志情(しなさき)の海へ

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新しい感性で描いた詩劇/新作組踊【初桜】(批評)

2016-01-23 21:52:35 | 琉球・沖縄芸能:組踊・沖縄芝居、他

従来の「仇討ち物」と異なる仇討ち物の新作は、悲劇のジャンルに入るのだろう。円環する仇討ちのサイクルを断ち切った時、見えてきたのは、枯れ枝に咲く桜花だった!一部、二部、三部構成のおよそ3時間の物語!実は女の志情け(肝こころ)が微細に描かれている。圧倒的に女性が多い現代の観衆へ向けた30代芸術監督嘉数さんの「仇討ち」と城・武家の世界への物言い(視点)。作・演出の嘉数さんは「守りたいものを守ろうとする人間の欲望こそ、敵討物の核となるのではなかろうか」と、問うている。しかし、この作品は「敵討」の悲惨な結末にみる虚、無の世界、荒涼とした嵐の後の風のそよぎ、枯れ木に咲く桜花、救いや希望としての村娘加那志(かなし)と生まれた赤子の姿、を登場させることによって、城をめぐる人間の特に按司[男]を中心とする権欲の構図への問いを投げた物語になっている。

物語の始まりは女からはじまりそして女で閉じるのである。奥間森城の按司に見初められ恋に落ち、妃となり思戸金(宮城茂雄)は嫡子金松を得る。しかし按司は酒色におぼれ妻子をないがしろにしていく。按司に裏切られた思戸金と金松、そして妃に仕える真鍋樽が冒頭に登場する。3人、というより真鍋樽と思戸金は「飛鳥と連れて 流りゆる雲に 我が思い語て 我肝やすま」(仲間節)で踊りながら登場し思戸金は組踊の様式にそって名乗りをあげ、この間のいきさつを語る。按司の心変わりにあい苦しんでいる妃(うなじゃら)の姿がある。かつて按司と桜を眺めて踊った幸せな日々を思い出し独り踊りをする思戸金、金松の立身のために辛抱して耐えなければならないと妃の心を慮る真壁樽(佐辺良和)の唱えの伸びがいい。宮城の声も落ちついている。

そこへ按司手事で登場するのが城の臣下の頭田名の比屋である。臣下として城の主(按司)の民草を返り見ない政(まつりごと)への不満を受けて按司を討とうとする野心を秘めていることがわかる。妃と真壁樽に出会わした田名は妃に「うなじゃらへの情けない仕打ち、命振り捨てる覚悟だから忍んでたぼり」のように含みのある言辞を残す。妃は言葉尻にハットする。

展開は早い。次の場面で按司の出入りの手事(太鼓、三線音が大きい)で東江裕吉が登場。「夢の世の世界、命ある限りただ思いを極め浮世を暮らしたい」と語る。田名は按司はお好きなようにされてください。政は臣下の我々がみますと按司をもてはやす。野の遊びに誘われる按司。村のみやらびのシヌグ遊びの延長の踊か、美しいみやらびに酌をさせる。そして臣下の者たちも踊り、楽しむ場面、刀を脱ぎ捨てた按司は討たれる。按司は、田名のたくらみに「しごく残念」のことばを残し討たれる。

臣下の進言で城の主は田名が取って変わる。金松は殺されるところを真鍋樽に助けられる。按司は妃を側室[妾]に向かえ、一方で金松を国頭の山の中に捨てさせる。この母子の別れの場面は型が美しい見せ場で懸命に妃と金松を守ろうとする真鍋樽の挙動に引き込まれる。しかしどうもこの場面が流すぎる。思戸金は守り刀を預け「自由ならぬ無情の世の宿命」に身をあずける。【捨てられる思子 何の事も思まん神仏揃て 守てたぼり】(伊野波節)、田名の側室になり千代松が生まれる。15分休憩

と、細かく分析していくと、時間がとられて肝心の自分の作業ができないので、端折るが、二部が10年後。村の者たちは、間の者の役割で美女二人を自由にした按司を揶揄している。妃への欲望ゆえに元の按司を殺したのではないかとさえ言い放つ。そして捨てられた金松を山で見つけて育ててくれた目の見えない老人の「次良主」と城に桜を見に来る。桜が見えないはずの次良主が桜を見に来る。見えない目で見える桜、その香への言及があってもよかった。五感で感じる自然の息吹である。兄弟とは知らず出遭った金松と千代松が桜の枝をもって楽しく踊る場面。(真実を目撃しているのは観客である)。次良主はふと真鍋樽と出会い、金松の素性がわかる。城からの去り際、母親にそれとなく会わせてやる真壁樽の優しさ。按司になった田名の心(愛)が自ら離れ、生きる希望を失っている。(夫に裏切られる女たち、権力に翻弄される女達、母親の情愛さえ踏みにじられる女たち)。一方で千代松と幸せの絶頂の思戸金。15分休憩

第三部が20歳になった金松には加那志という恋人がいる。次良主が悪政に走り、民草を大事にしなくなった田名(按司)に直訴したところ、牢に入れられ殺されてしまった。亡骸、昔は火葬がなかったはずで、気になるところ。こころ優しい真壁樽はすでにこの世になく、妃に再びなった思戸金と成人になった千代松は田名に政を改めるよう物言いをするが、按司は傲慢で気ままな人間に変わっている。女、子供は言うことを聞けの独裁者の素振り。似た構図だね。権力は腐敗すると嘉数さんは言いたいのかもしれない。組踊に白い布で包まれた遺骨の登場があるが、ちょっとおかしいね。牢の番人が遺言を伝えることによって自らのアイデンティティが明らかになり次良主と奥間森城の按司だった父の敵を撃つため、松明を持って挑む金松。その前に実の母との対面があった。言い訳ができない思戸金。母として苦しい立場の思戸金だ。「あーきー」がいい!生きていた息子と20年ぶりの対面である。

火責め、兄弟の争い、弟を殺す金松、そして按司に殺される金松。立会いは見せ場だ。そして金松の守り刀を見て按司を殺し、自ら自害して果てる思戸金がいる。太鼓の音が大きく響く、誰もいない舞台空間の効果はいい。荒涼とした城跡の情景を伝える、筝の根、笛の音色、それぞれが聞かせる場を演出している。見事なオーケストラだ。物語の筋が引っ張っていく。

そして燃えた城跡を訪ねる加那志と赤子。枯れ枝の桜。「世々に咲き誇り 御万人と共に情肝尽くち幾世までも」(楚興々節)

城の光(名誉)のため、ご先祖のためと、城のために生きた思戸金だった。「燃ゆる桜花、あの世までかけて共に散り立ちゅさ 花のうてな なし子二人共に 花のうてな」(述懐節)

嵐が去って桜花が残った。

梶井基次郎 桜の樹の下には :『桜の樹の下には屍体が埋まっている』ことが書かれた短編小説が詩劇として表出されたようなリリシズムが感じられた。山の中に捨てられる子供は「同じように捨てられたギリシャ劇のオイディプス王」が一瞬念頭に浮かんだ。でも伊良波尹吉の「双子物語」も捨て子が描かれている。

大城立裕さんの『今帰仁落城』が重なって浮かんできた。城を巡る男たちの争いの結末は生き残った赤子(若按司)と村人だった。

嘉数も村娘、加那志を最後に登場させた。パターンは似ている。子供が未来への希望である。命の循環は絶やしてはいけない。悲劇の中の希望。そして桜=自然の力、美である。

今回現代劇、『人類館』のように独りで何役も兼ねた。宇座仁一が見事だった。田名と次良主をうまく演じた。佐辺も真壁樽と千代松をうまく演じた。宮城の加那志は品がよすぎた。村娘の化粧も所作ももっと明るい鷹揚さがほしいところだ。語りも含め、もっと差異を見せてほしい。成人した金松の裕吉は鮮やかな立ち回りだったね。按司の出番が少ない部分、きりりとしていた。心理劇のようなからみ、母と子の淡い、つらさ、くるしさ、絶望、恨み、無念なおもい、など、見せた。女の感情に入り込む要因だ。ある面、うちなー芝居的な「叙情性」が流れている。しかし現代的な心理の襞が感じられる。

感極まる見せ方の筋書きである。ただ按司になったとたん、悪政に落ちていくパターンの筋書きはもっと陰影があってもいいと思うが、これでは男たちの典型(組踊の討たれる按司のパラダイム)が変わらず、新奇さはない。按司としては谷茶の按司の魅力にかなわない。「忠孝婦人」のレトリック=修辞はとてもいい。嘉数さんのこの作品のレトリックはまだ「忠孝婦人」を超えていないのかもしれない。脚本を読んでいないので、読んでみたい。

おそらく嘉数さんのこの間のすべての劇的体験が網羅されていると見ていい。大城立裕さんの沖縄芝居や新作組踊は実は氏の小説を下敷きに西洋演劇の構造や感性も加味されているが、ある面、劇(空間)の弁証法がそこにあると見ている。嘉数さんは、さらに大城立裕さんや幸喜良秀さんたちが実現した劇世界をまた深化(進化)させていると見ていいね。女性たちの感性を取り込んだ新作組踊の登場かもしれない。

二回の休憩はいらない。『忠孝婦人』でも3時間はある。一回の休憩だ。第一場、二場の後の一回の休憩でいいね。あるいは休憩なしの2時間45分でもいけると思う。

地方の歌・三線、太鼓、筝、笛、良かったね。耳目が舞台にひきつけられていた。歌唱の魅力、器楽のリズムが中味を膨らましていた。五感に訴えてくる総合芸術の魅力。具体的にどなたがソロでどの歌曲を歌っていたか、書き記したいのだが、できないもどかしさがある。全体の歌唱なども迫力があった。

〈余談〉ところで城とは何だろう?カフカの「城」もある。城=国に置き換えてもいいのかもしれない。城=国に対する加那志=民である。次良主も民の象徴だ。城や国の枠組みがなくても生きていける一般大衆が存在する。城=国の主[権力の中枢]は奢れる者たちになっていく。城=国が敗れて、崩壊しても民は生きる。

『同化と異化』『弁証法』はわたしにとって沖縄の舞台芸術史を見る時の鍵になっている。そして言語であり音楽だが、8886のリズムが核[コア]で在り続ける。それが沖縄の独特な文化(エスニック・カルチャー)の中心で脈打っているようだ。

これは印象批評で、もっときちんと分析する必要があるかと思う。比較表象論として、大城立裕さんや嘉数道彦さんの作品はしっかり論じられるべきだろう。まだ舞台化されていない作品がたくさんあるのね。大城さんの作品にしても上演されていない新作組踊がある。各地域で取り組まれてもいいね。

帰り際、嘉数さんに「あなたは天才です」と思わずことばをかけていた。「みなさんのおかげです」と嘉数さんはいつでも謙虚だ。お隣に節子先生がいた。伊平屋島(?)で『中城情話』などを演じて駆けつけてきたのだという。沖縄を代表する舞踊家の情熱にいつでも感銘を受ける。タクシーでぎりぎりで駆けつけ、帰りはほとんど入ったことのない「すき家」で定食を食べ、琉球大行きのバスで大学に戻った。雪が降ると予想されている今日、宜野湾市長選の結果が気になっている。

 

 

 


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