「確信」の二字が心に迫ってこなかったーー。

西谷修の「六五年目の黄泉がえり」は現代の世相・時勢の流れと飛びだしてきた骨と脳のミイラを同時的に表象して語る。柔らかいことばでーー。「脳はなんといっても特別な部位だ。それはモノとしてありながら、生きていた者の思念を物資化しているようにも感じられる。--残るはずのない脳が残っている。---それ自体がどんな意図ももたず、何を語らなくても、立ち会う者にその意志を想定させ、その思いに耳を傾けさせてしまう」と西谷は書き記す。おそらく誰よりも直に比嘉豊光の表現された写真そのものにことばを寄せている。比嘉が写しとった写真のイメージを直に受けた感性が「ひとときの明るみ」のように繰り出される。奇跡的にこの時期に登場した元日本兵の骨と脳のミイラはなぜ今剥き出しの姿を晒したのか?国のありようと骨/脳のミイラは相反しながら現在を限りなく表象する。

北村毅の「戦死を掘る」は沖縄における遺骨収集の現在を伝える。遺骨収集ボランティア団体「ガマフヤー」の代表具志堅隆松さんのこの間の懸命な運動・働きに感銘する。行政の事なかれ的姿勢の形骸化したさまに対比して、具志堅さんが遺骨に真摯に向きあってきた年月とパッションがあふれてくる。沖縄戦戦死者の99%は特定されずごちゃまぜに国立沖縄戦没者墓苑に納骨されている!死者たちは永遠に遺族の元には戻らないのである。ただかき集められた遺骨と骨灰!浮かばれない骨(魂)たちが彷徨っているのだ!

小森陽一の「無数の罅割れと襞に向かって」は、骨と脳のミイラに語りかける。沖縄戦の実相をゆがめようとする者たちに抗して貴方がたの声に耳をすまし、その身体を見つめ、それらの全てを記憶し、記録し、自らが伝える者となろうとしている、戦場と戦争を体験しなかった人々がいるよ、と。
しかし、小森は沖縄がまだ戦場だということに触れない。広大な米軍基地は、比嘉をはじめとしてすべての沖縄住民が居ながらにして戦争に巻き込まれた現在だということに触れない。それが大和の知識人の限界なのだろう!現場感が彼らにはない。酔った比嘉豊光は言った。「ヤマトゥの知識人が書いた物はトイレットペーパーといっしょだよ」と。彼の声音はやさしい!

あらためて写真そのもののイメージやインパクトに伴う事実認識の重要さを感じさせた。遺骨収集の実態が幾分わかった。まったく無頓着だったことに鞭打たれる思いがする。人間の骨が墓の中ではなくこの島のあちらこちらの地中に埋もれているというシュールさとミイラの脳の写真にしばらくとり付かれそうだ。

脳のミイラが沖縄/日本/世界の現在への[強烈なモノいい](象徴)であるとすると、それは残酷な戦争(究極の殺戮・悪)への警告であり、未来へのメッセージでありえる。否、偶然にしてはあまりに強烈な「むきだし」の脳は、その「むきだしの姿」で人間のおぞましさを呪っているのかもしれない。今を生きるわたしたちをミイラの脳は嘲嗤っている!嘲笑っているように見える頭蓋骨と同様に!

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