先だって民主党の小沢一郎さんがニコニコ動画に登場したとの報道があった。若者たちのメディアとして注目を浴びているようだ。身近にいるハイティーンの者たちもよく見ている様子である。このニコニコ動画についてYahoo Japan系列のブログに書きこむと、UPできなかった。ある語に即座に反応して表示を妨害する機能でもついているのだろうと、予測させる。
Yahoo Japanとニコニコ動画は仕掛けているシステムの元締めたちが対立する構図にあるのだろうか?勝手な推測である。
書きたかったことは尖閣諸島の問題で流出したDVD画像に対して、若者たちは[ハッカーがやったんだろう]と言った。[よくやったね。凄腕はいるからなー]
それにしても中国の反日デモ隊の「日本鬼子」に対して、ニコニコで「ひのもとおにこ:日本鬼子」のフィギャー(絵柄)を100個も創ってUPした奴がいてね。中国のマニアもあきれて、さすが日本と言っているよーー。カナダの奴もね「日本人クール!」と称賛で爆笑物だよ、とのこと。(後でやがて17歳に聞くと、今ではその絵柄が1194もあり、さらに増え続けているとのこと!)
若者たちが、ネット文化の潮流の中で、負をプラスに転化できるパワーを秘めてあるということが、なぜか好ましく思えた。サブカルチャーは世界を巡っている。その共通言語を彼らはまた持っていて、大人の政治や経済をからめた対立システムを抜ける技なりセンスを持っている、と感じられることが、なぜか未来に一筋の明るい光をもたらしているのだと、すなおに一緒に笑えた。
嗤う先から血なまぐさい戦争ということにならないように、もっとお互いのセンスを交流する方法がネットでも大いにできるということは、堅い対立の情動をガス抜きし、あらたな地平にステップを踏めるのだと、幾ばくかの明るさを感じている。
若者たちは馬鹿ではない。彼らのセンスは「ガンダム」にしろ「デスノート」にしろまたネット関連のマニアックな「萌」にしろ、共感する何かが世界に渦を創っているらしいことも確かなのだろうーー。
ハイティーンの彼らが意外に賢いのだということも、感じさせてくれる。たまにはおしゃべりの中で圧倒されるのもいいね。ブッタは言っているよ。「無我」だよ。わたしは存在しない。関係の綾の中で創られた私だからね、とのことーー。そうね!
それにしても周りには[自己顕示欲」の塊たちが多いと感じる昨今である。地味ながらいい仕事をしている方々は「自己を顕示する」必要はないようで、おのずとその価値が沁みていくのらしい。自己顕示欲の塊たちの姿がさもしく見える時、女で良かったと思う。おそらく彼らは、自らが自己顕示欲の「犬」で「道化」だ、ということの「気づき」ができないままにいるのである!と書く私自身の道化ぶりはどうなのだろう、と読み返してみて自己嫌悪にも襲われる。
大学の学長だった男は決して魅力的に見えない。学生時代と同じデカルトの言葉を何十年たっても語り、その知性(知識)は大学運営には活かされても「崇高な文化の香」とは程遠い!(おそらく法人化の波の中で堂々と学内弱者切りをしていた施策への反発もあっての感情だと思う。トカゲはどこにも棲んでいて、トカゲの尻尾は大なり小なり切られていく。その痛みで殺される者と微笑む者たちとの格差はいじめる者といじめられる者の差異でもある)だからそんな男よりいいことばを、文化の香(品性)を残している者たちはいるのよね、と言いたくなる。実際学長だった彼以上にことばを作品を論文を研究書を書いている方々は多い。肩書きがXX学長だけで人はやはりなびくのかどうかしらないが、私にとっては意味がない。ひっそりと輝いて、いい仕事をしている方々が多いのも事実である。その点でまだまだ他者であり続ける女であるメリットを生きたい!などと思ったりする。未来ははやり主人の物ではなく奴隷のもの(客体や他者)だと信じたい思いがある。権力の甘い蜜のむなしさ!を身近でも感じる。XX長選挙などーー。実績のある者が必ずしも組長になるわけではない。それゆえに、貧しい詩人が麗しい知識人より輝いて見える時があるのは確か!しかし、その詩人の偽善もまた限りなく遠いものだけれどーー。
しかし、やれやれの救いようがない関係の絶対性はどこにもありえる風景ーー!男たちのエゴーの犠牲になる数多の女たちの姿、かのプリンセスたちもまた服に鳥や魚のブローチを付けて檻を表象した!同じように男たちもまた?関係の絶対性の檻に囲まれる?!(以前調べてみたのだが、夫や恋人に殺される女の数はその逆の何十倍もいた!「女子供=犠牲者」の構図は変わらない。他の哺乳類の世界にも類似性がーー!)愛の暮らし?
かつて包丁を持った夫婦の劇があった。「自殺するよ」と脅す妻もいた。逆に「泊大橋から落ちて死ぬよ」と、かの著名な役者は妻に向かって言った。妻たちの中には、実際リストカットを繰り返したりする者もーー。また、拒食症になって浜辺を彷徨ったかつてのダイアナ妃もいた!保身のために制度にしがみつく者達もまた「生きる闘いの切実さ」ということになるのだろうが、でもね、やはり欺瞞!欺瞞や偽善を生きたくはない、されどの現実もある。個の自立を実践するためには、関係をすべて断ち切る必要があるのかもしれないと考えつつ遠くまできてしまった。
暴力夫と子供たちから逃げ、自由に生きてきたように見える女優が、14歳若い男に言い寄られ事実婚をつづけてきて、その若い連れ合いにも先立たれる人生を物語やドラマにしたくなる。彼女の最後のステージの晴れやかさを応援したくなる。一筋の役者人生の哀歓、自立した女のたくましさがそこにある。とても彼女のまねができないのは「シンパシーの罠」なのだろうか?
おそらく女であることはすべての枷から抜け出る可能性を男たちより多く持っている、とも言えないのだろう。逆に強制されたシステムにがんじがらめにされているのは同じ。社会システムのヒエラルキーに縛られている男たちのいじましさが哀れに見える時、それはあまねく老若男女の縛りの実態なのだと認識せざるをえない。自らの感性を大事に生きたいという願望は捨てたくない。表現者(今では誰でも表現者でありえる)であることは、ある自由を手に握っていると言えるだろうか、必ずしもそうではないことが、監視社会の現実?!
自らの感性に正直に生きよう!若者文化の可能性は見逃すまい!彼らの未来に光よ射せ!
Yahoo Japanとニコニコ動画は仕掛けているシステムの元締めたちが対立する構図にあるのだろうか?勝手な推測である。
書きたかったことは尖閣諸島の問題で流出したDVD画像に対して、若者たちは[ハッカーがやったんだろう]と言った。[よくやったね。凄腕はいるからなー]
それにしても中国の反日デモ隊の「日本鬼子」に対して、ニコニコで「ひのもとおにこ:日本鬼子」のフィギャー(絵柄)を100個も創ってUPした奴がいてね。中国のマニアもあきれて、さすが日本と言っているよーー。カナダの奴もね「日本人クール!」と称賛で爆笑物だよ、とのこと。(後でやがて17歳に聞くと、今ではその絵柄が1194もあり、さらに増え続けているとのこと!)
若者たちが、ネット文化の潮流の中で、負をプラスに転化できるパワーを秘めてあるということが、なぜか好ましく思えた。サブカルチャーは世界を巡っている。その共通言語を彼らはまた持っていて、大人の政治や経済をからめた対立システムを抜ける技なりセンスを持っている、と感じられることが、なぜか未来に一筋の明るい光をもたらしているのだと、すなおに一緒に笑えた。
嗤う先から血なまぐさい戦争ということにならないように、もっとお互いのセンスを交流する方法がネットでも大いにできるということは、堅い対立の情動をガス抜きし、あらたな地平にステップを踏めるのだと、幾ばくかの明るさを感じている。
若者たちは馬鹿ではない。彼らのセンスは「ガンダム」にしろ「デスノート」にしろまたネット関連のマニアックな「萌」にしろ、共感する何かが世界に渦を創っているらしいことも確かなのだろうーー。
ハイティーンの彼らが意外に賢いのだということも、感じさせてくれる。たまにはおしゃべりの中で圧倒されるのもいいね。ブッタは言っているよ。「無我」だよ。わたしは存在しない。関係の綾の中で創られた私だからね、とのことーー。そうね!
それにしても周りには[自己顕示欲」の塊たちが多いと感じる昨今である。地味ながらいい仕事をしている方々は「自己を顕示する」必要はないようで、おのずとその価値が沁みていくのらしい。自己顕示欲の塊たちの姿がさもしく見える時、女で良かったと思う。おそらく彼らは、自らが自己顕示欲の「犬」で「道化」だ、ということの「気づき」ができないままにいるのである!と書く私自身の道化ぶりはどうなのだろう、と読み返してみて自己嫌悪にも襲われる。
大学の学長だった男は決して魅力的に見えない。学生時代と同じデカルトの言葉を何十年たっても語り、その知性(知識)は大学運営には活かされても「崇高な文化の香」とは程遠い!(おそらく法人化の波の中で堂々と学内弱者切りをしていた施策への反発もあっての感情だと思う。トカゲはどこにも棲んでいて、トカゲの尻尾は大なり小なり切られていく。その痛みで殺される者と微笑む者たちとの格差はいじめる者といじめられる者の差異でもある)だからそんな男よりいいことばを、文化の香(品性)を残している者たちはいるのよね、と言いたくなる。実際学長だった彼以上にことばを作品を論文を研究書を書いている方々は多い。肩書きがXX学長だけで人はやはりなびくのかどうかしらないが、私にとっては意味がない。ひっそりと輝いて、いい仕事をしている方々が多いのも事実である。その点でまだまだ他者であり続ける女であるメリットを生きたい!などと思ったりする。未来ははやり主人の物ではなく奴隷のもの(客体や他者)だと信じたい思いがある。権力の甘い蜜のむなしさ!を身近でも感じる。XX長選挙などーー。実績のある者が必ずしも組長になるわけではない。それゆえに、貧しい詩人が麗しい知識人より輝いて見える時があるのは確か!しかし、その詩人の偽善もまた限りなく遠いものだけれどーー。
しかし、やれやれの救いようがない関係の絶対性はどこにもありえる風景ーー!男たちのエゴーの犠牲になる数多の女たちの姿、かのプリンセスたちもまた服に鳥や魚のブローチを付けて檻を表象した!同じように男たちもまた?関係の絶対性の檻に囲まれる?!(以前調べてみたのだが、夫や恋人に殺される女の数はその逆の何十倍もいた!「女子供=犠牲者」の構図は変わらない。他の哺乳類の世界にも類似性がーー!)愛の暮らし?
かつて包丁を持った夫婦の劇があった。「自殺するよ」と脅す妻もいた。逆に「泊大橋から落ちて死ぬよ」と、かの著名な役者は妻に向かって言った。妻たちの中には、実際リストカットを繰り返したりする者もーー。また、拒食症になって浜辺を彷徨ったかつてのダイアナ妃もいた!保身のために制度にしがみつく者達もまた「生きる闘いの切実さ」ということになるのだろうが、でもね、やはり欺瞞!欺瞞や偽善を生きたくはない、されどの現実もある。個の自立を実践するためには、関係をすべて断ち切る必要があるのかもしれないと考えつつ遠くまできてしまった。
暴力夫と子供たちから逃げ、自由に生きてきたように見える女優が、14歳若い男に言い寄られ事実婚をつづけてきて、その若い連れ合いにも先立たれる人生を物語やドラマにしたくなる。彼女の最後のステージの晴れやかさを応援したくなる。一筋の役者人生の哀歓、自立した女のたくましさがそこにある。とても彼女のまねができないのは「シンパシーの罠」なのだろうか?
おそらく女であることはすべての枷から抜け出る可能性を男たちより多く持っている、とも言えないのだろう。逆に強制されたシステムにがんじがらめにされているのは同じ。社会システムのヒエラルキーに縛られている男たちのいじましさが哀れに見える時、それはあまねく老若男女の縛りの実態なのだと認識せざるをえない。自らの感性を大事に生きたいという願望は捨てたくない。表現者(今では誰でも表現者でありえる)であることは、ある自由を手に握っていると言えるだろうか、必ずしもそうではないことが、監視社会の現実?!
自らの感性に正直に生きよう!若者文化の可能性は見逃すまい!彼らの未来に光よ射せ!