志情(しなさき)の海へ

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12月4日、糸満の門中墓の洗骨儀礼を見て、県埋蔵文化センターで2万年前の遺骨や貝殻・陶器類を見る!

2020-12-05 11:01:12 | 沖縄の過去・現在・未来
親鸞が遺骨を犬に魚に食べさせろと話した、という言辞が気になっていた。遺骨とはわたしたちにとって何だろう。戦前は土葬だったので、1周忌か2周忌前に骨を墓から出してきれいに洗って戻す習慣(儀礼)があった。火葬の現在は?

大きな墓が開けられ、骨壷に入って骨が頭を中心に出され、酒で手を洗った家族が骨に触れる。頭蓋骨はない。頭の骨の欠片が白い敷布のテーブルの上の方に置かれお酒がかけられる。戦前だと皆で実際の骨を洗ったのだ。サンがお墓を開ける時も閉じる時も使用される、厄払いである。仏教の場合は使われない。あくまで沖縄の先祖崇拝の儀礼においてよく見るサンである。同行していた糸満の方は以前は葬儀屋さんが主導していたが、昨今は親族で儀礼がなされるようになっているとのことだった。ロータリー近くでは2つの門中の洗骨儀礼、催しがなされていた。旧の10月20日と決まっているようだ。来年もまた旧10月20日には同じような光景が見られることになる。大きな幸地門中墓の洗骨儀礼を拝見したい。糸満市史を読めばこの間の洗骨儀礼についてもある程度の知識は得られるだろう。糸満への関心のテーマは他のところにあり、糸満という琉球王府時代からの豊かな漁業の街は何かと注目されている。

宜野湾から同行したのはOさんと、そして現地でKさんに合流した。洗骨された遺骨は大きなお墓の中の納骨池に入れられ先祖の遺骨といっしょになるとのことだった。A門中墓で1時間ほど、立ちあって、道向いのやはりB門中墓の洗骨にもかろうじて立ちあった。3人で海の公園に行った後で糸満ファーマーズで野菜と花などを買い、沖縄そばをたべて戻った。Oさんを宜野湾まで送った帰りに埋蔵文化財センターに立ち寄った。古代の遺骨や遺物が展示されている。20周年記念展示について広告を見ていた。2000年前ごろのお墓や食べ物、シャコガイなどの装飾品、水字貝や宝貝が並んでいる。2万7千年前の石垣島の白保で見つかった骨も展示されていた。若い学芸員に「骨ってなんでしょうね。なぜ遺骨をこんなに大事にしたんでしょうか」などと尋ねた。蘇ってほしいという願望などもあったのでは、のような応えだったが、死者への弔いもそうだが、哀悼の気持ちを大事にする思いが、遺骨を大事にし、思い出すためだろうか。お墓が大事にされるのは、遺骨を大事にするという事になるのだが、3万年前からの遺骨が掘り出されるという事は、死は特別のもので、遺骨も大事にされたという結論になるのか。残された遺骨は集団なりコミュニティーの特別な存在で、一般の人々はどう逝ったのだろうか。『死と啓蒙』(平凡社、1989年)の本がネットで紹介されていた。←どうも18世紀フランスについての研究のようです。ただ沖縄は民俗学の研究は盛んなので、詳細は書籍として読めると思う。

『死の民俗学―日本人の死生観と葬送儀礼』 (岩波現代文庫) (日本語) 文庫 – 2002/4/16山折 哲雄 (著)←これがお勧めだろうか。
 
この間個人的に深く追求していなかったのは事実だ。沖縄のハトビス(習俗)をそのまま当然のように受け入れているだけで、父は生存中になかなかいい破風墓を建造した。ネットで見るとやはり沖縄は琉球王府時代に王家を中心に破風墓や亀甲墓が建立されている。母の実家も大きな亀甲墓がある。しかし後継者問題が解決しない状態で古い墓はそのままの状態だ。廃藩置県以降に一般庶民はお墓の建立が許されたのが事実ならば、間切での弔いはどうしていたのだろうか。いろいろと疑問が湧いてくる。
 親鸞は位牌も納骨ももちろんお墓も認めていなかったという広島の知人の話しが気になったままである。『最後の親鸞』他を読もうと思いつつ、脳裏にこの遺骨やお墓が意識されたままだ。
埋蔵文化センター入り口に積まれた貝の山

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