「姉妹敵討」や「忠孝婦人」とも異なり、女性たちが敵討に参上。琉球王府時代に異性装は注目を惹いたことが推測できる。ありえないキャラクターの登場は、姉妹敵討はあきらかに当時の日本国からの翻案で、しかし同様にリアルにはありえない物語を仕組んだようだ。フィクションなり物語は時空を、境界を越えていく事例とも言える。
「歌舞伎の元祖は、出雲阿国(いずものおくに)という女性が創始した「かぶき踊」であると言われている。 彼女は男装で踊っている。異性装束に魅了される人間の好奇な眼差しは古来からだろうか~。阿国の登場は何と1603(慶長8)年、薩摩が琉球に侵攻した年だ。
当時の琉球の芸能はどんな風情だったのだろうか。シヌグにみられる素朴な手踊り(神女の舞)が当時すでに祭祀芸能の中に組み込まれていたのだ。そして三線がすでに一般庶民の中にも浸透していた時代だ。
土方を研究している慶大教授から沖縄芸能のコアは何かと聞かれた時、音楽だと答えたのだが、土方研究者は日本の場合は身体表出だと強調されたかったようだった。言葉(祝詞)はどうなのだろう。祭祀芸能にはしかし祈りと共に祝詞(それが音楽的で~)そして身体が感情や思いを表出したのだ。祈りと祝詞と踊りは一体化している。
祈りの主体は神女たちだった。元来琉球舞踊は女性たちの祭祀芸能が発端になっている。
「琉球の音楽は祭祀芸能から発展。14世紀に中国から三線(サンシン)が伝わり、歌や踊りに影響をあたえた。18世紀には琉球音楽の楽譜である「工六四(クルルンシー)」や「工工四(クンクンシー)」がつくられ、もともとは王朝だけで使われていた三線も庶民にまで広く普及した。」と県はネット上で紹介している。
身体表現を好む民族性ゆえに、各間切(村落)で自由な形態の踊りがなされていたと想像できる。島々を含め数多くの民俗芸能が残されている。