志情(しなさき)の海へ

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半沢直樹のドラマで、「二倍返し」や「百倍返し」と共に、「とかげのしっぽ」のことばが気になった☆

2013-10-05 18:27:50 | グローカルな文化現象
 
環境に即してカタツムリも進化する!/創作舞踊大賞に玉城千枝先生!おめでとう!
記事が2つ並んでいてそれをUPしたいと思った。 一つは八重山のカタツムリ、危険が迫ったら足の後に相当する尾の部分を切り捨てて殻の中に隠れたという。天敵の蛇に対...
 
1年前のブログがメールで送られてきた。つまり日々送られてくるのだが、驚いた。カタツムリの尻尾切りである。なるほど、生き物は生き残るために擬態をしたり、いきなり身体が大きくなったり、あるいは一部を切り捨てることがあるのだね。そして何気なく思い出したのは、ネットで見れるよ、とのことでネットで見た「半沢直樹」の銀行物語である。勧善懲悪的な水戸黄門物だと、演劇評論家の知人がブログに書いていたが、結末を見ると、頭取から見た「とかげの尻尾切り」の憂き目にあう結末だった。世間で評判になった「二倍返し」や「百倍返し」の言葉は確かに印象深かったが、銀行内での出世競争と「とかげのしっぽ」という言葉が気になった。どこにもトカゲのしっぽが存在する、否、その意識が存在することが、面白いと思った。
 
とかげのしっぽは多くの会社や組織に保護された労働者(正規)に対する非正規などの間扱いを受けた、半ば搾取される労働に従事する者たちへの呼称かと思いきや、会社内の冷や飯食いへの呼称でもあった。どこでも組織の論理によって切り刻まれる者たちがいるという事が「とかげのしっぽ」で表示されている、その意識がなるほどと思えた。主流と反主流の抗争は組織論として競争原理が働く方が活性化につながるのだろうし、組織論としても面白いとは思ったが、会社が生き残りをかける時に組織が単なる正義感なり、感性で動かないのもその通りだろう。多くの人間の生き死にがかかっている。組織そのものが生命体=巨大生物として存在すると考えると、トカゲやカタツムリやミミズのように身体の一部を切り捨てて生き残りをかける論理もわからなくもない。しかし同じ人間としてのしっぽなら、その痛みは自殺へもいたるだろう。その辺がどうも違う。
 
生き延びるための処世術のようなものだろう。自らに太陽の光を多く浴びるように生存競争を強いられている社会という生き物の中の個でもある。どこにも思いがけない展開もありえるのだろうが、身近な組織はさて、どうだろう。
実りのある10年にしたいと切に思うが、形としての書籍にしても、それが電子書籍ならまだ手軽かもしれない。いつ実りをもたらすことができるだろうか、生きている間の模索が続く。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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